第一部 11


 昭和五十八年


 六年生になった恵子に背を抜かれました。嬉しいことだけどなんだか悔しい。そりゃ私は背が低い方だけど、小学生のうちに抜くことないのに。これから中学に入って、何かスポーツでも始めたらさらに伸びるのかな? あんまり背が高くなり過ぎたらお嫁さんにもらってくれる人が見つからないかも。そんな不安も芽生え始めているのに、当の恵子は夏休みに入ってからゴロゴロ寝てばかり。私がアルバイトに行って留守なもんだから、ほんとにいいように寝ている。寝る子は育つって言うのに、それ以上育ってどうするのよ。


 八月に入った本当に暑かったその日、喫茶すみれでママは高校野球をテレビ観戦中。私がカウンターで秋子さんとおしゃべりしていた四時前でした、サキちゃんが来たのは。

「いらっしゃい、アイスコーヒー?」

走ってきたのかな? サキちゃんは汗をびっしょりかいていました。それに、お店に行くまでそんなに時間はないと思うのに、そんな格好はしていませんでした。小さいけれど、旅行にでも行くような鞄も持ってるし。

「こんにちは」

と、ママと秋子さんに声を掛けてサキちゃんが私の前に来ます。

「ちょっと話いい?」

そして息も荒くそう言います。

「うん、なに?」

そう返しながらサキちゃんにお水を出しました。サキちゃんはそれを一息で飲んでから話し始めます。

「今、コウちゃんから電話あって、ちょっとまずいことになったって」

「えっ?」

「で、私に家にいるなって、店にも行くなって」

「どういうこと?」

何を言ってるのか分からなかったのでそう聞きました。でもサキちゃんはこう続けます。

「あんたも、しーちゃんも一緒。だからどっかに隠れなきゃ」

「ちょっと、何の話?」

また聞きました。でもサキちゃんはそれも無視。

「ケイちゃんは? 一緒じゃないの?」

「うん」

「なんで、家?」

「うん」

「すぐ連れ出した方がいいと思う」

「だから何で?」

「いいから」

ほんとに何のことか分かんない。でもサキちゃんの焦り方は普通じゃない。どうしよう、と思っていたら、

「とにかく一旦家帰ってケイちゃん連れといで」

と、ママが言ってくれました。

「でも」

「いいから。今夜はうちにでも泊まるつもりでその用意もしておいで」

なんだかママの声も怖い。そして、

「そうした方がいい」

と、秋子さんまで怖い顔で言います。

「分かりました」

私の中にもなんだか焦りと恐怖が湧いて来てそう答えました。

 ろくに説明もできないままお泊りの用意をして恵子を連れ出しました。まあ、恵子はなんだか嬉しそうだったけど。そして喫茶すみれに戻りました。するとママがすぐに恵子を二階に連れて行ってくれます。私はもう事情を聞いたから、と言って。

 カウンターに入って隅の席に座るサキちゃんに聞きました。

「何があったの?」

「ヒトシがお店のお金くすねたらしいの」

サキちゃんがそう切り出します。ヒトシと言うのは紘一さんの友達。マサさんと紘一さんの仕事を手伝っていた人です。

「えっ?」

「それもかなりの金額」

「……」

「それが今朝分かって、ヒトシを問い詰めようとしたら逃げたんだって」

「それでなんで私達が?」

「お店のお金って会社のお金なわけでしょ?」

「うん」

そう言われても分かりません。

「その会社って後藤さんの会社よ」

「うん」

それは知っています。今マサさん達がお守しているお店は、本来敵方の会社が仕切っているところにあります。そしてその会社の今の責任者は後藤さんです。昔パープルにいて、マサさんと当時のマネージャーに追い出された後藤さんです。

「分かんない? 後藤さんはマサさんに恨みがあるでしょ? コウちゃんも知らない仲じゃない。だから二人もグルだって言って、二人のことも追ってるのよ」

「えっ?」

「三人グルになってお金を持ち逃げしてるって」

「そんな」

「だから、ヒトシを捕まえるまで隠れてろって、コウちゃんが」

「えっ、マ、マサさんは?」

「聞いてないけど、探してるんじゃない? ヒトシを」

「……」

マサさん達がヒトシさんを見つける前に、マサさん達が後藤さんに捕まったら。そう思うとほんとに怖くなってきました。

「ごめんね、しーちゃん」

「えっ?」

「コウちゃんがヒトシなんて仲間にしたから」

「そんな、紘一さんの所為じゃないじゃない」

「ううん、ヒトシって前もそうだったみたいなのよ。そう言う奴だって分かってたのよ」

「えっ、どういうこと?」

「前にいたとこでもお金に手を出したって。それで追い出されたのよ」

「そうなの?」

「だからあいつ、指一本なかったでしょ?」

「えっ? ごめん、私、会ったことないから知らない」

「そっか、まあ会わなくて良かったよ、あんな奴」

サキちゃんがそう言ったところでお店のドアが開きました。こんな時にお客さん来ないで、と思ったけど秋子さんでした。

「ちょっと思いついたんだけどいい?」

入ってくるなり秋子さんがそういいます。

「ええ、でも、秋子さんお店は?」

「ああ、バイトの子が来たから任せて来た」

「そうですか」

「思いついたって何ですか?」

私に続いてサキちゃんがそう聞きます。

「あんた達、今夜はうちに泊まらない?」

「えっ?」

「四人が寝るには狭いし布団もないけど、冬じゃないから何とかなるでしょ」

「でもなんで?」

「ここはあんたが働いてるところだって知られてるかもしれないわけでしょ?」

そんな、ここまで誰か来るかもってこと? そう思っていたら、

「私もその方がいいと思う」

と、奥への扉が開いてママが入って来ました。私がその顔を見ると、

「ケイちゃんは大丈夫よ。テレビでマンガ見てるから」

と言ってくれます。

「でも、ほんとにここまでこられたら……」

そう言いかけたらママがこう言います。

「大丈夫。私だって似たような世界のお店にいたんだから分かってるわよ」

「……」

「別れた亭主はしーちゃんの亭主と似たようなもんだったし。任せといて、家探しでも何でもさせてやるから」

「……すみません」

そう言うしかありませんでした。




 ことが起こってから何度も家に電話を掛けていたがつながらず、焦りながらもヒトシを探しまわっていた紘一。ヒトシが立ち寄りそうなところを一つ一つ当たっていた。頼りそうなところを一つ一つ。でも、自分自身も後藤の所の連中が探し回っているのを知ったので動きにくくなるばかり。ヒトシを見つける前に後藤の所に捕まったらタダでは済まない。

 ヒトシは店のあがりに手を付けた。それも普通の店ではなく、違法でやっていた賭場のあがり。それは当然自分たちの所のものだが、その店は後藤の所のシマの中にある。なので後藤の所にも取り分がある。賭場のあがりはスナックなんかとはけた違い。その大きな金は後藤たちもあてにしている。それがなくなったなんて、あいつらがタダで許してくれるはずもない。

 元々賭場の話を持ち込んだのはヒトシ。そしてその店のお守も自分でやると言い出した。元から賭場のあがりが大きくなった頃にこうするつもりだったんじゃないかとさえ思えてくる。

 高校を退学になってからつるんだグループで知り合ったヒトシ。悪賢いだけの臆病者、だけど同い年なので仲良くなった。そんなヒトシを仲間に入れたのは紘一。その所為でマサにまで迷惑を掛けるかも知れない。

 そんなことでも焦り始めた頃、一人の男を見つけた。探していたけど見つからなかったおしぼり屋の若い奴。ヒトシと仲の良かった奴だ。

 そいつを見つけたのは笹島の交差点近くのレンタカー屋。車に乗って出てくるところだった。その車は運よく自分の方に走ってくる。紘一は車道に出てその車を止めた。

「ジュン、どこ行くんだ?」

車の前に立ちはだかってそう声を掛けた。

「松本さん、チァーッス。どうしたんすかこんなとこで」

ジュンと呼ばれた男がそう返す。

「まあいい、ちょっと乗せろ」

紘一はそう言って助手席の方へ。

「いや、ちょっとまずいっす」

そう言うジュンを無視して助手席に乗り込んだ紘一。

「いいから出せ」

そう言って車を出させました。

 少し走ったところで車を止めさせた紘一。

「これ借りたのか? どっか行くのか?」

そう尋ねました。

「ええまあ、ちょっと」

「ちょっと? ちょっとなんだ?」

「いえ、まあ、その……」

「どこ行くつもりだったんだ?」

「それはその……」

「ヒトシの所か?」

「……」

ジュンの顔色が変わり俯きました。

「お前、ヒトシが今どういう状況か分かってんのか?」

「……」

「ヒトシ捕まえるために何人が動いてるか分かってんのか?」

「……」

「おいジュン、ヒトシに手ぇ貸してるとお前も捕まるぞ」

「そ、そんな……」

「捕まるとタダじゃ済まない、分かってんだろな」

わざと強い調子で言いました。

「い、いえ、俺は……」

「なんだ?」

「そ、その、頼まれただけですよ」

「何を?」

「く、車、借りて来てくれって」

「ヒトシにか?」

「は、はい」

見つけた、と、紘一は確信しました。

「ヒトシはなんて言ったんだ?」

「車借りて来てくれって」

「で?」

「明日中にどこに乗り捨てたか連絡するから回収してくれって」

「それで?」

「それで、……二十万くれるって」

「それだけで二十万もか。お前、危ない話だって思わなかったのか」

「で、でも、二十万って言うから」

「バカかお前」

「す、すみません」

紘一は財布を取り出しました。そして中から三万取り出します。

「車代と日当だ、足りるだろ」

「えっ?」

「これ、ヒトシんとこに持ってくんだろ?」

「はい」

「それまで俺の言う通りにしろ。そしたらお前は帰っていい」

「わ、分かりました」

 その後公衆電話で車を止めさせ、紘一は事務所に電話しました。ジュンから聞いたヒトシの居場所をマサに伝えてもらうために。お互い外を探し回っていたので、そうやって連絡を取り合うことにしていました。

 マサへの伝言を終えた後、紘一はもう一度家に電話しました。やっとサキが出ました。紘一は事の成り行きをサキに告げました。そしてしばらく身を隠すように言いました。もうすぐヒトシを捕まえられる、そう思ってはいたけど、その前に後藤の所の連中が自分を捕まえるためにサキの所に行くかもしれない。そう思ってそう言いました。そして、マサの家族にも伝えるようにと。


 ヒトシは女の所にいました。場所は堀田の駅近くのアパート。近くまで来てからもう一度事務所に電話。伝言はまだマサに伝わっていない。今からヒトシに会う、そう伝言を付け足して電話を切りました。

 アパートの前に車を止めさせ、ジュンと一緒に紘一は降りました。玄関でヒトシを呼び出し、扉が開いたらジュンの仕事は終わり。車に乗ってそのまま帰るように言いました。

 玄関扉横の呼び鈴を押し、

「ヒトシさん、ジュンです」

と、ジュンが声を掛ける。しばらくして、

「一人か?」

と、扉の向こうからヒトシの声。

「はい」

ジュンがそう答えると扉が開いた。薄くではなく半分くらい開いた。紘一はドアノブを掴んで一気に引き開ける。

「ヒトシ!」

そしてそう怒鳴りました。

 紘一を見て部屋の中に駆け戻るヒトシ。

「お前、なんで、汚ねえぞ」

そんなセリフを言いながら。

 紘一は部屋の中に入って行く。そこは悪趣味なくらいかわいらしいもので溢れた部屋。女の部屋と言うより、女の子の部屋だった。そしてそこにいた女も、まだ少女と呼ぶべき見た目の女だった。いや、実際まだ少女って年だろう。ヒトシの後ろで震えている。

「な、何しに来た」

ヒトシがそんなことを言ってくる。

「分かってるだろ」

「なにが」

「俺やマサさんだけじゃない、後藤の所もお前を探し回ってんだぞ」

「だ、だから」

「お前、殺されるぞ」

「……」

見開いた目を泳がせるヒトシ。

「金返せ、そしたら半殺しくらいで済む」

「い、嫌だ」

「あのなあ……」

「見逃してくれ、ひゃ、百万やる。お前に百万やる、だから」

「ダメだ」

「なんで、二百、いや、三百でもいい」

「ダメだ」

「なんでだよ」

「そんな金で死ねるか」

「し、死ぬって、逃げればいいだろ。俺はこいつと逃げる。遠くに、見つからないところに逃げる」

「逃げれるわけないだろ?」

「なんで、そうだ、一緒に逃げよう。お前の女も連れて、一緒に、な」

「無理だ。死にたくなかったら金を返すしかない」

紘一は冷たく言いました。ヒトシは言葉を失くし、また目を泳がせるだけ。

 やがてヒトシがまた口を開きます。

「嫌だ、俺は嫌だ、俺は逃げる」

そう言うと部屋にあったボストンバッグを抱え上げます。そして背中にしがみついたままの少女と共に玄関に向かおうとしました。紘一はその前に立ちはだかりバッグを掴みます。

「いい加減にしろ!」

「どけ!」

 そこからは男二人がバッグを掴んだままの殴り合い、蹴り合いとなりました。どちらも何度か倒されながらもバッグから手を放さず続きます。少女は部屋の隅に直立不動となって震えている。

 やがて紘一がヒトシを投げ飛ばすように振り払いました。ヒトシは台所へ転がります。紘一は振り払った時に取り落としたバッグを拾うために背を向けて屈む。その紘一の脇腹に包丁が刺さりました。深く深く刺さりました。その包丁を握っているのはヒトシ。

「お前、お前が悪い、お前が、お前が」

紘一から抜いた包丁を握ったままヒトシがそう言います。そしてヒトシはバッグを拾おうとしました。紘一は床に転がっていたガラスの灰皿を手に取り、ヒトシのすねに叩きつける。でもそれが紘一の最後の力でした。ヒトシは足の骨を砕かれ、大声で喚きながら床を転がりました。そして、全て終わりました。


 マサが伝言を聞いてヒトシが隠れているアパートに着いたのは、紘一に遅れること一時間でした。そして、正確にはそのアパートに辿り着くことは出来ませんでした。なぜなら、その時アパートは警察に囲まれていたから。

 そんな中でマサはヒトシを見つけました。寝かされたまま警察官と一緒に救急車に乗るところでした。何があったのかは分からないが、紘一とヒトシの間で何かあったのは確か。でもこの騒ぎの中で自分が警察官に聞いたりしたら厄介なことになりそうだ。でも何があったのか知りたい。紘一がどこにいるのか知りたい。

 マサはパトカーの中を覗いて回りました。紘一が捕まっているかもと思ったから。でも姿はなし。そのうちやじうまの会話が耳に入りました。

「ほんとに人殺しなの?」

「ええ、男の人が刺されたみたいよ」

「ええ? 死んじゃったの?」

「多分、警察の人が一人はもう死んでる、とか言ってるの聞こえたから」

刺された、紘一が? そうとしか考えられない。紘一が死んだ? 嘘だろ? そんなことあるわけねえだろ? その後、マサの耳には何も入りませんでした。


 日暮れまでアパートの近くを離れることが出来なかったマサ。おかげで紘一が死んだという事実がはっきり確認できました。

 自分が仕切っている名古屋駅裏のスナックまで戻って来たマサ。店の奥に閉じこもってウィスキーを煽っていました。紘一を死なせてしまった。夕方からそれしか頭にありませんでした。それをウィスキーで流して消そうかというように飲んで、眠ってしまいました。

 酔っぱらった客達の大声で目覚めたマサ。フラフラする足で奥から出て、そして店も出ました。繁華街の外れの路地をフラフラ歩く。目的地があるわけでもなく歩いていました。そんなマサの前に男が三人現れました。

「紘一、死んだらしいな」

マサにそう声を掛けたのは後藤でした。声で後藤だと分かったけど、マサは顔を上げてその顔を見る気はありませんでした。

「可哀そうによ」

そう言いながら後藤がマサに近付きます。そして後藤が連れていた若い二人の男がマサの左右に立ちます。

「で? ヒトシは捕まったって?」

後藤はそう言うがマサは答えない。

「サツに捕まったってことは、金はもう戻って来ねえなぁ」

「……」

「それにヒトシがしゃべっちまうだろうからあの店も終わりだ。どうしてくれるんだ? 店がなくなっても今まで通り納めてくれるんだろな」

「……」

「その辺の話しようや、ちょっと顔貸してくれ」

後藤がそう言うと、マサの両脇の男がマサの腕を抱えて顔を上げさせます。

「好きにしろ」

マサが初めて後藤を見てそう言います。そのマサの顔を見て後藤がこう言う。

「まあ、お前じゃどうにも出来ねえだろな」

「……」

「お前の女、マリだったか、あいつももう若くねえが、あいつならまだ売れそうだな」

「何?」

マサが後藤を睨みます。

「それによぉ、お前の娘、もう何年かしたら高く売れる体になりそうだ」

「てめえ」

「心配するな、最初の味見は俺がしてやるからよ」

その後藤のセリフを、マサは最後まで聞いていませんでした。

 マサは右側の男の身体を身体で押しました。そして走るような勢いで壁に叩きつけました。それで自由になった右手で、今度は左側の男の顎を下から突き上げました。男は宙を飛ぶように後ろに倒れます。

「後藤!」

そして後藤の方を睨みます。でも後藤は早くも後ろ姿、逃げ去って行くところでした。後を追おうとするマサ。でも壁に叩きつけた男が掴みかかってきました。その男を振りほどき、地面に転がして蹴り上げた頃にはもう、後藤の姿はありませんでした。




 秋子さんのお店の二階で、恵子とサキちゃんと夕食を食べました。食後一時間もすると、たっぷりお昼寝しているはずの恵子がもう眠た気。そして放っておいたらすぐに寝てしまいました。私はその姿を見てからサキちゃんに言いました。

「私、家に戻る」

「えっ?」

驚くサキちゃん。

「うちでマサさんからの連絡待つ」

「ダメだって」

 サキちゃんからは紘一さんとこれから連絡を取る手段を何も決めていないと聞かされていました。つまりそれは、ここにいても何も分からないと言うこと。マサさんのことも紘一さんのことも。騒ぎがどうなったか、終わったのかどうかさえ。なら、私が家に戻ってマサさんからの連絡を待つしかない。そう思いました。何も分からないのが一番怖かったし。なのでそう言うことを言ってサキちゃんを説き伏せました。

「なにか分かったらここに電話するから。恵子お願いね」

そう言って秋子さんの所を出ました。


 自宅の周りに誰もいないか窺ってから部屋に入りました。そして電気も付けず、台所のテーブルのイスに座っていました。閉め切っていた部屋の中は暑かったです。でもクーラーをつける気にも、窓を開ける気にもなりません。音のない部屋の中で時計の音だけ聞こえている。その音の方、時計を見ると九時過ぎでした。ニュースやってるかも、そう思いました。マサさんや紘一さんのことがニュースで分かるなんて思っていなかったけど、とにかく何か知りたかった。音のない暗闇が嫌だった、そんな気持ちでテレビをつけました。

 それはいきなりでした。

『……松本紘一さん三十四歳が腹部を文化包丁で刺されて……』

飛び込んできたアナウンサーの言葉、一瞬理解できませんでした。刺された? 誰が? 松本紘一? それ誰? 紘一さん? まさか、紘一さん?

 ニュースは繰り返されました。刺したのはヒトシさんで、その場でもう捕まっている。刺されたのは、……紘一さん。そして、そして、そして無情にも、死亡、と、伝えている。

 嘘でしょ? なんで紘一さんが死ぬの? 信じられない。紘一さんが死んだなんて信じられない。そんな思いで次の話題を報じるテレビのチャンネルを変えました。でもそのニュースはどのチャンネルでもやっていませんでした。

 紘一さんが死んだ。そのショックでしばらく動けませんでした。でもそのうち、サキちゃんは? と頭に浮かびます。サキちゃんは知ってるの? と。

 秋子さんの所の二階にはテレビがありませんでした。ひょっとしたらサキちゃんはまだ知らない。電話機に飛びつきました。

 電話はお店にあるので秋子さんが出ました。

「秋子さん、紘一さん、紘一さんが刺されたって、死んだって」

いきなりそう言ってました。

『ええっ? 何? 静?』

「テレビでそう言ってた、紘一さんが死んだって」

『ほんとなの?』

秋子さんはそう言ったあと誰かに、テレビつけて、と言っています。

「サキちゃん、サキちゃんに教えて」

『分かった。って、あんた、今どこにいるの?』

「家です」

『ええっ? 帰ったの?』

「マサさんから電話あるかもと思って」

『そっか、分かった、気をつけなさいよ』

「はい」


 電話を切ってからテレビにかじりついて、ずっとニュースを追っかけていました。そして、更に二回そのニュースを見ました。更に二回、紘一さんが死んだことを確認しました。

 マサさんは? マサさんはどうしたの? 当然だけど、ニュースにはマサさんの名前は出て来ません。でもそれが不吉なことのように感じられてきました。紘一さんやヒトシさんのことにはマサさんも関わっている。なのになんで何も分からないの? そんな思いでした。

 そんな思いでいたら玄関から音が。ガチャガチャとドアノブが回される音。咄嗟にテレビを消しました。誰が来たの? と思いながらそろそろと玄関の方へ。すると声が聞こえました。

「お母さん、いないの?」

恵子の声。慌てて玄関を開けました。

 暗い玄関に恵子を引き込み扉を閉めます。鍵を掛けチェーンも。

「どうしたの? なんで電気つけないの?」

恵子がそう聞いてきます。でも私は恵子の手を取って奥に入りながら、

「なんで帰って来たの」

と、ちょっと強く言ってしまう。

「だって、起きたら誰もいないし、なんか変だし」

「……」

サキちゃんは呼ばれて下のお店に行ったのでしょう。ひょっとしたらサキちゃんを呼びに来た声で恵子は目を覚ましたのかも。

「ねえ、なんで私置いて帰っちゃうの?」

なんだか泣きそうな声に聞こえました。

「ごめんね、すぐに戻るつもりだったから」

「ほんとに?」

「当たり前でしょ、恵子のことほったらかしにするわけないでしょ」

「うん、ねえ、電気つけよ、なんか怖いよ」

そう言う恵子の手が震えているのに気付きました。思えば玄関で恵子の手を握った時から震えていたかも。恵子にしたら今日の大人たちの行動は異常でしょう。だから恵子なりに何かを感じ取って怯えているのかも。

「大丈夫、大丈夫だから」

そう言って恵子を抱き寄せました。

「何かあるの? 何かあるんでしょ? 教えてよ」

恵子がそう聞いてくるけど答えられない。答えられないので黙っていたら恵子が体を離します。

「お母さん、教えて、何があるの?」

「分からない」

そう言ってました。

「お母さんにも分からないの」

「なんで? お父さんは? お父さんは帰って来ないの?」

「分からない。だからお父さんからの連絡待ってるの」

そう言うと恵子が電話機の方を見ます。

「電話掛かってくるの?」

「多分ね」

そうとしか言ってやれないのが情けない。

 恵子はパジャマのままで帰って来ていました。なのでそのままいつも通り自分の部屋の布団で寝かせました。私は電話機に近いテーブルのイスに。そして何が起こっているのか、起こったのか、考えようとしたけど、ダメでした。頭に出てくるのは紘一さんが死んだと言うことと、マサさんが今どうしているのかってことだけ。そしてそのまま、浅い眠りに落ちていました。

 電話の音に飛び起きました。慌てて受話器を取ります。恵子が起きた様子はありません。

「もしもし」

『静? ごめん、ケイちゃんがいなくなってる』

秋子さんの慌てた声でした。

「あっ、すみません、恵子、帰って来てます」

『えっ、ほんとに? そこにいるの?』

「はい、寝てます」

『そう、良かった。お店閉めて上がって行ったらいないからどうしようかと思った』

そっか、無用の心配させちゃった。恵子が帰って来た時に電話するべきだった。

「すみません、電話するの忘れてました」

そう返しながら時計を見ると十二時半でした。

『ううん、いいのよ、無事なら』

「ありがとうございます。あの、サキちゃんは?」

『ああ、ニュース見たあと出てった』

少し秋子さんの声が沈みました。

「えっ?」

『警察行くって。コウちゃんに会いたいんでしょうね』

「ですよね」

私の声も沈みました。

『それで、どうする? 今からまたこっち来る?』

秋子さんがそう言ってくれます。

「いえ、もう遅いですし恵子寝てますから」

『大丈夫? そこにいて』

「多分」

『分かった、何かあったら電話して。ううん、何かあったら迷わずすぐに警察呼ぶのよ』

「えっ?」

『何かあったらもう警察に頼るしかないんだから』

「わ、分かりました」

『ほんとよ、静が守るのはマサさんじゃなくて恵子ちゃんよ、忘れちゃだめよ』

「はい」

『じゃあ、また明日ね』

「はい」


 秋子さんとの電話のあと、マサさんのことを考えていました。ほんとに今どうしているんだろう? マサさんは紘一さんのこと知ってるのかな? マサさんは無事なのかな? 

 無事? と浮かんで思いました。ヒトシさんはもう警察に捕まってる。ということは、もう全て終わってる。もう何も問題はない。騒ぎの原因だったヒトシさんがもう捕まっているんだから、もうこれ以上何も起こらない。そんな風に思いました。そんな風に思って、勝手に安心していました。

 胸の中に安心の光が灯ったと言うのに眠気は来ませんでした。中途半端に寝ちゃったからかな。ううん、やっぱりマサさんの顔を見るまでは安心しきれないんだ。マサさんから、大丈夫だ、と言われるまでダメなんだ。

 椅子に座ったままそんなことを考えて一時間ほど過ぎた頃、玄関で鍵が開く音が聞こえました。続いて、ガチャン、というチェーンの音。マサさんが帰って来た、と思いながらも恐る恐る玄関に向かいました。

「おいシズ、寝てるのか? 起きろ」

と、マサさんの声。

「ごめんなさい、すぐ開けます」

思わず笑顔になって扉に飛びつきました。

「なんで家にいるんだ」

開いた扉から玄関に入って来たマサさんがそう言います。

「えっ?」

「しばらくどこかに隠れろってサキが言わなかったか?」

「えっ?」

また同じことを返していました。マサさんが帰って来た喜びに反して、マサさんの厳しい表情を見て、マサさんの乱れた服を見て、戸惑っていました。

「お前にも伝えろってサキに言ったと紘一は言ってたけどな」

台所の方に向かうマサさんがそう言います。

「そうだ、紘一さん、紘一さんが死んだって」

マサさんのセリフで紘一さんのことを思い出してそう言いました。

「知ってる。ヒトシにやられた」

「えっ、お父さんもいたの?」

「いや、間に合わなかった」

マサさんはそう言いながらヨレヨレになった上着を脱ぎ、ワイシャツも脱ごうとしています。そのワイシャツ、ボタンがいくつかなくなっていて破れているところも。

「どうしたのそれ、喧嘩したの?」

「後藤にからまれた」

マサさんはそう言いながら、洋服ダンスを開けてクリーニングしたワイシャツを取り出します。

「大丈夫なんですか?」

「俺は平気だ。それよりお前も出掛ける支度しろ」

ワイシャツを着替えたマサさんはズボンも脱ぎ、背広も一式クリーニング済みのものに着替えようとします。

「どっか行くんですか?」

「ああ、後藤達がここにも来るかもしれん」

どういうこと?

「なんで? ヒトシさん、警察に捕まったって」

「ああ」

マサさんは脱いだ上着のポケットから財布なんかを取り出し、着替えた背広のポケットに入れていきます。

「ヒトシさん捕まったのになんでまだ後藤さんが?」

そう聞いたけれどマサさんはこう言います。

「いいから早くしろ、恵子も起こして支度させろ」

そして洋服ダンスから鞄を出すと、その下の引き出しを開けます。そこはマサさん専用の所、見るなと言われているところ。中にはいくつか紙包みが入っていました。それをマサさんは鞄に入れていきます。

「嫌です」

そう言ってました。

「ああ? いいから言った通りにしろ」

マサさんが最後の包みを鞄に入れる前に開けました。そしてお札を一束取り出すと背広のポケットに突っ込みます。紙包みは全部お金だったの? 一体いくらあったんだろう、そんなものが家にあったなんて。

「嫌です」

繰り返しました。そして、

「なんでまだ後藤さんが来るのか教えてください」

と、続けました。マサさんが私を見上げます。そして私を見たまま立ち上がりました。

「ヒトシは金を持って逃げた。それが捕まったってことは金は戻って来ないってことだ」

「それで……」

「それだけじゃねぇ。これでやってたことがもう終わりってことだ」

「……」

「たっぷり稼いでた稼ぎ口がなくなったってことだ。後藤は俺達から吸い上げる金でいい顔してたからな。それがなくなるってんで回収しに来るんだよ」

「だったらそのお金、全部後藤さんに渡せばいいじゃないですか」

「ああ?」

「そんなお金なくてもいいです」

「バカやろ、このくらいの金で済むか」

「……」

黙っていたらマサさんがまたこう言います。

「早く恵子も起こして支度しろ。いつあいつらが来るか分かんねえんだぞ」

「どこに行くんですか?」

「分かんねぇ」

「……」

「あいつらと話がつくまでは見つからねえように転々としなきゃいかんだろな」

「……」

「心配するな、お前らは俺が守ってやる」

「嫌です」

またそう言ってました。私だけならついて行ったかも。でもそんな逃亡生活みたいなこと、恵子にはさせたくない。

「いい加減にしろ」

引っ叩かれました。でも私はマサさんを黙って見返しました。

「後藤はお前や恵子を売り飛ばすつもりだぞ」

売り飛ばす? 恵子まで? でも、

「嫌です。逃げるなら一人で行ってください」

「お前……」

また叩かれました。

「お願いです。恵子を巻き込まないで」

腕を取って引き倒されました。そして蹴られました。

「もう巻き込まれてんだよ」

「でも嫌。恵子は私達とは関係ない世界で育てたい」

マサさんが黙って私を見降ろします。

「だからお願いします、一人で行ってください」

「お前、後藤達に捕まったらどうするつもりだ。ほんとに売られるぞ。ひどい目にあうぞ、恵子も」

「け、警察呼びます。今から警察呼びます」

「警察だと?」

「全部話して守ってもらいます」

マサさんが俯いて目を閉じます。私は身体を起こして床に座りました。すると目を開いたマサさんが私の胸倉を掴みます。

「警察行って済むんなら俺は戻って来ねぇよ」

そして床に叩きつけられました。叩きつけられて蹴られました。

「俺一人身を隠すだけなら苦労はねえんだよ。俺が何のために戻ってきたと思ってんだ。後藤達がいるかもしれねえとこに、何で戻ってきたと思ってんだ。お前たちのためだろ」

そう言われると確かにそうなんでしょう。わざわざ後藤さん達に捕まるかもしれない家に帰って来たのは私達のためでしょう。でもそんなこと、もうありがたくない。私は恵子をもうマサさんの世界と無関係の所で育てたい。

 マサさんが蹴り続けて来る。頭を蹴られてなんだか気分が悪い。そして考えがまとまらない。痛い、って感覚に耐えているだけ。でもそのうち、耐えきれない痛みが左胸に走りました。耐えきれないほどの痛みが走ったのに声が出ない。やめてとも言えない。その後はどこを蹴られても左胸が一番痛い。と、マサさんが蹴るのをやめました。

 痛みをこらえながら辺りを見ると、隣の部屋の襖が開いていて恵子が立っている。すでに涙を流しながら震えて立っている。

「やめて、お父さん」

恵子が震える声でそう言います。

「お前」

と、恵子を見下ろして睨むマサさん。

「お母さん死んじゃうよ」

そう言う恵子を睨んでいたマサさんが少ししゃがみました。そして恵子と顔を合わせて近付きます。

「お前、お前は……、なんでだ……」

そう言って恵子の目を覗き込むマサさんの目から涙が。そしてそっと恵子を抱きしめました。

 私は声も出せずその姿を見ていました。しばらく恵子を抱きしめてからマサさんが体を離します。

「恵子、救急車の呼び方分かるか?」

「うん」

恵子の震えも涙も止まっていました。

「お父さんが出てったらすぐに救急車呼んで、お母さんを病院に連れて行け」

「分かった。お父さんどっか行くの?」

「仕事だ」

マサさんはそう言った後、私の傍にあったさっきの鞄を拾いました。その時私の顔を見ました。そして私の頭に触れながら、

「静、悪かった、許せ」

と、言います。そのまましばらく私の顔を見つめたままでした。

 やがて、

「じゃあな」

と、マサさんは立ち上がり、出て行きました。息をするのも苦しかった私は、その背に声を掛けることが出来ませんでした。




 お昼過ぎに病院で目覚めました。胸の周りに何かが付けられていて苦しい。呼吸に合わせてほんの少しだけどチクッとした痛みを左胸で感じます。

「二本ほどあばらが折れてるらしい」

右の方から声がしました。そちらを見ようとしたけど、首を動かそうとしても左胸が痛みます。ゆっくりと少しだけ右を向いて姿を探しました。窓にもたれるように寺嶋さんが立っています。部屋の中には寺嶋さんだけみたい。

「てっ……」

寺嶋さん、と言おうとしたけど、声を出すとまた胸が痛みました。

「俺は親戚ってことになってるから話し合わせといてくれよ」

寺嶋さんがそう言います。でも何のことか分からず寺嶋さんを見るだけでした。

「そう言わないとここに入れなかったからな」

今一つ何のことか分からなかったけれど小さく頷きました。頷いてから小さな声でこう聞きました。小さな声じゃないと胸が痛んだから。

「恵子は?」

寺嶋さんがベッドに近付いて来て教えてくれます。

「昔お前と一緒に働いてたって女が来て連れてった」

誰だろ、サキちゃん? いや、サキちゃんなら寺嶋さんは知ってる。なら誰? 秋子さん? まさか、後藤さんの所の人? 

「しばらく娘を預かってくれるらしいぞ。今はお前の家に着替えやらなんやら取りに行ってる」

寺嶋さんがそう言います。

「誰ですか?」

「名前聞かなかったなぁ。お前の勤め先の近くで店やってるって言ってたけどな」

秋子さんだ、良かった。

 恵子のことはこれでとりあえず安心。で、続けてまた聞きました。

「マサさんは?」

「あいつは警察だ」

「……」

紘一さんのことを説明に行ったのかな?

「自首した」

自首? なんで? マサさんも何かしたの?

「昨日、後藤の所の若いのに絡まれた時、あいつ、一人死なせてたんだ」

「……!」

「やっぱり知らなかったか、ニュースでも言ってるぞ」

「……」

「まあ、死なそうなんて気はなかっただろうから、打ち所が悪かったんだな。事故だ」

「……」

「それでも人殺しは人殺しだからな」

マサさんが殺人犯になった。ショックでした。そして俯いていたら寺嶋さんがまた話し始めます。

「俺はこんな話しに来たんじゃなくてそれを持ってきたんだ」

そう言う寺嶋さんが指す方を見ると、床頭台の上に小さな鞄が置いてありました。

「金だ、少ないけどな」

寺嶋さんを見ました。

「警察行く前にあいつ、事務所に寄ったんだ。で、金の入ったカバン置いていきやがった。俺の所に直接持って来てたら全部ここに持って来てやったんだけどな。事務所の連中に知られちまったから少しだけだ」

「……」

「まあ、治療費と当座の生活費にはなるだろ。警察にもそう言って見せてある」

「警察?」

「ああ、外にいるんだ。持って入るもの見せろって言うからよ」

「……」

「じゃあな、お前の目が覚めたら呼んでくれって言われてるんだ。だから俺はもう行くからな」

寺嶋さんはそう言うと出口に向かいます。向かいながら寺嶋さんがもう一言。

「それと、お前らはもう安全だ。心配するな」

「あり……」

そしてお礼の言葉が出る前に出て行ってしまいました。

 寺嶋さんと入れ替わりで警察の人が入って来ました。でも挨拶が終わって質問が始まる前に病院の人が入って来て中断。病院の人からは問診のあと、私の状態が告げられました。そして病院の人が出て行くと警察官から色々聞かれました。でも私は何も知らない。知りたいことだらけだけど何も知らない。なので、知りません、分かりません、を繰り返すばかりでした。

 警察の人が出て行くと、また入れ替わるように人が入って来ました。でもその二人は嬉しい人でした。

「お母さん、起きた? 大丈夫?」

と、恵子が駆け寄ってきます。そしてその後ろから秋子さん。

「うん、大丈夫よ」

「ほんとに? 痛くない?」

「大丈夫」

「うそ、なんか痛そうな声してる」

小さい声でゆっくりしゃべってるからそう感じるのかな。

「ごめんね、しゃべるとね、ちょっと痛いの」

「そうなんだ」

心配そうな顔をする恵子。

「でも、大丈夫よ。家に行って、きたの?」

「うん、警察の人がいた」

「そう」

「家の中ひっくり返してお父さんの物持ってった」

「そう。警察の人、もう、帰ったの?」

「うん」

「そう」

「ねえ、なんで? お父さんは?」

困った質問、でも答えるしかないよね。恵子がもう少し子供なら、何か言いようがあるかもしれないけれどもうごまかせない、本当のことを言うしかない。

「お父さん、警察に、捕まったの」

「なんで?」

恵子が驚いたような、悲しいような、複雑な表情をします。

「昨日ね、お父さん、喧嘩したの。その時ね、相手の人が、死んじゃったの」

「殺したの?」

「殺すなんて、そんなつもり、なかったのよ。でも、死んじゃったって、聞いたから、自分で、警察、行ったのよ」

そう言うと秋子さんが口を挟みました。

「恵子ちゃん、お母さんしゃべるの苦しそうだから、何か飲み物買って来て」

「う、うん」

秋子さんはお財布から千円札を取り出して恵子に渡します。

「お母さんはお茶がいいかな? おばさんには何かジュース買って来て。恵子ちゃんも好きなもの買ったらいいから」

「分かった」

そう言うと恵子は出て行きました。

「これ、静の下着とか入れてきた」

と、秋子さんが手提げ型の紙袋を床頭台の上に置いてくれます。

「すみません」

「まあ、一人じゃ着替えらんないだろうけど」

「ですね」

今は上半身が固定されてるような状態なので着替えなんて無理です。それに、出来るだけ手も動かすなってお医者さんに言われたばかりだし。

「で、どうする? これから」

秋子さんが私の顔を覗きながらそう聞いてきます。

「……」

考えなければいけないんだろうけど、何も考えてない。

「二、三週間で退院は出来そうだって聞いたけど、退院しても安静が必要だって言ってたわよ。一か月や二か月は家事もダメだって」

「はい、私もさっき、そう聞きました」

「それと、住むところは? 今のところ、このまま住めるの?」

そうだ、あの部屋はマサさんの会社が借りてるんだ。ひょっとしたらすぐにでも出て行かないといけない。出て行かなくてすんでも、家賃を払うことになったら私の収入では無理だ。

「ごめんね、大変な目にあった直後にいろいろ言って。でも、早目に考えないといけないことだから」

「はい」

「当面、恵子ちゃんのことは心配しなくていいわよ、私が預かるから。幸い夏休みだしね」

「ありがとう、ございます」

「でも学校が始まったらちょっと自信ない。特に朝がね」

「はい」

それにその頃には私も退院しているはず。自分のことも何とかしないといけない。しばらくは家事もできないと言われ、自分のことすら満足にできないかもしれないのに。そうなったら私の面倒も秋子さんに見てもらうの? そんなこと絶対に出来ない。

 しばらく悩んでから口を開きました。

「あの、ちょっと考え、させてください」

「うん、もちろん。まだ時間はあるから焦らなくていいよ」

「すみません」

 話が途切れたところで、もう一つの心配事を秋子さんにまた聞きました。

「あの、サキちゃんは?」

「分かんない」

「えっ?」

「帰って来ないし連絡もない」

「そうですか」

「まあ、私、朝から出ちゃってるから電話してくれてても分かんないんだけどね」

「……」

「あの子もあんたがこんなことになって、ここにいるなんて知らないだろうし」

「ですね」

「まあ、今夜連絡なかったら、明日にでもあの子の家に行ってくるよ」

「すみません」

「なんであんたが謝るのよ」


 翌日、朝の回診が終わったばかりくらいの早い時間に、また面会の人が来ました。叔母さんでした。

「しーちゃん、大丈夫なの?」

と、ベッドの横に来ます。

「叔母さん、なんで?」

「昨日の夜、病院から電話があったのよ」

病院の人から親類の連絡先を聞かれて、叔母さんのところの電話番号を伝えていました。何かあった時のため、と言われてしょうがなく教えただけなのに。連絡するとは思っていませんでした。

「恵子ちゃんは? いないの? 一緒じゃないの?」

叔母さんが続けて聞いてきます。

「知り合いの所に、います」

「そう」

「あの、大丈夫ですから」

そう言ってました。すると叔母さんの声が少し大きくなりました。

「何が大丈夫なの」

「……」

「先に聞いて来たわよ、あんたのこと。二、三か月は動けないらしいじゃないの。退院しても安静にして、歩いてもいけないんでしょ? なのに何言ってんの」

「……」

何も言えませんでした。

「それに旦那さん、……捕まったって言うじゃない」

今度は少し声を落として叔母さんがそう言いました。なんでそんなこと知ってるの?

「看護婦さんが教えてくれた。もう、どういう人なの、旦那さん。あんたの怪我も旦那さんらしいじゃない」

「……」

また何も言えない。

「うちに来ない?」

「えっ?」

「恵子ちゃんと一緒にうちに来なさい」

「そんな」

「うちに引っ越してきなさい」

「ダメです、それは、ダメ」

「だったらどうするつもりなの、あんた、退院しても何もできないのよ。恵子ちゃんの面倒どころか、自分のこともできないのよ」

「……」

「うちに来たら何も心配ないから」

「……」

「あの広い家に今は私一人だから、あんた達が来てくれたら私も嬉しいから」

「えっ、俊介君は?」

叔父さんが亡くなってから、俊介君は叔父さんの会社の仕事をしていると聞いていました。なので家にいるものだと。

「あの子は駅前のマンション。うちは不便だからって」

「そうですか」

「ね、だからそうしよ、恵子ちゃんは転校することになるけどいいでしょ?」

「……」

「何を考えることがあるの。他に頼れるところがあるの?」

「いえ……」

確かに叔母さんの言うことが正解で最善。そう思います。でも、私は頷けない。

「静がもうあの家に戻りたくないって言う気持ちは分かるわよ。酷い思い出しかない家だろうから。でもね、もう大丈夫だから。恵子ちゃんのためにももう一度帰って来て、お願い。そして私にもう一度親代わりをさせて、今度はちゃんとするから」

「……考えさせてください」

そうとしか言えませんでした。


 今日、明日は忙しいからまた日曜日に来るわね、と言って叔母さんは帰って行きました。叔母さんは元々叔父さんの会社の仕事を手伝っていたので、叔父さんが亡くなってからは忙しいのでしょう。と言うか、本来は叔母さんの家の会社だし。

 叔母さんが言ってくれたことを考えていました。そして、考えれば考えるほど叔母さんの申し出を受けて、甘えるのが一番いいことだと思ってしまいます。恵子のためにもそれが一番だと。でも、私の中では受け入れられない。叔母さんが言ったように、あの家に嫌な思い出があるから、と言うわけではありません。いえ、それもあるけれど、思い出したくもない経験をしたあの場所に近付きたくない、見たくない、そういう思いはあるけれど、それ以上に関わりたくない気持ちがあります。そう、関わりたくない、関わってはいけないと言う思い。それは家ではなく叔母さん、そして俊介君。私にはその二人にしてしまったことがどうしようもないほどの負い目となって心の底に残っています。この思いは消せない。そのくらいのことを私はしてしまっている。なのでそこにまたお世話になるなんてこと、私の中では選択肢にさえならない。でも、今は恵子がいる。恵子も私に含めて考えたら、今の状況では選択肢にしないといけない。いえ、唯一の選択肢かも。

 そんなことをずっと考えながらお昼を食べ終えた頃、恵子が病室に来ました。

「どう? 気分いい?」

そんなことを言いながら私の傍に来る恵子。

「うん、いいよ。一人? 秋子さんは?」

「サキおばちゃんのとこ行った」

「そう」

「お昼、じゃなくて、ブランチ食べたら先にサキおばちゃんのとこ行くって言うから、私だけ先に来たの」

と言うことは、秋子さんもあとから来てくれるのかな。

「ぶらんち?」

「うん、朝ごはんとお昼ご飯が合体したご飯ってことだって、起きたの遅かったから」

そう言って恵子は笑います。

「変だよね、ブランチって」

と言って。

 しばらく秋子さんの所でどう過ごしているのかなどを恵子から聞いた後、こう言いました。

「ねえ、瀬戸の叔母さん、分かるよね」

「うん」

まあ聞かなくてもいいことなんだけど。叔母さんは一、二か月に一度はうちを訪ねてくれていたから。恵子にもいろいろ買って来てくれていたし。

「お母さん、しばらく動けないから、瀬戸の叔母さんの、家に行かない?」

「私だけで? いいよ、秋子おばちゃんのとこで」

「違う違う、これからずっとってこと」

「えっ?」

「お母さん、退院しても、しばらく何も、出来ないから。もう、瀬戸に引っ越そうかって」

「引っ越し?」

「そっ、瀬戸のおうちは、お部屋がいっぱいあって、広いとこよ」

「そうなの?」

「うん、お庭も広いし」

「そっか~、お母さんも一緒に引っ越すんだよね?」

「もちろん」

「じゃあいいよ」

あっさりしたものでした。

「ほんと? 叔母さんに、頼んでもいい?」

「うん」

「ありがと。じゃあ、夏休み中に、お引越しだね」

「えっ、そんなすぐなの?」

「だって、お母さん退院、しちゃったら、何もできないから。退院したらその、そのまま瀬戸の家に、行くようにしとかなきゃ」

「そっか」

「恵子は新学期から、瀬戸の学校だね」

「えっ?」

「だって、そうなるでしょ?」

恵子が沈んだ顔になりました。

「ヤダ、それヤダ」

そしてそう言います。

「転校するの、嫌?」

「うん」

「なんで?」

「だって、友達いっぱいいるし、ヤダよ」

そう恵子に言われると辛い。でもこう言ってました。

「向こうに行っても、友達出来るわよ」

「……」

「ね?」

「……ヤダ。お母さんだけ叔母さんのとこ行きなよ」

「えっ?」

「私、行かない」

「あんた一人、どうやって暮らすの」

「何とかする」

「あのね」

「出来ないことは秋子おばちゃんに頼む。ううん、サキおばちゃんもいるし、ママもいるし」

そこまで嫌なの?

「そんな、みんな仕事あるのに、ずっと迷惑掛けれない、でしょ」

「でも……」

「それに、今のおうち、お母さんじゃ家賃、払えないから、どっちにしろ、どこかに引っ越すん、だから」

「えっ、あそこ引っ越すの?」

「そうよ」

「いつ?」

「まだ分からない、けど、そんなに長くは、ダメ」

「ダメって、いつまで?」

「だから、分からない、けど、今月中、くらいかな」

「そんな……」

「分かってくれる?」

「……家賃払えるところ探してよ」

まだ納得してくれませんでした。

「お母さん、しばらく働けないのよ」

「じゃあ、働けるようになったら家賃払えるところ探して戻ってくる?」

「あんた、そしたらまた、転校するってこと?」

「うん」

そこまで離れたくないの?

「そんなこと、出来るわけない、でしょ」

「なんで?」

なんだか変な気分。一番瀬戸に行きたくないと思っているはずの私が、瀬戸に行きたくてしょうがないみたいになっている。

「恵子、今の友達は、引っ越しても友達だから。引っ越したからって、友達じゃなくなる、わけじゃないから。ね」

ズルいことを言ってる、と思いました。

「でも……」

「お願い、分かって」

恵子はしばらく俯いていました。そして何も言わないまま私に背を向けると窓へ。そしてそのまま外を見ているようでした。

 しばらくして恵子がベッドの傍へ戻ってきたと思ったら、右手を出してこう言います。

「お金」

「えっ?」

「お金頂戴、お菓子買って来る」

「ああ、そこ、床頭台の引き出し、お財布入ってる」

恵子がお財布を取り出します。

「いくら使っていい?」

そしてそう聞いてきます。

「いいよ、好きな物、好きなだけ買ってきなさい」

そう返すと無言で出て行きました。引っ越しのことに恵子が触れなかったのはなんだか不安です。

 やがて戻ってきた恵子。買って来たものを床頭台の上で広げますが、私の前のベッドテーブルにお茶の缶と水ようかんを置きます。

「お母さん好きでしょ、それ」

「う、うん」

「あっ、食べれない?」

「ううん、大丈夫、食べれるよ」

「そうじゃなくて、食べさせてあげようか?」

そっちを心配してくれたのか。

「ううん、大丈夫、ただ、開けてくれたらね」

「分かった」

そう言うと恵子が水ようかんが食べられるように開けてくれる。お茶の缶のふたまで開けてくれる。

「ありがと」

 恵子はベッド横のパイプ椅子に座って、ファンタオレンジの缶を開けて飲み始めます。もう一方の手にはクリームパン。何も言わず、なんだか気取った顔で食べている。何も言わないから、引っ越しのことは了解してくれたと思っていいのかな。


 二日後の日曜日、午後から叔母が来てくれました。ちょうど恵子と秋子さんもいました。そこで引っ越しのことを叔母さんに頼みました。恵子は嫌だとは言いませんでした。乗り気のようにも見えなかったけど。でも、今の家から何を持って行くかと言うことを恵子に説明するとちゃんと聞いてくれる。なので引っ越しは恵子と叔母さんに任せることになりました。

 話の最後でやっと恵子が反論。引っ越しは叔母さんの方で運送屋さんなどの手配が出来次第することになったのですが、引っ越しても私が入院している間は瀬戸に行きたくないと言い出しました。すると秋子さんが、それまでは私の所にいたらいいよ、と言ってくれて解決しました。


 八月八日、月曜日のお昼過ぎ、恵子が一人で病室に来ました。明日のお昼前に叔母さんと運送業者の方が、今の家を見に来ることになったと言います。その話のあと、恵子に改めて聞きました。

「ほんとに良かったの? 引っ越して」

今更だけど、やっぱりはっきり聞いておかないと。

「うん、いいよ」

笑顔でそう返してきます。ほんとに? と、念を押しそうになりましたがやめました。すると恵子がこう続けます。

「転校するってことは宿題やらなくていいんだよね」

「ああ、そうね、違う学校になるんだからね」

「やったー、って、半分くらいやっちゃったなぁ。なんか損した」

「こら、自分のためなんだから、やりなさい」

「え~~」

「提出しなくてもいいだけ、やらなくてもいい、わけじゃないから」

「は~い」

私の方を見ずにそう言います。やりそうにないな。


 三時半くらいで恵子が帰ってしばらくすると、初老の男の人が来ました。ワイシャツにネクタイ姿。手には上着と大きな黒革の鞄。誰だろうと思っていたら、マサさんの弁護士だと名乗りました。

 マサさんは人を死なせてしまったこと以外にも、傷害や営業法違反など、沢山のことで起訴されることになると告げられました。でも本題はそれではありませんでした。

 弁護士さんは大きな黒革の手帳から、折り畳んだ一枚の紙を取り出します。そしてそれを私の前のベッドテーブルに広げます。それは、離婚届の用紙でした。

「これは?」

そう聞きました。

「旦那さんから頼まれました」

そう言われて目の前の用紙にまた目を落としました。すでにマサさんの方の記入は終わっています。

「奥さんが同意で、記入していただけたら、私の方で代わりに提出しておきますよ」

冷たいセリフだけど、なんだか温かい感じの弁護士さんです。

「これ、主人が言い出したんですか?」

「はい、用紙を持って来てくれと頼まれました」

私はまた用紙を見ます。婚姻届けを目の前にしたときは胸がいっぱいになったのに、今は胸が苦しい、痛い。

「そして、必ず奥さんを同意させてくれと頼まれました」

弁護士さんがそう続けます。そんなことまで頼んだんだ。マサさんの中ではもう離婚が決定事項なんだ。と言うことは、もう私が何を言っても無駄なんだ。

 マサさんに蹴られてまだ腫れている左の眼から、涙が一筋流れました。

「分かりました。書きます」

そしてそう答えました。

 記入を終えた用紙を見て弁護士さんがこう言います。

「ハンコはなければこちらで適当に三文判押しておきますけど、それでいいですか?」

「あっ、はい、お願いします」

すると用紙を畳み始めます。そしてそれをまた大きな黒革の手帳にはさみながらこう言います。

「それと、今お住まいの所なんですけど、ご主人が言うには家賃の支払いがどうなっているのか分からないそうです。なんでも以前いた会社で契約したままになっているとか」

「はい」

「ですので、出来るだけ早くお引越しされるようにとのことで」

そう言われて思い付きました。

「あの、主人の会社の方で、寺嶋さんと言う方がいるんですけど、ご存知ないですか?」

「五十歳くらいの方で、スラっと背の高い、ちょっと怖い顔の方ですかね?」

弁護士さんがなぜだか少し笑顔でそう言います。

「はい、多分その方です」

「でしたら先日お会いしました。ご主人のことをくれぐれも、と頼まれました」

「そうですか。あの、その寺嶋さんと、連絡取れますか?」

「はい、名刺を頂きましたから」

「でしたらその、連絡を取って、いただけないですか? 出来れば、その、寺嶋さんに直接」

弁護士さんが首を傾げます。

「あっ、その、今の部屋なんですけど、なんて言うか、寺嶋さんが、内緒でして下さって、いるので」

「ああ、そう言うことですか。分かりました。では、寺嶋さんに直接連絡取りますね」

「はい」

「で、なんとお伝えしますか?」

「えっ?」

ここに来るように頼んでもらおうと思っていました。でもよく考えたら、寺嶋さんを呼びつけるなんて恐れ多いこと。

「あっ、そうですね、その、今月中には出て行く予定だと、お伝えいただけないですか?」

なのでそう言いました。

「分かりました。必ず寺嶋さんだけにお伝えしますから」

「お願いします。それと、今までありがとうございましたと」

「分かりました」

そう言って弁護士さんは立ち上がりました。そして、では、と、戸口へ向かいます。でも呼び止めました。

「あの、すみません」

弁護士さんが振り返ってくれました。

「さっきの紙なんですけど、その、提出する前に、主人に見せてください。それで、ほんとに出していいのか、もう一度主人に、聞いて下さい。私は、私が、主人の気が変わったのなら、出さなくていいと言っていた、と言って、もう一度聞いて、下さい」

「分かりました。必ずもう一度確認します」

弁護士さんが優しい笑顔でそう言ってくれました。


 弁護士さんが病室を出たところで誰かと話していました。お先に失礼しました、なんて言っている。何だろう、と思っていたらまた一人入って来ました。

「サキちゃ……」

思わず大きな声を出そうとして胸が痛みました。だって、騒ぎのあと秋子さんも会えず、連絡取れずで心配していたから。

「だ、大丈夫?」

胸が痛んで私が顔をしかめたので、サキちゃんが駆け寄ってきます。

「大丈夫じゃない、よ。心配したよ」

「ごめん、ずっと帰ってなかったから」

「そっか。秋子さんに会った?」

「ううん、このあと顔出してくる」

「あれ? ここのこと、誰から聞いたの?」

「玄関にメモが挟んであったの、秋子さんの。それにしーちゃんが入院したって書いてあったから」

「そっか」

「大丈夫なの?」

「う~ん、二、三か月は自分では、何もできないみたい」

「そんなに入院するの?」

「ううん、入院は多分あと、二週間くらい」

「そっか、でも、退院しても大変なんだね」

「うん」

「一緒に住む? 当然ケイちゃんも」

「えっ?」

考えなかった選択肢。

「うちも二部屋あるから。あんた退院しても何もできないんでしょ?」

「うん、でも……」

「よし、そうしよう。家賃二軒も払うの勿体ないからすぐ決めよう」

サキちゃんが私を遮ってそう言います。

「あっ、だから……」

口を開いたけどまたサキちゃんが遮ります。

「分かってるって、あんた働けないからとか言うんでしょ? 大丈夫、私の稼ぎだけでも十分生活できるから」

「そうじゃないって、ちょっと聞いて」

「何?」

「その話、もういいの」

「……」

「あのね、瀬戸に私の叔母さん、いるの知ってるでしょ? そこに引っ越すことに、したから」

「えっ、そうなの?」

「うん」

「……いいの? そこ行って。大丈夫?」

「うん」

「そっか、叔父さんはもう亡くなったんだったね」

私の過去の事情を知っているサキちゃんはそう言います。

「うん」

「分かった」

納得してくれたようでした。でも、叔母さんの話の前にサキちゃんが今の話をしてくれていたらどうなったか。ううん、やっぱり無理。サキちゃんの所で恵子と暮らすなんて、私には出来ない。だからこの選択肢は思いつきもしなかったんだ。

「紘一さんのお葬式、もう終わったの?」

ちょっとしてからそう聞きました。

「多分」

暗い顔になってサキちゃんがそう言います。

「えっ?」

「家の人が持ってっちゃったから」

「どういうこと?」

「コウちゃんね、実家、西尾なのよ。そこからご両親が来て、うちからもコウちゃんの荷物とか持ってっちゃった」

「それで、お葬式も向こうで?」

「うん、でも、来るなって言われた。うちには関わるなって言われた」

「そんな」

「なんか、私みたいなのが一緒にいたからコウちゃんが死んだみたいに言われて」

「ひどい……」

「私達ってそういう風に見られるんだよね、結局」

「……」

「なんかさぁ、コウちゃんの物がなくなった部屋にいると辛くて、部屋に帰れなくなってたんだ」

「そっか」

「はあ、引っ越そうかな、私も。コウちゃんの思い出がないところに」

「サキちゃん」

「しーちゃんが瀬戸に行っちゃうのがいい機会かも」

「……」

「ケイちゃんの顔とか見たら辛くなりそうだし」

「えっ?」

サキちゃんがまじめな顔で私を見つめていました。でもやがてこう言います。

「ううん、ごめん。無邪気な笑顔見ると辛くなるのよ」

「サキちゃん」

そう言うとサキちゃんがちょっぴり笑顔になってこう言います。

「ああそれ、そのうちなしにするから」

「えっ、それって?」

「サキちゃんっての」

「……」

何のことか分かりません。

「私、普通の仕事探すことにしたから。今度こそお店辞めることにするから」

「そうなの?」

「うん、もうこんな世界は嫌。普通の女になる」

「そっか、じゃあ、なみちゃんに、戻るんだね」

「ああ、なんか懐かしい、なみちゃんって呼ばれるの」

「私も」

 その後、高校一年の教室にでも戻ったように、二人で思い出話をしていました。お互いに一番良かった時間に戻っていました。


 数日後、弁護士さんがまた来てくれました。寺嶋さんとの話を報告してくれます。部屋の解約は九月末にするとのことでした。そして寺嶋さんが最後にこう言ったと言います。家賃ぐらい何とかしてやったのに、と。

 その話のあと、また大きな黒革の手帳から一枚の紙を取り出します。この前の離婚届でした。

「ご主人に奥さんの言葉は伝えました」

「はい」

「しばらく考えておられたようですが」

「……」

「結論は同じでした。すぐに出してくれ、と言われました」

「……そうですか」

「どうしますか?」

「えっ?」

「役所に提出していいですか?」

「……はい」

もうどうしようもない。そう返事するしかありませんでした。

「……分かりました。では、このあと提出しておきますね」

「よろしくお願いします」

これで私はまた、大西、に戻るんだ。

 弁護士さんは離婚届を仕舞うと、恵子の親権などの手続きもさせてもらっていいかと聞いてきました。なんでも、今回の事で必要な手続きを全部手伝うように寺嶋さんから頼まれたのだとか。費用は寺嶋さんが払うと言って。動けるようになったら寺嶋さんの所へお礼に行かないといけない。ううん、そんなことあの人は望まないな。迷惑がられるだけかも。感謝の気持ちだけずっと忘れないようにしよう。

 弁護士さんには当然、全てお願いします、と、頭を下げてお願いしました。




 引っ越しはお盆明けの金曜日でした。もちろん私は病室で寝ていただけ。恵子が私の言った物を全て引っ越し荷物に入れてくれたことを祈るだけです。なぜなら、私の退院前に残ったものを全部運び出す廃棄業者が入って、お掃除屋さんも入ると言うことだったから。何が部屋に残ったのか、私が確かめる機会はもうないから。


 八月二十九日、退院の日。病院から住んでいた部屋に寄ってもらいました。タクシーを降りて、そろそろとゆっくり歩きます。車イスを借りたけれど、階段は上れないので歩きました。あっ、瀬戸に行く前に、最後に一目見ておきたい、と、わがままを言ったわけではないですよ。寺嶋さんの会社の人が鍵を受け取りに来てくれると言うので寄ったのです。まあ、それだけなら階段を上る必要はなく、鍵だけ渡せばいいんだから、やっぱり最後に見ておきたかったんだけど。

 恵子が鍵を開けて先に玄関を入りました。私は叔母に支えられながら上がります。信じられないくらいきれいに掃除された部屋。そして、何も物がない広い部屋。思えばこの部屋のこんな状態を私が見たのは初めて。だって、私はマサさんが家具なんかを揃えた後のこの部屋に入ったから。でもこの何もない空っぽの部屋を見てもその時のことが思い出されます。何もかもピカピカの新しい住まい。そして優しい顔のマサさんが隣にいた。なんだか何もかもがワクワク感じられて、部屋以上にピカピカ輝いていた時間。恵子は十二歳になる。と言うことはもう十二年も前のことなんだ。

「恵子、あなたが生まれたところよ。よく覚えときなさい」

自分に言い聞かすようにそんなことを言ってました。

「え~、生まれたの病院でしょ?」

そんなかわいくないことを恵子が言う。

「それはそうだけど、あなたはここで育ったんだから」

「はいはい、分かってるよ」

そう言う恵子も、この前まで学習机があった辺りでイスに腰掛けるような格好をしたりしている。やっぱりこの子も名残惜しい気持ちがあるんでしょう。

「あんたここからベランダに何回落ちたか」

私はそう言いながらベランダへの掃き出し窓を開けました。

「ここから?」

恵子が横に来ます。

「そ、お母さんが洗濯物干してたら這って来て落ちるの」

「そんなことあったんだ」

「何回もあったわよ。急に足元で泣き出すから驚いて、あんたのこと踏んづけたこともあるわよ」

「ひどい」

そんなことを話しているベランダの下の公園で、小さな子供達とその母親達が遊んでいました。

「あんたともああやってよく遊んだわ」

恵子も下の公園を見降ろしていました。

 そのあとしばらくして男の人が来ました。寺嶋さんの会社の人。戸締りをして、鍵をお渡ししておしまい。寺嶋さんによろしくお伝えください、と頭を下げて別れました。タクシーに乗る前にもう一度部屋を見上げました。これでこことは本当にお別れ。マサさんともお別れ。さようなら、ありがとうございました。なんとなく、一礼していました。


 九月一日、木曜日、瀬戸に移った恵子の転校初日。普段大人ぶっているくせに、学校までついて来てと、朝になって言い出します。急に言い出したので叔母も都合が悪く私が行くしかない。学校への親としての挨拶は昨日済ませたんだけどな、叔母に連れて行ってもらって。

 出掛けるとなったら、それも小学校まで行って先生方に会うかも、なんてことになるなら着替えないといけません。最低限のお化粧もしないと。朝食後、すぐに出掛けてしまった叔母を見送ってから部屋へ行きました。叔母が私達に用意してくれた部屋は一階の奥。玄関や居間、台所のある家の中心部分から右奥の離れのようなところが叔母の部屋。その反対の左側です。階段の上り下りが今は厳しい私に配慮して一階にしてくれたのでしょう。私は右奥の離れには出来れば近付きたくない。そして、身体がなんともなくてもここの二階にも行きたくない。そんな私の気持ちにも配慮してくれた? ってことはないかな。

 一階の左側には三間続いて部屋があります。そのうちの二部屋に私と恵子がそれぞれ入りました。手前が私の部屋。その部屋で手早く化粧を済ませ着替え始めました。顔をしかめながらシャツを脱いでいたら、恵子の部屋との間の襖が開きました。するとそんな私の姿を見て恵子がこう言います。

「そっか、お母さん出掛けるの大変だよね」

「いいよ、初日ぐらい一緒に行ってあげる」

「う~ん、今日はお母さん、もう先生とかに挨拶とかないの?」

「うん、昨日、教頭先生と担任の先生にはご挨拶したから」

外出用のブラウスの袖に左手を通しながらそう言いました。

「そっか、ならいいよ、一人で行く」

「えっ?」

「お母さんゆっくりしてて、じゃね」

恵子はそう言うとさっさと出て行ってしまいました。転校初日、不安な気持ちがあったのだろうけど気を遣ってくれました。でも、だったらお化粧する前にしてよ。と思いながら、申し訳ない気持ちになりました。




 お医者さんからは、まだ当分無理はしないように、なんて言われているけれど、十一月も半ばを過ぎるころにはすっかり元通りの身体に戻ったような感じです。おかげで普通に家事もこなせるようになったので、叔母さんに迷惑を掛けることもなくなりました。それでもここで母娘二人、生活させてもらっていると言う負い目はあるけれど。そしてそれは、私には負い目に負い目を重ねていっていると言う、心の重荷になっていました。その荷物は重くなっていくだけ、時が過ぎれば過ぎるほど。


 恵子にはすぐに仲のいい友達が出来たようです。私も恵子の転校には心配があったのですが、無用のことだったようです。

 恵子が中学校に入ってすぐの頃、私は働きに出るようになりました。その頃に新しくオープンした近くのスーパーへ。パートなのでそんなにお給料をもらえるわけではないけれど、私達二人分の生活費分くらいは叔母さんに渡せるようになりました。だからと言って荷物が軽くなるわけではないけれど。

 恵子が中学三年生になった年、俊介君が会社の社長になりました。俊介君は全くと言っていいほど叔母さんの家に寄りつかないので、何回と数えるほどしか顔を合わせていません。そして十五年ぶりに見た俊介君は別人のように変わっていました。私にとっては見慣れた人相。そう、マサさんの会社の人のようになっていました。

 俊介君が社長になって一年。恵子が高校に入った頃、叔母さんが会社から追い出されました。どうやら中学校時代からつるんでいる、俊介君の悪友たちが会社に入って乗っ取ったようです。叔母さんの収入がなくなるので心配になって話をしたら、会社とは別に個人名義で持っている借家やアパートの家賃収入があるから大丈夫よ、と、笑顔で言ってくれます。貯金だってたっぷりあるから、とも。

 でもさらに一年経った頃、俊介君が叔母さんにお金を無心してくるようになりました。何があったのか分かりませんが、会社がうまくいっていないようなのは確かです。そんな俊介君に叔母さんがお金を渡しているのかどうかは分かりません。あんな馬鹿にお金なんて出さないわよ、と口では言っているけれど、心配しているのははっきり分かります。私達が叔母さんに負担をかけていなければ、叔母さんの悩みはもう少し小さなもので済むのでは、と、また負い目が増えていきました。私はほんとにどれだけこの人に辛い仕打ちを続けるのだろう。自分で自分が嫌になってきます。

 高校三年生の二学期、恵子が看護婦になると言い出しました。なので看護学校に行きたいと。行きたいと言う看護学校は、とある大企業が実質運営している企業病院に付属するところでした。卒業するとそのままその病院に勤めることが出来るので、看護婦を目指すのならとてもいい学校に思えます。でも、全寮制のその学校はとてもお金が掛かります。すんなり、いいよ、とは言ってやれない。と思っていたら、あんたがここに帰って来た時くれたお金、手を付けてないからそれで足りるわよ、と、叔母の一言で解決しました。離婚した時に持っていた貯金や、寺嶋さんが病院に持って来てくれたお金の残り、全て叔母さんに渡してありました。それを使わずに持っていてくれたようでした。そんなわけで恵子は、高校卒業と同時に瀬戸の家を出ることになりました。




 平成二年


 高校の卒業式から一週間、看護学校の入寮日、恵子が家を出る日です。お昼の一時から入寮の説明会とのこと。なのでそれまでに寮に行かなければいけません。その寮や看護学校、病院は刈谷市にあります。瀬戸からだと結構遠いところです。電車も何度も乗り換えないといけません。なので朝食後すぐに一緒に家を出ました。一緒に行く必要はなかったのだけれど、数日後の入学式に出るのに私が迷わないためについて行きました。

 学校や寮の場所を確認してから、近くの食堂で恵子と早目のお昼ご飯。そして食事を始めてから、

「これ渡しとく」

と、恵子に封筒を手渡しました。

「何?」

と言いながら受け取った恵子、封筒の中を覗きます。

「大して入ってないけど、あんたの名前で貯金してたの」

中身は通帳と印鑑、それとキャッシュカード。

「えっ、いいの?」

「もちろん。あんた、東区の家の電話番号覚えてる?」

「うん、覚えてる。05……」

「言わなくていいわよ、その下四桁が暗証番号だから」

「あっ、わかった。ありがと」

「もうそのくらいしかしてあげれないから、大事に使いなさいよ」

「うん、ありがと」

そして食事を進めていると、

「ねえ、お母さん、私ほんとに良かったの?」

と、恵子が言います。

「何が?」

「看護学校、行って良かったの? お金かかるでしょ?」

「何言ってんの、今更。それに、どこ行こうとお金はかかるんだから」

「でも、ここは寮費とかあるでしょ?」

「あのね、もう一年分は払っちゃってるの知ってるでしょ?」

「えっ、半年毎じゃなかった?」

「一年分よ。学費は年払いしても一緒だけど、寮費はその方が少し安くなったから」

「そうなんだ」

「だから心配せずにちゃんと勉強して、立派な看護婦さんになりなさい」

「うん。でも、なるのは何年も先だけどね」

「何年先でもいいわよ、ちゃんとなってくれたら」

「そんな、留年するみたいなこと言わないでよ」

「看護学校にも留年ってあるの?」

「さあ、知らないけど」

「とにかく一生懸命勉強して、ちゃんと看護婦になりなさい。あんたが自分で目指したんだから」

「はいはい、分かってま~す」


 食事を終えてからまた二人で学校の前まで来ました。そしてそこでお別れ。

「じゃあお母さんこれで帰るから」

「うん」

「恵子、しっかりね」

「うん、お母さん、ありがと」

「ううん、お母さんの方こそ、ありがと」

「えっ?」

「恵子がちゃんと育ってくれてほんとに嬉しい。ありがとう」

「何言ってんの」

「ほんとよ、恵子の母親で良かった」

「もう、やめてよ。じゃね」

そう言って恵子は私に背を向けて寮の建物の方へ向かいました。私はその姿を、私より10センチ以上も大きくなった後ろ姿を、ずっと目で追っていました。建物の入り口を入る時に恵子がこっちを振り返ります。私がまだいるのに気付いて手を振っている。私も胸の高さで手を振りました。それを見ると遠目でも分かる笑顔を見せて中に入って行きました。

 恵子の消えた入り口をしばらく見続けてから駅に向かいました。なんだかやり遂げたって感じが湧いてきました。恵子がちゃんと独り立ちするスタートラインに立った。そしてこれから恵子が歩き始める道は、仕事につけるゴールに確実につながっている道。そう、私のように誤ることなくちゃんと歩いて行ける道。ほんとにホッとした気分です。

『お母さん、私はちゃんと娘の巣立ちを見届けたよ』

空を見上げてそう言ってました、心の中で。

『褒めてくれるよね?』

私の役目は終わりました。




 第一部 終わり



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