第一部 08
昭和四十四年 二
三月も終わりに近づいた木曜日、昼間の店掃除の当番でした。同じく当番のヨシエさん、エツコさんと掃除を始めた頃、ママがお店に来ました。この時間にママを見るのは私は初めて。そしてしばらくすると見知らぬスーツ姿の男の人が来ました。マサさんと変わらないくらい怖い顔の人。年はマサさんよりだいぶ上に見えます。そしてその人に続いて女の子が三人入って来ました。三人とも私と同じくらいの年に見えます。
「ご苦労様です」
カウンター前のイスに座っていたママが席を立って男の人に挨拶。きっちり頭を下げています。マネージャー並みにエライ人なのかな。
「マネージャーは?」
男の人は挨拶を返さずそう言います。
「連絡が取れなかったんですが、今日はそちらの仕事ではなかったですか?」
ママがなんだか緊張しているように感じました。
「そうか」
男の人はそれだけ言って黙りました。女の子三人は身を寄せ合うように立ったままずっと顔を伏せています。ママも顔を伏せ、次の言葉を待っている様子。私たちは何事もないかのように掃除を続けていました。
やがて男の人が口を開きました。
「まあ、この三人だ。詳しいことはマネージャーに話す。後で聞いてくれ」
そして上着の内ポケットから紙を取り出してママに渡します。
「訳ありってことですか?」
それを受け取りながらママが尋ねます。
「ああ?」
「申し訳ありません」
ママが頭を下げました。
「今夜から使ってくれ、寝るとこもな」
「はい」
男の人はママにそう言うと三人の方を向きます。
「事務所で話した通り、ここでホステスだ。いいな」
三人は顔を伏せたまま頷くだけ。
「これも言ったと思うけど、男と一緒だけど寝るとこもあるから安心しろ」
今度は顔を伏せたまま顔を見合わせてから頷く。
「よし、しっかりやれよ」
また頷く三人。すると、
「返事出来んのか」
と、怖い声で男の人が言いました。三人は身を竦めます。
「いいか、しっかり働けよ」
「はい」
今度は小さな声で三人が返事をしました。男の人は返事を聞くと、ママの方をもう一度振り返ったりもせずに帰っていきました。
男の人が出て行くと、ママが三人にカウンター前のボックスに座るように言いました。三人は言われるがままソファーに並んで座ります。ママは三人と向かい合って接客用のイスに。そしてさっき受け取った紙を見ながら話し始めます。
「えっと、木村さん、木村京子さんは?」
「はい」
真ん中に座る女の子が返事をしました。
「あなたが木村さんね。じゃあ次、浦野文子さん」
「はい」
木村さんの右側に座る子が返事をします。
「じゃあ、あなたが永井春野さんね」
ママは最後の一人に向かってそう聞きます。
「はい」
ママは改めて三人の顔を見ました。そしてまた紙に目を落として話します。
「えーっと、年は三人とも二十歳。今年二十一ってことでいい?」
三人揃って頷きました。
「そっ、じゃあ三人ともお酒飲めるわね」
ママがそう言うと木村さんが顔を上げ、恐る恐るこう返します。
「いえ、その、飲んだことありません」
あとの二人も頷きます。
「ああ、違う。年齢的に飲んでも問題ないねってこと」
ママのその言葉に顔を見合わす三人、そしてまた頷きました。
「でも、ここで働く以上は飲むことになるからね」
三人は顔を伏せます。
「まあ、徐々にね、慣れてって」
三人は小さく頷きました。
「その様子だと、こういう店で働いたことなんてないわよね」
頷く三人。
「まあ大丈夫、難しい仕事じゃないから」
そう言うとママが、掃除を終えてカウンターの中で成り行きを見ていた私達を振り返ります。
「ちょうどいいわ、あんた達ちょっとこっち来て」
私たちはママの傍へ行きました。
「最初に出会ったのも縁だから、あんた達、この子たちの教育係やってね」
えっ? と、私達も顔を見合わせました。ママは構わず続けます。
「エツコ、あんたはこの永井さんね」
「はい」
「ヨシエは真ん中の木村さん」
「はい」
「マリ、あんたは浦野さんね」
「はい」
ママはもう三人の顔と名前が一致してるみたい、すごい。と思っていたら、
「で、マリ、あんたんとこサユリ達が抜けて空いてるでしょ。あんたは部屋でもこの子たちの面倒見てあげてね」
と、ママから言われました。
「あっ、はい」
と答えたけれど、面倒見てって、聞いていた話だと私の方が年下。でも本当の年を言うとめんどくさそうなので、私も二十歳ってことにしといたほうがいいのかな。なんてことを思ってる間にママが三人にまた話し始めます。
「今聞いた通り、あなた達はこの三人に仕事教えてもらって」
三人はまた顔を見合わせてから頷きます、小さな声で、はい、と言って。でも、また木村さんが恐る恐る口を開きます。
「あの~、仕事って、やっぱりその、男の人と、あの、……するんですか?」
そして三人揃ってママを上目遣いで見ます。
「えっ? ああ、大丈夫、そういうお店じゃないから」
「そうなんですか?」
ママの言葉に少し笑顔を見せる三人。
「うちはスナックよ、お酒飲ませる店」
三人が見るからに安心した顔になります。
「ただ、酔っ払い相手にするわけだから、身体触られたりすることはあるからね、それは覚悟してよ」
ちょっと明るくなった三人の顔がまた陰りました。
ママは立ち上がってカウンターへ戻りながら、
「あんた達、掃除はもう終わったの?」
と、私達に聞いてきます。
「はい、あとは表からビールとおしぼり運び込んだら終わりです」
ヨシエさんが答えました。
「そっ、じゃあ、ヨシエとエツコでそれやって」
ママにそう言われて二人が出て行きます。
「マリはこのあと何かある?」
残った私にママがそう言います。
「いえ、何も」
「じゃあ、この子達部屋に連れてって、部屋でのこといろいろ教えてやって」
「はい」
「布団とかあるわよね?」
「大丈夫です」
「じゃああとは、そうね、四時過ぎくらいまでに仕事の格好させてまた連れて来て」
「はい」
「多分マネージャーもそのくらいに来るから遅くならないでね」
「分かりました」
ビールケースなどを運び込んでいたヨシエさんがママに問いかけます。
「私達も四時に来た方がいいですか?」
「う~ん、まあ、あなたたちはいつも通りでいいわ」
既にバッグを持って戸口に向かおうとしていたママ、そう言って出て行ってしまいました。
ママが去った後、ヨシエさん達もすぐに帰りました。お昼に行こうと誘われたけれど、私は新人三人が今日から働けるように準備しないといけないから、と、断りました。
「じゃあ、こっち来てください」
私はそう言って店の奥、更衣室へ向かいます。三人はそれぞれ大きな鞄を抱えて立ち上がり、ついてきます。
「えっと、お店ではこのドレスを着ることになってるので、サイズの合うの選んでもらえますか」
更衣室に入り、並んだハンガーラックに掛かったお店のワンピースを示して三人にそう言いました。部屋にはもう不要な服や靴はありません。なのでここから持って帰るしかありませんでした。三人は荷物を抱えて突っ立ったままドレスを見ているだけ。
「あの、荷物置いて、適当に着てみてください」
「あっ、はい」
私がもう一度声を掛けると、木村さんが答えて動きました。それを見てあとの二人も動き始めます。
「あの、え~っと、マリさんでした?」
木村さんが荷物を置いてそう聞いてきます。
「はい」
「あの、なにマリさんですか?」
「えっ、どうしてですか?」
「いえ、その、いきなり下の名前で呼ぶのは失礼かなって」
そう言うことか。
「ああ、マリは店での名前です。でもうちはみんな店での名前で呼ぶことになってますから、気にしなくていいですよ」
「そうなんですか」
「あの、店での名前ってどういうことですか?」
木村さんに続いて浦野さんがそう聞いてきます。
「なんでかは私も知らないですけど、店では本名じゃなくてマネージャーが付けた名前を使うんです。皆さんにもあとでマネージャーが名前つけてくれると思いますよ」
「そうですか」
そのあと三人がやっと服に手を付けてくれました。でも、色やデザインを見ているだけで着ようとしません。
「取り敢えず皆さん一つずつ着てみてください。それで合うサイズを探して、それから選びましょ」
そう言うと三人は、はい、と返事して一着ずつ手に取りました。そして中央の長机の上にそれらを置くと、着ていた服を脱ぎ始めます。
一番最初に着替え終わった木村さん、明らかにサイズの大きいものでした。
「ちょっと大きいですね」
なので彼女にそう言ってサイズの見方を教えました。彼女はそれを聞いて別のものを探しに行きます。横で聞いていた浦野さんも同じだったようで探しに行きます。もう一人の永井さんはぴったりって感じでした。
「永井さんはそのサイズで良さそうですね。じゃあ、同じサイズで、え~っと、三着くらい好きなの選んでください」
「あっ、はい。でも、これでもその、屈んだりすると前が開いちゃうんですけど」
V字型に切れ込んだ胸の部分を押さえて永井さんがそう言います。まあ普通はそうだよね、下着が見えるのは嫌だよね。
「えっと、それはわざとチラチラ見えるデザインになってるんです。で、これはお店が決めた服で、仕事はこの服ですることになってるんで諦めてください」
こう言うしかありませんでした。やっぱり衝撃だったようで三人が俯いてしまいました。でもそんな三人に私は続けて言いました。
「それと下着なんですけど、今言ったみたいに見えるのが前提になっちゃうんで、その、もう少しおしゃれなデザインなのを明日買いに行きましょう。今日は時間がないんでもうしょうがないですから」
そう、こう言っては何だけど、彼女たちの下着は地味なものでした。地味なうえに着古した感じが見てわかるようなものでした。
彼女たちが俯いたまま動きません。まだまだやることがあるのに時間はそんなにない。どうしよう、と思っていたら浦野さんが口を開きます。
「おしゃれな下着って高いですよね」
「えっ?」
「今月、もう仕送りしちゃったからそんなにお金ないです」
すると木村さん、永井さんも、わたしも、と言います。下着が見える衣装が恥ずかしいってところから、心配がそっちに行っちゃったか。
「う~ん、しっかりサイズ見てもらうために一着は普通の値段で買わないといけないけど、あとは安く買えるところ連れてってあげるから」
私が最初にサキちゃんにしてもらったことを思い出しながらそう言いました。すると、
「でも、もう二千円もないです」
と、木村さん。そしてあとの二人も同様のことを言います。う~ん、これはどうしようもないかも。と思いながらもこう言ってました。
「分かりました。明日は私が立て替えます。最初のお給料をもらったら返してくださいね」
でもみんな浮かない顔です。根本的に嫌なのかな。すると木村さんがまた口を開きます。
「あの、一回で返せなくてもいいですか?」
「えっ?」
「私達、毎月一万円仕送りしないといけないんです。だからそんなに残らないから」
そっか、仕送りしてるんだ。
「分かった、いえ、分かりました。いいですよ、ちゃんと返してくれれば」
「ありがとうございます」
三人が少し明るい顔になりました。
「まあ、お給料、二万円くらいはもらえると思うから、そんなに心配しなくていいよ」
明るい顔を見てそう言うと、
「ええっ! 二万ももらえると?」
と、永井さん。と? 方言かな?
「う、うん。ほんとは全部で四万円くらいなんだけど、半分はお店で積立になるから実際もらえるのは二万円くらい」
「つ、積立って、貯金ってこと?」
永井さんの圧力がすごい。
「う、うん、そう言うこと」
「よ、四万、四万」
永井さんはそう呟くように言います。
「四万円ももらえるっちゃ」
「信じられんっちゃねぇ」
そしてあとの二人もこう言います。どこの方言だろ。
そのあと三人は気が軽くなったようにぱっぱと服を選んでくれました。そして靴選びも無事終了。最初の私と同じで、履いたことのないヒールに心配顔だったけど。そしてそれらを持ってやっと部屋に帰れることになりました。財布だけジャンパーのポケットに入れて手ぶらだった私は、荷物の多い彼女たちのドレスを抱えて帰りました。
部屋に戻ったのは二時でした。ほんとにもう時間がない。玄関から台所へ入ると、洗面所でサキちゃんが髪を乾かしていました。グッドタイミング、お風呂がもう沸いてる。
「おかえ……、なに、どうしたの?」
服をいっぱい抱えた私、そして同じく荷物をいっぱい持って、続いて入って来た三人を見てサキちゃんが驚いてます。
「この人達、今日からお店に入るから」
私は居間に入ってサキちゃんにそう言いました。
「こっちはサキちゃん、この部屋で一緒だから」
三人にサキちゃんを紹介しました。
「えっ、今日から? 三人……も?」
と、まだ驚いているサキちゃんに三人が順番に名乗っています。私はそれに付き合わずサユリさん達がいた部屋の襖を開けて中へ。そして今は何も掛かっていないハンガーラックに抱えて来たドレスを掛けながら、
「すみません、こっち来てもらえます?」
と、三人を呼びました。
「狭いかもしれないけど、この部屋、三人で使ってください」
部屋に入って来た三人にそう言いました。部屋を見回しながら、はい、と言ったのを聞いて続けます。
「お布団も三組はあると思うから」
なければ私とサキちゃんの部屋の押入にも使ってないのがある、と思いながら押入を開けました。うん、三組はある。そしてちょうどよく押し入れの中に掛けてあるコートなんかも見えました。これは歴代の住人が残していったもの。
「それと、お店の服で外出ると寒いと思うから、ここのコートとか着ちゃっていいですからね」
私の言葉に押入の中を覗いて三人がまた、はい、と返してくれます。
「じゃあ、急かして申し訳ないんですけど、時間ないんで順番にお風呂入ってもらえます?」
ちょっと躊躇いがちに顔を見合わせながら三人はまた、はい、と言ってくれました。しょうがないよね、いろいろ驚いた後、慌ただしくこんなところに連れて来られてお風呂入れなんて言われたんだから。
「私、その間に何か作りますから。お腹減ってますよね、すみません、遅くなって」
そう言ってその場を離れました、ほんとに時間がない。台所でジャーを覗くとお茶碗二杯程度しかご飯がない。こんな人数想定してないから当たり前。どうしよう、そうだ、頂き物のおうどんが沢山あったはず。そう思って水屋の棚を開けたところに、部屋に戻っていたサキちゃんが寄ってきました。
「紘一さんは?」
何か言おうとしたサキちゃんより先に聞きました。
「えっ? ああ、酒井さんと何かするって出てった」
「じゃあ戻って来ない?」
「うん、多分そのままお店行くんじゃない?」
良かった、入浴中に帰って来られたら三人がまた面倒になりそうだった。
「ねえ、あの三人、店に来たの?」
サキちゃんが小声でそう聞いてきます。私はそれに答えようとしながら三人の方を見ました。
「ううん、多分会社の……。ちょっとすみません、ほんとに急かして申し訳ないですけど、急いでもらえます? 四時にお店行かないといけないんで時間ないですから」
三人が部屋に座り込んで話しているのを見て、答えずに慌てて声を掛けました。
「すみません」
木村さんがそう答えて立ち上がります。そして鞄を探り出すのを見て、
「石鹸とかシャンプー、お風呂にありますから。タオルとバスタオルも。だから着替えだけ持って急いでください」
そう言って、一番大きなお鍋に水を入れながら、
「えっと、多分会社の人だと思うけど、知らない男の人がお店に連れて来たの」
と、私の傍をついて歩くサキちゃんに説明しました。
「働かせてください、とかって来たわけじゃないんだ」
「うん」
「会社に行ったのかな?」
「知らない」
「ふ~ん、マネージャーとかいたの?」
「ママがいたよ、呼ばれてたみたい。サキちゃんもおうどん食べる?」
水を入れたお鍋を火に掛けながら答えて聞きました。
「あっ、うん。で、四時にマネージャーが来るんだ?」
「そっ」
私はまた大き目のお鍋に水を入れながら返事しました。五人分の出汁を作らなきゃ。
急いで、と何度も言った所為か、木村さんはあっという間にお風呂から出てきました。そして、
「はるちゃん、あやちゃん、二人一緒に入れそうだから一緒に入っちゃったら」
と、二人に声を掛けてくれます。気を遣ってくれて助かる。
しばらくすると木村さんが台所に来てこう言います。
「あの、何かお手伝いしましょうか」
「ううん、もうやることないんでいいですよ」
そう返しました。おうどんはもう茹で終わってざるの中。部屋にあるものから選んだ具材は大根とさつまいもにおネギ。もう切ってお鍋の中です。少しずつ残っていた鶏肉と豚バラ肉、それも両方入れちゃいました。お醤油で下味付けちゃったけど、この具なら最後はお味噌で味付けしようかな、変な味になっちゃうかな。そして今は残っていたご飯で小さめのおにぎりを握っていた最中、明日は食材買い込んでこなきゃと思いながら。なのでそう答えました。
二人がお風呂を出たのを見て、結局お味噌で最後の味付け。まあ、なかなかいい感じになりました。不揃いのどんぶり五つにおうどんをよそい終わった頃、三人も揃いました。三人はこたつで、私とサキちゃんは台所のテーブルで食べ始めます。おにぎりは一人一個ずつ。時間は三時になる頃。私はその気になれば十分でお風呂は終われるので何とかなる時間。
おいしいね、なんて言ってくれながら食べてくれているのを聞きながら私も食べていました。食べ終わる頃、
「あの、男の人もここにいるって聞いたんですけど本当ですか?」
と、多分永井さんの声。私の所からは居間のこたつが見えません。見える側に座っていたサキちゃんが三人の方を見て答えます。
「いるよ」
そのあとは何も返ってこない。でもしばらくするとまた永井さんの声で、
「でも、変なことされないですよね」
と、聞いてきます。やっぱり心配だよね。でも、される、と、多分聞きたくないことを言っちゃわないといけない。そんな気持ちでいたらサキちゃんと目が合いました。サキちゃんは私と目が合うと涼しい顔で三人の方を向きました。そして言います。
「されるよ」
居間の方から、ええっ! と、三人の声が聞こえてくる。サキちゃんが続けます。
「えっとねぇ、うちは女の子用の寮ってないのよ」
「……」
「だからここは男の人用の部屋。今住んでるのは一人だけど、店の男の人が仕事終わってから寝に来たりもするの。お店終わるの夜中だから帰れないでしょ」
三人は何も言わない様子。だからなのでしょう、サキちゃんはまた食べ始めます。なので私も残りを食べました。
食べ終えて食器を流しへ。こたつの上を見ると三人はとっくに食べ終えていたようで全部空でした。なのでそっちの食器も回収。回収して流しの方に向かいかけると、
「その、……嫌だって言ってもされるんですか?」
今度は多分木村さん。私は振り返らず、流しに行ってから答えようと思いながら、何と言おうか考えていました。するとサキちゃんがまた答えます。
「う~んっと、ハッキリ言うね。さっき言った通り、ここは男の人の部屋なの。だからここに来る女の子は、男の人の所に自分から寝に来たってことなの」
私に話した時よりキツイ言い方。そう感じながら私は食器を洗い始めました。
「そんな、私達そんなつもりないです」
また木村さん。
「でも、そう言うことになるから」
「そんな、そんなの聞いてない」
「うそ、さっき、男の人がいるって聞いたって言ってたじゃない」
サキちゃんの口調が冷たく感じる。
「そ、それはそうですけど……」
「じゃあ分かったはずでしょ、男と女が一緒に住むってどういうことか」
「そんな……」
洗い物を終えて居間の方を向いた時、今度は浦野さんがサキちゃんに尋ねました。
「されるって、その、身体触られたり……」
「セックスよ。ハッキリ言った方が分かりやすいでしょ、エッチされるってこと」
サキちゃんが浦野さんの問いかけの途中からそう言いました。木村さんと浦野さんは、嘘と言って、って感じの顔でサキちゃんを見ます。永井さんは顔色を失くしてずっと俯いたまま。
「嘘ですよね」
木村さんが、やっとって感じでそう言います。
「嘘じゃないよ」
「そんな、嫌って言ってもされるんですか?」
「あのね、さっき言ったでしょ、ここに来た時点で嫌じゃないの、その気があって来てるってことになるの」
サキちゃんはそう言いながら席を立って電話台の方へ。そして、
「そんな」
と言う木村さんの声を聞きながら電話台の下の扉を開けます。
「これ見て、何か分かるよね。避妊具よ」
そして一箱を投げるようにこたつの上に置きました。
「ここに来たらエッチできる女の子がいるわけだから、男の人たちが置いてるの。見て、沢山あるでしょ」
そう言いながらサキちゃんが示す電話台の下にはあと三箱ありました。三人は言葉がありません。
「さっき寝に来るって言ったけど、ごめん、ハッキリ言うとやりに来るわけ」
しばらくすると浦野さんが口を開きました。
「そんな、知らない人って言うか、好きでもない人となんて……」
「うん、嫌っちゃ、そんなん嫌っちゃ」
木村さんが続きます。サキちゃんはこたつの上に出した箱を戻してこう言います。
「そんなの、私やマリだって一緒だから。最初は、ううん、今だって好きでもない人となんてしたくないよ。でもしょうがないのよ、ここにいるしかないから」
サキちゃんの口調が優しくなった。すると木村さんが少ししてから俯いたままこう言います。
「ここにいるしかない、ここにいるしかないんだよね」
「しょうがないんだよね」
浦野さんが同様にそう言います。
「うん、仕送りしないといけないから、しょうがないんだよね」
「うん、しょうがない……よね」
なんだか覚悟したようだけど、私はかわいそうで泣きそうでした。私がここにいるのは私のためだけ。でも彼女たちは遠くの家族のためにこんな辛い覚悟をしている。こんな私でも初めて無理矢理された時の気持ちは覚えてる。抵抗したくても出来ずに嫌々される気持ちは分かる。だから本当に涙が出そうでした。
「嫌っちゃ、私は嫌っちゃ。帰ろ、家に帰ろ」
真っ白な顔になってずっと俯いていた永井さんが急にそう言い出しました。
「はるちゃん」
「何言ってるっちゃ」
「だって、嫌っちゃ。そんなこと出来ん、絶対に出来んっちゃ」
「はるちゃん」
「帰る、私は帰る」
「いけん、それはいけんよ」
隣にいた浦野さんがそう返します。
「なして、私には無理だっちゃ」
「しょうがないっちゃ、我慢するしかないっちゃ」
浦野さんが永井さんの腕に手を掛けました。すると永井さんはその手を払って言います。
「あやちゃんやきょうちゃんはしたことあるけぇそんなこと言えるっちゃ。私はまだしたことないけぇ」
永井さんの目からは涙が流れていました。
「わ、私もしたことないっちゃ」
木村さんがそう返します。
「うそ、ケンジさんと付きあってたが」
永井さんが言い返す。
「つ、付き合ってたけどそんなことしとらんて」
「そうなん? そんならなんでそんなこと出来るっちゃ」
「それは、だって、しょうがないけぇ。仕送りせんとみんな困るし。はるちゃんだって仕送りせんと弟の学費がのうなるっちゃよ、違うけ?」
「そ、そうだけど……」
そして三人はまた俯いて黙りました。
私は永井さんの横に膝をついて話しました。同情しているなら違うことを言うか、何も言わず彼女達で結論を出してもらうべきだったのでしょう。でも彼女達より若い私にそう考える頭はありませんでした。私はこの異常な世界に足を踏み入れるように背中を押すようなことを話しました。なぜだか分からないけれどそうでした。
「私も無理矢理されたんです、初めての時」
三人が私を見ました。
「逆らえない立場だったから好きでもない人に無理矢理。怖くて気持ち悪かった、ほんとに。その人からは何度も何度もされた。嫌だったけど逆らえなかったから」
「……」
「ここに来てからもそう。私もここにいるしかないから。働かせてもらってお金をもらわないと生きていけないから。だから好きでもない人とずっとしてる。私は好きな人となんてまだしたことない」
私が言葉を止めるとサキちゃんが続けてこう言います。
「私も似たようなもんよ。私の初めての相手って、その日初めて会ったお客さんだから」
三人が驚き顔でサキちゃんを見ます。
「その時はそういうお店にいたから」
そして沈黙になりました。
ふと時計を見るともう三時四十分。
「うそ、遅れちゃう。ごめんなさい、お店行く時間だからすぐ着替えて」
慌ててそう言って立ち上がりました。でも三人は顔を見合わせただけで立とうとしません。
「辞めるならそれでもいいです。でも、お店に行ってママかマネージャーにそう言ってください。だから、辞めるならお店の服着なくてもいいですから、とにかく急いで支度して、遅れて行って辞めますなんて言えないでしょ」
そう言うと、三人は立ち上がって部屋に向かいます。私も自分の部屋へ、もうお風呂は無理です。
急いで着替えて口紅も付けずにコートを羽織る。マネージャーの話が終わればお店で化粧は出来る。そして部屋を出たのは五十分でした。我ながら早い。五時半までにお店に入ればいいサキちゃんは余裕でコーヒーを入れている。うらやましい、私の代わりにもう一度お風呂に入っといてよ。
五十五分になって声を掛けました。
「ごめんなさい、遅れちゃう、急いでください」
襖の向こうからドタバタ音が聞こえる。そして一、二分後、襖が開きました。三人ともお店のドレス姿。今日辞める、ってことにはならなかったみたい。
「さっき言ったコート着てください、外はまだ寒いですから。特に夜帰ってくるときは」
三人が押入を開けてコートを出している。お願い、早くして。でももう一言、化粧道具持ってる人はそれも持って出て。
玄関でヒールを履くときに二人がこけました。初めてのヒールっぽいからしょうがないけど。でもこれじゃ速足でお店に行けない、私の想像力が足らなかった。
お店に着いたのは四時十分を過ぎていました。
「おはようございます、遅くなりました」
と、お店の中に入って行くと、カウンター奥のボックスにママが一人で座っていました。
「ご苦労様。いいわよ、マネージャーまだだから」
別段機嫌が悪いようには見えないママにそう言われて安心しました。ママに断って更衣室へ、お化粧するため。三人も連れていきました。更衣室の洗面で顔を洗ってお化粧。三人の化粧道具は口紅だけだったようなのでもう終わっていました。そして、ちょっとでも下着が見えない着方はないものかと工夫しているようでした。やる気になってるのかな?
店内を覗くとマネージャーはまだ来ていませんでした。なので更衣室で三人にもう一つ話すことにしました。さっきの様子を見て心配になったから。
「あの、一ついいですか?」
三人が話をやめて私を見ます。
「酔っぱらったお客さんに身体を触られるとかって、お昼の時にママが言ってたの覚えてます?」
頷く三人。
「その、身体って、ハッキリ言うとおっぱいです。手を握ってくるとかじゃないです。と言うか、手を握ってくる人なんてきりがないくらいいますから」
三人が揃って両手で胸を隠すような格好になる。
「で、おっぱいなんか触られたら、やめてくださいとか、ダメですとかって言っていいですけど、あんまり強く言ったらダメですよ。力いっぱいお客さんの手を振り払うとかも」
「そんな……」
永井さんが小さな声でそう言いました。
「もちろん我慢して触られてるしかないなんてことじゃないですから。触り続けようとしてるお客さんにボーイさんが気付いたら止めに来てくれますから」
三人は無反応でした。
「お昼にママも言ってましたけど、そう言うお店じゃないですから安心してください」
小さく、はい、と頷いてくれる。と言っても、ボックスにつくとかなりの確率で触られるから、触られ続けてるのと変わらないんだけど。と分かっているのでちょっと後ろめたかったです。
「多分あとでマネージャーが自分で言うと思いますけど、マネージャーの口癖は、お客さんには気分よく飲んでもらって、気分よく帰ってもらえ、なので、お客さんが不愉快になるとか、怒るとか、そう言うことにならないように本当に注意してください。そう言うことになるとマネージャーに怒られますから。マネージャーが怒ると本当に怖いですからね。本当に注意してください。私は一度やっちゃってひどい目にあいましたから」
三人が固まっちゃいました。
「じゃあ、マネージャーが来るまでお店の中、案内しましょうか」
そう言うと三人が動き出したのを見て戸口へ向かいます。でも振り返って、私について来ようと歩き始めた三人にもう一言言いました。
「そうだ、もう一つ私の失敗談。皆さんお酒飲んだことないって言ってましたよね」
「はい」
木村さんがそう答えてくれて、あとの二人は頷きます。
「お客さんは飲まそうとして勧めて来るけど口を付けるだけで飲まない方がいいですよ、お酒に慣れるまで」
「……」
「私は初日に飲んじゃって潰れましたから。男の人に部屋まで担がれて帰ったんですけど、それも覚えてないくらいに」
それで意識のないままされちゃった、とは言えなかったけど。
店内を一回り見せて回ってもマネージャーは来ず。なのでカウンターの中で水割りの準備、氷の割り方とか、作り方とか、そんなことを教えていました。それも終わり、倉庫やチャームのことなんかも教え終わった五時頃にマネージャーが来ました。
カウンターを出てマネージャーの前に集合。するとマネージャーは、
「お前ら三人か。まあ、うちで使ってくれってことだからいいぞ。しっかり働いてくれ」
と、それだけで終わろうとしました。
「あの、もういいですか?」
自分の部屋に行こうとするマネージャーにママが尋ねます。
「ああ、使ってくれって言われたんだからこれ以上ないだろ」
「分かりました。でも、彼女たちの名前は決めてくれませんか?」
「ああそうか、そうだな」
マネージャーは三人の方に向き直り、彼から見て右側にいた木村さんをまず差して、
「お前はマリコにしようか」
と言いました。
「マリちゃんがいるんで、マリコだと間違うのでは」
ママが指摘します。
「そうか、じゃあ……、アユミだ。いいか?」
「はい」
ママが頷いて決まりました。次は真ん中にいた浦野さん。
「お前は……、ケイコ」
ママが頷いて決定。そして最後の永井さん。
「お前は、ミエ」
「ミエはいます」
すかさずママが指摘。
「そうか、じゃあ……、サユリだ」
「サユリはこの前までいたのでちょっと……」
マネージャーってほんとに女の子の名前覚えてない。それによく考えたらお店の女の子の名前、みんなよく聞く女優の名前だ。
「そうだな……、ピンコはいかんなあ、ノブコ……、よし、レイコだ、レイコはいないだろ」
「はい、大丈夫です」
これで三人とも名前が決まりました。
「よし、じゃあいいな」
「はい」
そして、ママがそう返事するとマネージャーは自分の部屋に行っちゃいました。
ママが三人の方を向いて今決まった名前をそれぞれに向かって言います。
「アユミ、ケイコ、レイコ、これが今からあなたたちの名前。お店ではお互いにその名前で呼んで。私達もその名前で呼ぶから」
「はい」
三人が揃って返事します。でも木村さんがこう尋ねます。
「あの、お店以外では今まで通りでもいいですか?」
「いいけど、まあ、お店で間違わないように、普段からお店での名前で呼び合うようにした方がいいわよ、みんなそうしてるから」
顔を見合わせる三人。
「さっき部屋にいたサキちゃん。ここに来る前から私とサキちゃんは友達だったんだけど、もうずっとサキちゃんって呼んでるよ。当然あの子はサキって名前じゃないけど」
「そうなんですか」
と、ケイコさん。
「うん、呼び方が変わっても友達は友達だから」
「分かりました」
アユミさんがそう返してくれて三人とも承知したようでした。
「じゃあ、アユミはヨシエ、レイコはエツコだったわね、あの子達が来たら教えてもらいながらボックスね」
「はい」
と、二人が頷きます。すごい、ママは昼間言ったこと覚えてるんだ。
「で、ケイコはマリについてカウンターの中。カウンターは忙しいからしっかりやってね」
「はい」
と言うわけで、彼女たちの初日が始まっていきました。
その日はどちらかと言うと暇な日でした。と言うか、三月に入ってから暇な日が多いんだけど。世間一般は年度末、ほとんどの会社が忙しいそうです。そしてこの時期は決算と言うのがあって、経費を使えないとか、使いにくい会社が多いらしいです。なので、経費、で飲みに来ているお客さんが減っちゃうんだとか。忙しくて来れない人、経費が使えなくて来れない人、その両方が重なって暇な日が多いようです。でもまあ、今日が初日だった彼女達にはいいスタート日だったかも。
部屋への帰り道、無事に初日の仕事を終えた三人が少し後ろに離れてついてきます。ヒールで歩くのに慣れていなくて遅れている、と言うのもあるかもしれないけれど、別の理由のような気もします。それは、私とサキちゃんの二人と一緒に、紘一さんとマサさんがいるから。あの部屋で男の人と一緒になる、って状況が現実的になって足が進まないのでしょう。この後どうなるんだろう、とか考えて怯えているのかも。特にマサさんの顔は間違いなく、怖い、って部類だし。今夜はこの二人だけだからあなたたちは大丈夫だよ、って言ってあげてもいいけど、どうせ近いうちに経験することになるんだからいっか。
部屋へ帰ると、
「お前ら酒の練習だ」
と、マサさんが新人三人に言って、紘一さんにビールを抜かせます。私はその間に夕方入れなかったお風呂に入りました。お風呂から上がると台所で誰かが何かやってます。身体を拭いているときに聞こえてきた音、キャベツを切ってるっぽい。料理してる? 誰が? 急いでパジャマを着て台所へのカーテンを開けると、ケイコさんがフライパンを火に掛けるところでした。
「何か作るんですか?」
「はい、何か食べるものっておっしゃるので」
私はまな板の上を見て、
「ベーコンとキャベツで炒め物?」
と聞きました。
「はい、冷蔵庫とか見てそのくらいしか思いつかなかったので。あっ、使っちゃってよかったですか?」
「うん、いいですよ、でもちょっと寂しいかな、卵も入れません?」
「えっ、卵ですか?」
「うん、あったと思うけど」
三つあるはず。人数多いから使っちゃえ。その代わり、明日の朝食はトーストだけになるけど、って、三人増えたから食パン足らないや。寝る前にご飯炊く用意しなきゃ。と思ってるうちにケイコさんが冷蔵庫を開けます。
「うん、それ三つとも使っちゃいましょう」
「あっ、はい」
ケイコさんが卵三つを取り出します。
「卵を溶いて、先にゆるめのオムレツ焼いちゃってください」
「えっ? オムレツ、ですか?」
「うん、で、そのあとベーコンとキャベツを炒めて、最後にオムレツいれて仕上げたら、オムレツが崩れていい感じに混ざるから」
「あ、なるほど、それ良さそうですね」
ケイコさんはそう言うとボールに卵を割り始めました。ちなみに、私が言うばかりで手伝わないのは、まだバスタオルで頭を拭きながらだったから。でも、どうやらケイコさんは料理が出来るようなので手伝う必要もなさそうだけど。
と言うわけで、部屋に帰って来て宴会でした。私が混ざった時にはもう、レイコさんは頭の中に電球でも入ってるの? って感じで真っ赤に光っているような顔をしてました。アユミさんはまだ何ともないように見えたけど、見えただけ、口を開くと何を言ってるか分からない状態でした。そしてケイコさん、炒め物をこたつまで持ってくるなり、マサさんの指示で紘一さん、サキちゃんから交互に注がれ、一気に飲まされていました。
半年ほど前、初日で酔い潰れてしまった私。そのあとこうやって練習させられた。なんだかもう懐かしい感じ。そんなことを思いながら、ケイコさんが作ってくれた炒め物を、おいしい、と思いながらパクパク食べていたら、
「あっそうだ、マリちゃん、明日、合鍵屋さんに行くの覚えといてね」
と、サキちゃんが言い出します。
「合鍵屋さん? なんで?」
「ここの鍵、三人増えたでしょ? 一本足らないから」
「そっか、分かった」
私がそう答えると、マサさんが口を開きます。
「うん? 三人増えて、一人どこで寝るんだ、ここ(居間)でもう一人寝るのか?」
「いえ、サユリさん達がいた部屋で三人寝てもらいます」
私が答えました。
「狭いだろ」
「でも、ハンガーラックとか隅にやればお布団三つひけますから」
「そうか? でもなぁ」
多分、男の人がするときのことを考えてるんだろう、と思いました。そんなこと考えなくていいってのに。そもそも二人いるとこですること自体異常なんだから。と、思っていたら、マサさんがとんでもないことを言い出しました。
「よし、明日からマリ、お前うちに来い。俺のとこに住め」
「えっ」
としか声が出ませんでした。サキちゃんと紘一さんも驚き顔。新人三人は無反応。みんな半分目が閉じているので聞こえてなかったかも。
「ママには俺から言っとく」
「ええっ? ほんとにですか?」
「ああ、まあ、店まではここの倍くらいあるけどいいだろ?」
何も言えませんでした。私がマサさんと暮らす? なんで私? それにマサさん、女の人と暮らしてるんじゃなかったっけ。そんな私の頭の中とは関係なくマサさんが続けます。
「明日の朝、起きたらすぐに荷物まとめろ、俺も運んでやるから一緒に俺んとこまで帰るぞ」
ええっ? それってもう決まりなんですか? と聞こうとして聞けませんでした。マサさんのセリフの途中でアユミさんが後ろに倒れるように寝てしまい、そしてそれに続くようにレイコさんも横になって寝てしまったから。
サキちゃんと三人の布団をひいて寝かせている間に、マサさんはお風呂に入っちゃいました。こたつに戻ってサキちゃん、紘一さんと残った炒め物を摘まみながら、これまた残ったビールを飲み始めました。
「どうするの?」
と、サキちゃん。
「どうしよう」
と言うしかないです。
「マサさんがああ言うんだから行くしかないんじゃない?」
紘一さんはそう言います。
「でも、マサさんって扉の女の人と住んでるんじゃなかった?」
サキちゃんが紘一さんにそう聞きます。
「確かそうだけど、ああ言うってことはもういないんじゃない?」
「そうなの?」
「追い出したのか店辞めたのか知らないけど」
しばらく沈黙。
「まあ、とりあえず行くしかないよ、マリちゃん」
紘一さんが最後のビールを飲み干してそう言います。
「ですかねぇ」
私はそう言って、グラスに1センチほど残ったビールを眺めていました。サキちゃんといられるここが一番いい。ここが一番。でも、そんなこと言えないのはあの三人と同じ。住むところがあって、働くところがあって、そしてお給料がもらえたらそれで幸せ、そう思うしかない。それに、マサさんに怖さはあるけど嫌いじゃない。マサさんと二人ならここより楽に暮らせるかも。少なくとも、かなり静かに眠れそう。入れ代わり立ち代わりいろんな人が来て、滅茶苦茶されることはない。悪い話じゃないかも。そんなことを思い、行く気になったところで一つ思い出しました。
「でも、明日朝からは無理だ」
思い出したことが口から出てました。
「何?」
と、サキちゃん。私はそれで言葉が口から出ていたことに気付きました。なので続けます。
「あの三人に下着屋さん案内してあげるって言っちゃったの」
「なんだ、いいよそのくらい、私が連れてく」
「でも、あの人たちお金ないみたいで、私、立て替えてあげるって言っちゃったから」
「……そうなんだ」
「うん、だから、お昼からとかにしてくれないかな、マサさん」
「それは無理じゃないかなぁ、マサさんいつもお昼くらいから事務所に行ってるから」
と、紘一さん。マサさんからもそんな話聞いたことある。やっぱり無理かな。
「分かった、いいよ、私が立て替えとく」
サキちゃんがそう言います。
「いいの?」
「いいよ、お給料もらうまででしょ」
「でも、仕送りあるから一回で返せないかもとか言ってたけど」
「そうなんだ、……でもまあ、しょうがないからいいよ。返してもらえなかったらマリちゃんに請求するから」
「分かった。あっ、それと、最初に私にしてくれたみたいにサイズ合わせてくれるところと、安いお店と両方連れてってあげてね」
「はいはい、お任せください」
これで、行き場を失くした私を半年ほど住まわせてくれたこの部屋と、明日の朝にはお別れすることが決まりました。異常な環境だったかもしれないけど、それでも私の居場所だったところ。ありがとう、って気持ちで、部屋の中を見回しました。
マサさんを送り出してから昼食の後片付け。時間は十一時を過ぎたばかり。早いって? だって、マサさんはお昼までに会社に行くので、十一時には部屋を出ないといけない。なのでお昼ご飯はその前です。朝ごはんから続けてお昼ご飯って感じの時もあるけれど、まあ、私は晩御飯が早い時間なので問題ないです。
台所はクーラーの風が届かないので少し暑い。そう、この部屋に来てもう四か月過ぎました。あっという間の四か月、今日から八月です。
マサさんがいるときに部屋掃除をすると嫌がるので、洗い物を終えてから始めました。寝室、居間、台所と終えて、玄関への短い廊下を拭いたら終わり。玄関を入ってすぐの所にもう一部屋あるんだけど、ここは私は立入禁止です。会社の物が置いてあるので入るなと言われてます。まあ、そう言われてなくても南京錠が掛かっているので入れないけど。ここに来てから何度か会社の人が来てその部屋の物の出し入れをしていましたが、私はマサさんから、居間から出て来るな、と言われるので、どんな物を出し入れしているかも知りません。そして知ろうとも思わない。だって、そう言う時のマサさんからは怖い雰囲気が漂ってくるから。
たまに、怖い、と感じることはあるけれど、基本的にマサさんは私には優しいです。私がとめどなくお店でのことなんかをペチャクチャ話続けても、そうか、と、相槌を打ちながら聞いていてくれます。
近くの酒屋さんに買い物に行きました。酒屋さんと言ってもスーパーみたいなお店です。食料品は何でもあります。お野菜にお魚やお肉も種類は少ないけど置いています。帰って来て郵便受けを覗くと手紙が来ていました。茶色い封筒が一つ、差出人の住所は大阪。そう、この部屋に来てから文通を再開しました。
マサさんと暮らし始めてから半月ほど経った頃、マサさんにお願いしました。ずっと文通をしている人がいるんだけど、この部屋の住所でしてもいいですか? と。文通? 変なことしてるんだな、と言いながら許可してくれました。なので早速彼に手紙を書きました。かねて考えていた通り、受験に失敗して住み込みで働き始めました、と。まあ、夜のお店で働いているなんて書きたくなかったので、普通の会社勤めってことにしたけれど。普通の会社の事務の女性がどんな仕事をしているかなんて言うのは、お客さんの話から想像してなんとなく分かります。なのでお店での出来事なんかを想像の職場に置き換えたりなんかして書いています。完全な嘘を書いているわけじゃないのでまた楽しい文通が出来ています。彼の方は東京への転勤を断ったら関連会社ってところへ飛ばされそうになったと書いていました。どういうことなのかよく分からないけれど、そのあともなんとなくいいことはなさそうな雰囲気です。ちょっと心配。
買って来たものを冷蔵庫なんかに片付けてから、台所のテーブルで手紙の封を切ります、ちゃんとハサミできれいに。読み進めて驚きました。お盆休みにお見合いをさせられる、とかって書いてある。なんとなく嫌そうに書いているけれど、十個上なので今年二十九歳のはず。相手がいい人なら結婚しちゃったほうがいいんじゃないの? よし、お盆までに着くように急いでそう返事を書こう。と思ったけれど今日はもう無理。そろそろお店に行く準備しなきゃ。
マサさんの部屋からお店までは、マサさんが言った通り倍くらいの距離になりました。それなら歩く時間も倍で十分、と言いたいですが、実際には十五分くらい掛かります。だって、マサさんの部屋からだと大きな通りを三つも横切らないといけないから。前の部屋からお店までに信号なんてなかったけれど、大きな通りには信号があります。そしてなぜか一斉に青になります。なので一つの通りを渡って次の通りに辿り着くと赤に変わってしまいます。車のスピードだったら一気に渡れるんだろうけど徒歩では無理です。車のために一斉に青になるのかな。なので全部の信号で立ち止まることになるから十五分くらい掛かります。
私も出勤は私服となったので更衣室で着替えます。ちなみに帰りはマサさんと一緒にタクシー。でも、マサさんは帰らない日もあるのでそう言う時は歩きます、と言ったらマサさんに怒られました。深夜の道は危ないからかな、と思ったら、深夜に酔っぱらって歩いてるところを警察官にでも声を掛けられたらどうするんだ、と。そっか、私未成年だからお酒飲んでなくても補導されるよね。と言うわけで、一人の時もタクシーで帰ります。でも、深夜にワンメーターの行き先を告げた時、運転手さんによっては明らかに機嫌が悪くなるから気を遣うんだけど、しょうがないか。
更衣室の私のスペースに昨日の服を掛けて皺伸ばし。帰りは着て帰るのでいつも翌日持ってきます。汗を拭きながらさっと着替えてホールへ。ホールの方がクーラーが効いているので涼しいから。お店の服に着替えたら、もう汗はかきたくないです。
ボックスで帳面を見ているママの前を過ぎてカウンターの中へ。私はすっかりカウンターの中が定位置になってしまいました。嫌ではないんだけど、お客さんが多い日のカウンターはほんとに忙しいので、たまにはホールに出たい、なんて最近思います。
チャームの補充とかをしていたら、
「おはようございます」
と、一人、また一人と出勤してきます。そしてサキちゃんを先頭にぞろぞろと四人入って来まし。三月末に入った三人、辞めることなく続いています。と言うか、もう完全に馴染んでいます。最近は辞めたいなんて話も一切しません。理由は多分、お給料。彼女達が以前勤めていた工場では一万二、三千円しかもらえていなかった様子。あっ、彼女達はそれで工場を逃げ出して来た、とかではないですよ。そこの社長が工場を閉めたそうです。その時に、故郷には帰れない、でも他で働くツテもない、って残った子に、どんな仕事でも良ければ世話してくれるところに連れて行ってやる、と言って連れて来られたのがこのお店をやってる会社、の、仲間の会社だったようです。そしてそれがあの日の朝だったのです。
で、このお店で働いてもらえるお給料は、手元にもらえる半分ほどの金額でも二万円程ある。感激したようです。しかもその感激はあの異常な部屋でもう一か月も過ごしてから味わったもの。
サキちゃんから聞いた話では、初めて彼女達の所に酒井さんや愛のボーイさん達が押し掛けた時、すごいことになったようです。サキちゃん曰く、強姦の現場を目撃した気分、です。まあ、本人達にしたら間違いなく犯されたって気持ちでしょう。でも、私達だって完全に合意のもとにしているわけじゃないから、厳密に言えば日々強姦が行われているわけだけど。そしてその頃はことあるごとに辞めると言っていました。でも、仕送りのために辞められない、と踏ん切りがつかず暗く悩みを抱える顔をしていました。男性陣からしたら新しい女の子なので代わる代わる連日押し掛けている。ほんとに耐えて耐え抜いていたのでしょう。そのうち嫌々でも続けば慣れてしまった様子。文句は言うけど辞めるとは言わなくなりました。そしてお給料をもらうとその文句もトーンダウン。仕送りしても十分手元に残る。仕送りの額を増やすこともできる。そう思って割り切った、のかどうかは分かりませんが、すっかり馴染んじゃいました。それで良かったのかどうかは知らないけど。
五時半からの朝礼の最後にママがこう言います。
「えー、今月は十三日から十七日までお盆休みにしてますが、その休み前の十二日でカオリとチエがお店を辞めます。でも、出勤表は変更しませんから皆さんはそのままです。では、今日もよろしくお願いします」
全員で、よろしくお願いします、と返した後、ざわざわと騒ぎになり、二人は囲まれます。その中で騒ぎに混ざらないのは私とサキちゃん、紘一さんの三人。なぜなら知っていたから。
実はカオリさんに頼まれてサユリさん、もとい、今は本名に戻っているので律子さんのお店に連れていきました(ちなみにユキさんの本名は利美さん)。カオリさんにしたら律子さんは年下だけど、自分のお店を持った先輩なので話を聞くためです。
あっ、言い忘れてましたが律子さん達のお店は六月に開店しました。名前は、スナック竜吉。竜吉? 変な名前、と思って聞いたら、中日スタヂアムが近いから、ドラゴンズファンが喜んで来てくれるかなって、と、説明されました。その名前のおかげかどうか、お店にはすぐにそれなりのお客さんが来てくれるようになったようです。それは二人が開店前に見込んだ以上。でも、サユリさん達を連れて行った時は浮かない顔でした。その浮かない顔の理由はサユリさん達には大いに参考となりました。
水商売は複雑で難しいみたいです。律子さん達はパープルのお酒の原価を知っていたけれど、そんな金額では仕入れられない、とも理解していました。酒屋さんにとってパープルほど大口のお客さんにはなれないだろうと思っていたから。なので普通の酒屋さんで買う金額で想定しました。それ以上高くなることはないと踏んで。でも、繁華街と言うのはどこにもそこを仕切っている会社があるようです。パープルを経営している会社と似たようなところ(平たく言えば、怖い人の会社)。そして、そこが指定する酒屋さんから仕入れないといけない。しょうがないのでその酒屋さんにお願いすることにしたら、なんと普通の酒屋に買いに行くよりも高い、それもかなり。でも怖いお兄さんたちの会社、逆らえずそこから仕入れることに。
そしてそれだけではありません。律子さん達はおしぼりも自前で小さなタオルを用意して、自分たちで洗濯して出そうと考えていました。貸しおしぼり代が勿体ないから。でも、おしぼりもその会社が指定するおしぼり屋さんに頼まないといけないことに。それは想定していなかった出費なので、試算上はマイナスにしかならない金額。そのほかにも細々といろいろあるようです。そしてトドメが管理料とかって言うもの。その会社に毎月一定の金額を払い続けなければならない。もう、赤字じゃないだけ、って状態の様でした。二人の生活費を含めると持ち出してるかも、と。
で、カオリさん達に取って一番参考になったのは、律子さん達がそんな想定外の出費を背負うことになった理由でした。同じ並びにあるラーメン店の店主とは親しくなったので、そんなことを愚痴のように相談したら、開店準備を始めた時にちゃんと(その会社に)挨拶に行ったか? と聞かれたそうです。そんな会社があることも知らなかった律子さん達は、当然行ってないと答えます。すると、だから嫌がらせされているんだ、と言われたそうです。事前に何も言って来ずに勝手に店を出そうとしている、とんでもない奴らだ、搾り取ってやれ、くらいに思われてるぞって。なので一年くらい経ったら、無事に一年続けられました、ありがとうございました、って土産持ってって頭を下げて、それから諸々の値下げを頼み込むしかないんじゃないか、と言われたそうです。
私には理解不能なことでした。なんでそんな会社の許可みたいなことが必要なの? そんな会社の言うことを聞かないとお店は出来ないの? と、疑問と不満しか浮かびませんでした。なので帰ってからマサさんに話しました。
「しょうがねえよ」
と、冷たい一言。
「何とかならないんですか?」
「あのなあ、よそが仕切ってるとこに俺らみたいなのが口出したら戦争になるぞ」
「……戦争?」
「ああ。まあ、せいぜい向こうの機嫌とって、早く勘弁してもらえるように祈るしかねえな」
理解出来なくて私はさらに不満が募ったけれど、マサさんがこれ以上話す気がないのも分かりました。どうしようもないことなのかもしれない、とも。
でもカオリさん達は、そう言う会社の存在を調べて、事前に挨拶に行ってから話を進めないといけない、と言う大きな教訓をもらえたのでした。そんなことがあったので、私達はカオリさん達からお店を辞める話を事前に聞かされていました。二人のお店が十二月に開店予定と言うことも。
朝晩は肌寒いほど涼しくなった十一月一日土曜日。その日カウンターで一緒だった、チエさんと仲の良かったマサコさんから驚きの話を聞きました。チエさん、カオリさんがお店の開店を断念したと。
開店のために方々へ挨拶に回り、相談と言う名の根回しをしていたようですが、うまくいかなかったようです。とてもじゃないけれど、指定されるところから指定されるものをすべて仕入れ、言われた金額を納めて回っていたのでは、全く採算が合わない。外れとは言え、栄と言う巨大な繁華街、ツテもなく開店しようとするとこうなるんだ、と諦め、開店を断念したそうです(後日マサさんが仕入れた話だと、カオリさん達に法外な出費を強いる仕切りをした会社が、そのビルのテナントスペース全てに自分の所の関係するお店を入れることになり、それ以外の出店者をすべて追い出しに掛かっていたとのことでした)。
そしてなお悪いことに、出店予定のビルのオーナー会社に出店を見合わせると申し入れたら、ビル自体がまだ完全に完成しておらず仮契約だったのに、手付として先に払った保証金、家賃六か月分を返せないと言われたとか。出店見合わせはカオリさん達の事情、と言う形に誘導されているので、見込んだ家賃の損失分としてこれは当然のこと。貸主側の主張はこうで、どうにもならなかったようです。
「で、どうするんですか?」
聞き終えて、マサコさんに尋ねました。
「そんなの分かんないよ。お店出せなくなったって、今の話聞かされただけだから」
「そうですか」
「でも、またどっかで働くしかないんじゃない」
「えっ?」
「保証金、いくらか言わなかったけど、かなりになるでしょ? もう、お店出すお金なんてないんじゃないかな」
翌日、日曜日だけど、戻らないかもしれない、と言ってマサさんが朝から出掛けてしまいました。なので律子さん達のお店へ遊びに行きました。サキちゃんを誘おうと思ってパープルの部屋に電話したらアユミさんが出て、サキちゃんと紘一さんは出掛けたと言われました。なので一人です。
律子さん達のお店はプロ野球をやっている間は日曜日もお店を開けていました。店内でラジオやテレビで野球の中継を流すと、プロ野球ファンが来てくれるからと。でも今はプロ野球はやっていないので今日はお休み。
薄く開いていた扉を開けて中を覗くと、右側のカウンターの中に利美さんがいました。何も告げずにいきなり来たので驚いた顔をしています。左側は壁沿いが長椅子のようなソファーになっていて小さなテーブルが二つあります。そのソファーに律子さんが座っていました。カウンターの中の冷蔵庫の上に置かれたテレビを見ていたようです。その律子さんも私を見て驚き顔。
「こんにちは。いきなり来ちゃってすみません」
そう言いながらお店の中に。
「ううん、いいよ、久しぶり」
利美さんがそう返してくれます。その利美さん、水にさらして水切りしたあとと思われる玉ねぎの入ったざるを持って、その玉ねぎをトレーに並べた何かの上に盛り付けています。
「どうしたの?」
と言う律子さんに答えず、
「南蛮漬けですか? 鯵?」
と、利美さんに聞いちゃってました。
「うん、今日は小鯵がなかったから切り身で」
「へぇ~、おいしそう」
「でもねえ、小鯵だと背骨ごと食べられるんだけど、この大きさだとちょとねぇ」
「背骨ごと食べられないとダメなんですか?」
「そんなことないけど、そっちの方がいいって言うお客さんがいるから」
そう言いながら利美さんは鷹の爪を何本か玉ねぎの上に置いた後、細く切った昆布を乗せていきます。昆布は下にも敷いてあったような気がするけど上にも乗せるんだ、と思いながら見ていたら、
「鯵の南蛮漬けはうちの定番メニューになっちゃったのよ」
と言いながら、律子さんが私の横に来て同じようにカウンターの中の利美さんの手元を覗きます。
「そうなんですか」
「うん、これ食べるために飲みに来てくれる人がいるくらいになっちゃった」
「へぇ~、すごいですね」
律子さんがカウンターの椅子に腰かけて、
「で、今日はどうしたの? 何かあった?」
と、私に聞きます。
「特にってわけじゃないんですけど、ちょっとお話ししたいなって、暇だったし」
「暇つぶしに来たんだ」
「いえ、そんなわけじゃ。お話ししたいこともちゃんとありますよ」
「ふ~ん、で、何? 話って」
律子さんはそう言いながらタバコに火をつけようとします。すると、
「タバコ禁止」
と、利美さん。
「ああ、ごめん、つい」
そう言って律子さんはタバコを戻します。
「禁煙にしたんですか?」
と聞いたけど、カウンターの上にはたくさん灰皿がありました。
「ううん、仕込み中は吸うなって言われてるの」
「料理にタバコの匂いが付いちゃうからね」
律子さんに続いて利美さんがそう言います。
「どうせお客さんがばんばん吸ってる中で出す料理だから一緒だと思うんだけどね」
と言う律子さんに、
「何か言った?」
と返す利美さん。相変わらず仲は良さそうです。律子さんはそれには答えずまたこう聞いてきます。
「で、話って何?」
でもそれに答える前に利美さんがこう言いました。
「もうこれ終わるからお昼食べながらにしない? マリちゃん来てくれたんだから隣行って何か食べよ」
「そっかそうしようか」
と、律子さんが応じます。
隣の喫茶店に入ってから気付きました。このお店、日曜日にやってるんだって。それを律子さんに言うと、ここは土曜日がお休みなの、とのこと。お店は律子さん達の所と同じくらいの広さでした。お客さんは入ってすぐの席に年配の男性が一人だけ。私たちは短いカウンターの奥の四人席に座りました。そして三人ともナポリタンを注文。
木のトレーの上に載った鉄板焼きの状態で出てきました。楕円形の鉄板の上には溶き卵が流してあり、その上にスパゲッティー。ジュージュー音がしていておいしそう。焦げたケチャップの匂いもとってもいい。
出て来たナポリタンを食べながら、私はカオリさん達がお店を断念した話をしました。残念がりながらいろいろ聞いてくる二人に知っていることを全部話しました。
「まあ、カオリさん達は栄だからね、うちよりいろいろあるだろね」
「ですね、ほんとに、お店出すまで分からないですからね」
二人がしみじみそう言います。そしてまた、二人のお店の悩み、愚痴になりました。
お酒はいくら飲んでもらってもあんまり儲からない。席料はそんなに取れないし、料理で稼ぐしかない。みたいなことを二人が話していたら、
「あんたらのとこ、ダルマ(ウィスキーの名前)置いてる?」
と、カウンターの中から喫茶店のママさんが声を掛けてきます。一人いたお客さんはもういませんでした。
「はい」
律子さんが答えます。
「いくらで仕入れてる?」
ママさんが続けて聞いてきます。それに律子さんが答えると、
「はあ? な~にそれ」
と、呆れた様子のママさん。私たちは顔を見合わせました。
「最近またいろいろと値段が上がってるけど高すぎない? そこらの酒屋で売ってる値段の方が安いんじゃないの?」
「そうなんですけど……」
「山川商店よね」
ママさんは二人のお店にお酒を卸している酒屋さんの名前を言いました。
「そうです」
「と言うことは何? あんたら近藤商事にいじめられてるわけ?」
今度はこの辺りを仕切っている怖い人たちの会社の名前です。律子さん達はその名前を聞いてまた顔を見合わせます。
「近藤商事には月にいくら払ってるの?」
構わずそう聞いてくるママさんに、ちょっと躊躇ってから律子さんがそれにも答えました。
「はあ? 喫茶店とスナックじゃ違うけど、うちの倍以上だわ、三倍の方が近いくらい。あんたら何やったの」
その問い掛けに律子さんが、近藤商事のことを知らずに開店しようとしたのでこうなった、みたいな話をしました。
「まあ、それはねぇ……」
ママさんもしょうがないと言った顔でそう言います。そして、
「でも、素人の娘二人にちょっとひどすぎるわねぇ」
と、言った後、さらに続けてこう言います。
「分かった、今度山王開発に話してあげるわ」
「山王開発?」
首を傾げる二人。
「近藤商事の上よ。知らないの?」
「はい」
と頷く二人。
「はあ、ほんとに素人ね。それでよくスナックやろうなんて思ったわね」
俯く二人。
「まあいいわ、話しといてあげる。うちの隣の店がいじめられてるみたいだけど、可哀そうだから何とかしてやってって」
「えっ、いいんですか?」
律子さんがそう返します。
「まあ、隣同士の好みって奴よ」
「でも、そんなこと言ってママさんの所は大丈夫ですか?」
「はあ? うちは……」
ママさんはそこで一旦言葉を切りました。そしてこう言います。
「じゃあ、話し賃でコーヒーも飲んでってよ」
「えっ?」
「ね、そうしよ」
「は、はい、頂きます」
「ありがと」
そして私達が食べ終わった頃、コーヒーを出しながらママさんはこう言います。
「コーヒー頼ませといてなんだけど、話してもどうにもならなかったらごめんね」
「いえ、よろしくお願いします」
二人と一緒に私も頭を下げました。
少ししてからの後日談になりますが、年が明けてから律子さん達のお店の仕入れは適正価格になりました。貸しおしぼり代は余分なままだけど、価格はうんと下がったようです。管理料ってのも半額くらいになったとか。隣のママさんは何者なんだろう、と思っていたら、その後親しくなってから聞いた話、あのママさんは昔、錦のクラブでホステスをしていたとか。そしてあの時話に出た、上の会社の偉い人の愛人だったようです。愛人って言うのは今一つ分からない私ですが、とにかくこれで二人のお店が良くなりそうなので私も嬉しいです。良かった良かった。
十二月に入った最初の金曜日、とても忙しい日でした。忙しいのに、ルミさんとサヨさんが風邪でお休み。ママが応援を頼んだ、愛、の方も今日は忙しいようで誰も来てくれない。一組でも団体のお客さんが入っていたら、まだ何とか女の子の数も足りるんだけど、今日は数人のお客さんばかり。なので一緒にカウンターに入っていたアユミさんもボックスにまわり、ボーイさんまでお客さんの話し相手をしている有様。
閉店まで一時間を切った十一時過ぎ、私の前にいたお客さんは帰って行きました。でも店内にはお客さんがまだ一杯。今日は二時くらいまで終わらないかな、なんて思いながら、ボックスのお客さん用に氷を割ったりしていました。
そんなことをしているところにまた店の扉が開く音が聞こえました。
「いらっしゃいませ」
と、声を掛けながら戸口を見ると、二人入って来ました。桜井さんと、最近一緒に来る桜井さんの後輩、鈴木さん。
「こんばんは、閉店までには帰るからちょっと飲まして」
と、カウンターのいつものイスに桜井さんが座ります。
「今日は多分十二時で終わらないんでゆっくり飲んでくださっていいですよ」
そう言いながら桜井さんと、隣に座った鈴木さんにおしぼりを渡しました。
「ゆっくり飲みたいんだけどね、明日もあるからそんなに飲んでられないよ」
「はあ、明日か……」
鈴木さんはため息を吐くようにそう言います。
二人にビールをお注ぎしてお通しを出してから、二人が脱いで横のイスに掛けていたコートを入り口横のクローゼットに掛けに行きました。カウンターの中に戻るとビールは一本で終わり、すぐに水割りを頼まれました。鈴木さんからはおかきの注文。
二人は座ってからずっと仕事の話をしています。水割りとおかきを出してからも一緒です。なので私は水割りを舐めながら話を聞いていました。勝手に飲んでいるわけじゃないですよ、桜井さんが私にも勧めてくれたものです。
「結局、年内に公社は出来ないですね」
と、鈴木さん。
「公社法が成立しなかったからな」
「ですね。でも、来年は通りますよね、それも早いうちに」
「だろうな」
「そしたらすぐに名古屋高速公社の設立。これで一気に進みますね」
「だといいけどな」
そう言うと桜井さんがタバコを咥えました。なのでカウンターに置いてある卓上ライターを手に取って火をおつけしました。桜井さんはほとんどタバコを吸いません。最初の頃はタバコを吸わない人だと思っていたくらい。でも最近はよく吸います。
「えっ? ひょっとして反対運動が気になってます?」
「うん? まあな」
「大丈夫ですよ、公社が出来たら大々的に交渉が始められますから」
「……」
「東京や大阪は公団でしたけど、公団が出来てから一気に進んだみたいじゃないですか」
「だけど、東京や大阪の頃と状況が違うからな」
「何がですか?」
「公害だよ。最近そっちの声が大きいだろ?」
「ああ、でもあれって、反対派に入れ知恵してるやつが絶対いますよね」
「まあな、でも、新聞なんかでもだいぶ取り上げられてるからな、それだけ一般の人も関心があるってことだろ」
「まあ、この地域は四日市がありますからね」
「だろ」
「でも、木戸市長は完全に推進派ですから大丈夫ですよ」
高速道路の話。鈴木さんが一緒に来るとこの話ばかりです。高速道路の話はマサさんが喜ぶので私は大歓迎。なので一生懸命耳を傾けていました。
「いや、最近聞いたんだけど、反対派から議員に金がいってるらしい」
「えっ?」
「市の議員を反対派に抱き込んでるんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、まだ大した動きじゃないみたいだけどな」
「でも市長がやる気なら関係ないですよね」
「いや、議会で調査やら建設の予算、否決されたら市長だってどうにも出来ないだろ」
「そんな、そんな大勢抱き込むつもりなんですか?」
「分からん、けど、やるならそこまでしないと意味ないだろ」
「はあ、まったく。それって例の鏡池の大地主ですか? 山本でしたっけ?」
「多分な。それに、唐山町の方でも安藤って人が動き始めてるらしい」
二人は私なんて存在しないかのように真剣でした。でも、議員の話と、出て来た二人の名前、今夜はマサさんが喜びそうな話が出来そう。私はそんな呑気な頭でいました。
その夜、布団の中でマサさんに寄り添いながら話をしました。
「今日の桜井さんの話、面白かったですよ」
「高速の話か?」
「はい、なんか反対派の人が議員さんにお金払ってるとかって」
「ああ、山本って爺さんだろ」
「あれ? 知ってたんですか」
「まあな」
少しがっかり、でも続けました。
「それと、からやまってところの安藤って人」
「唐山の安藤? ほんとか?」
「はい、そう言ってましたよ」
「そうか、それは稼げそうだな」
そう言うとマサさんはうつ伏せになりタバコに火をつけます。布団が一瞬開いて冷気が入って来ました。私はマサさんにピッタリくっつきます。くっついてこう聞きました。
「稼ぐって?」
「その安藤ってのが議員に金バラまく間に入るんだよ」
「えっ? その人、反対派の人ですよ」
ちょっと驚いてそう聞きます。マサさんの会社は推進派の方だと聞いていたから。
「分かってるよ」
「いいんですか? 反対派の人なのに」
「何言ってんだ、山本の金を議員にばらまいてるのもうちだぞ」
「えっ? 会社って推進派の応援してるんですよね」
「ああ、だから反対派が強くなると推進派はまた金を使うだろ。そしたら今より大きな金が動く」
「両方応援してるってことですか?」
思ったまま聞きました。するとマサさんは小さく笑います。
「応援か、まあそうだな。ただ、うちは推進派だぞ。反対派の方をやってるのはうちの仲間、東山開発だ」
「仲間で逆のことやってるんですか?」
「ああ、お互いに知ったことを教え合って動いてんだよ」
「そうなんですか。でも、それだといつまで経っても高速道路出来ないんじゃないですか?」
また思ったまま聞きました。
「まあな」
「ええっ? マサさんは高速道路、出来て欲しくないんですか?」
「そりゃ最終的には出来てもらわないと困るさ」
「……」
最終的?
「工事中は工事中で儲け口があるからな。中止になったらそれで終わっちまう。ただ、工事は始まっちまったら終わりが見えちまうからな、それまで長引いた方がいいんだよ」
「えっ?」
「今みたいにずっと揉めててくれたらずっと稼げるからな」
私には理解出来ない話です。
「……中止になっちゃったらどうするんですか?」
なんとなくそう聞いてました。
「はあ? 今更それはもうない」
「でも、反対派の人が勝っちゃったら?」
「お前分かってないな、もういたるところで工事は始まってるんだぞ」
「えっ?」
「国道の整備工事や下水道だってことで今はやってるけど、実際は高速作るための下工事なんだよ。それだけでもう、とんでもない金を使ってる。今更誰がどう騒いだって止まらないんだよ」
本当に私には理解出来ないことでした。揉めてる間は稼げる。だから最終的にどうなるかは分かっているのに揉め続けさせる。仕事なんだから稼ぐのは当たり前なんだけど、これは正しい稼ぎ方なの? 誰かのためになる仕事なの? そんな風に思い始めました。
それでも、その後も私は桜井さんや鈴木さんから聞いた話をマサさんにしていました。なんとなく後ろめたさは感じていたけれど、マサさんと一緒にいたかったから。その話が聞けるから私を傍に置いている、そんな風に思っていたから。
昭和四十五年
春が過ぎて夏になる頃、紘一さんが自分で部屋を借りてパープルの部屋を出ました、もちろんサキちゃんを連れて。その頃私は二十歳になりました。そしてそのしばらく後、お店が、扉、に変わりました。マサさんが私を扉に移したのです。桜井さんの話が聞けなくなる、と思ったけれど、行けと言われたら行くしかないので従いました。
扉はスナックではなくクラブです(ちなみに、愛はスナックとなっていますが、実際はラウンジ。クラブと同じ扱いのお店だったようです)。接客は対面ではなくお客さんの横に座って行うスタイル。そして接客のフォローは全部ボーイさんがやってくれるので、ほんとに座って会話してお酒を飲むだけの仕事。会話の話題に私は乏しいので不安だったけれど、なぜだか高速道路関連の仕事をしているお客さんにつくことが多かったです。市役所の人、建設会社の人、桜井さんとは別の商社の人、とか。その話題ならある程度はついていけます。なんだかラッキーでした。私をそう言うお客さんの所につかせていたお店の思惑なんて知らないことでした。
お店で聞いた話をそれからも、私はマサさんにしていました、嬉々として。
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