本当の人生の厳しさ 3
佐藤コウキ
第1話
本当の人生の厳しさ 3
それは午後5時過ぎに始まった。
急に胸が苦しくなり、まともに息ができない。胸の中に何かが詰まっているような感じだ。
私は動画サイトを見ていたパソコンから離れて床に横になった。すると、逆に息苦しさが増したので上半身を起こし、荒くて小さい呼吸を続けた。
何が起こったのだろう。男として生まれ、60年以上も生きてきて、こんなことは初めてだ。もしかしたら、これが狭心症というものか。
ああ……前触れもなく、いきなり病気が襲いかかってきた。
いや、前兆はあったのだ。会社の健康診断では、いつも心電図で引っかかっていた。診断結果にQ波がどうのこうのと書いてあったのだが、大したことはないだろうと、ずっと無視していた。その無神経さが祟ってしまったのか。
しばらく我慢していれば良くなるかと思ったが、夜中になっても状況は良くならない。
救急車を呼ぶか。
そうは考えたが、緊急車両を呼ぶには保険証を用意したり着替えなどを準備したりしなければならないだろう。だが、今はその気力が起きなかった。立ち上がるのもやっとのことで、トイレに行くのも一苦労だ。
こんな時はアパートでの一人暮らしが不便で不安だと思い知らされる。
プハ、プハ、プハーと溜めるように細かく息をすると少しは胸の締め付けが楽になるよう。私は上体を起こしたままで座り、その呼吸法を一晩続けた。
暑苦しい真夏の夜中、照明を消したままで布団の上に座り、訳のわからないものに苦しむ。
もしかしたら、このまま死んでしまうのか……。
総毛立つような恐怖が凍えるように体を震わせた。
私は人生で何も成していない。このまま火葬されてしまえば、私の人生は犬と同じ。生まれてきた価値がないではないか。
ああ、こんなことなら、毎日もっと努力して生きてくれば良かった。
私は耐え続けた。
カーテン越しに朝日が部屋をぼんやりと明るくさせる。
だいぶ胸は楽になったのでネットを使い、近くの病院を調べて予約した。そして、今日は欠勤する旨を会社に連絡した。
午前10時になり、多少は動けるようになった。
私は血圧が高いので月に1度、内科に通っている。だから、お薬手帳なども持っていて健康保険証などと一緒に鞄に入れた。
病院は近いので電車で行っても良いのだが、倦怠感がひどくて体力的に無理だと分かる。仕方なく、10年ぶりにタクシーを呼んだ。
2階から1階に降りる階段が苦痛だった。息を荒げて、やっと駐輪場に到着。立っているだけで辛いので、土をかぶったコンクリートに腰を下ろしてタクシーを待った。
*
タクシーを降りて循環器系の病院に入り、受付で渡された問診票に現在の体調などを記入して看護婦に返す。
待合室は混んでいた。世の中には、これほどの病人がいるのだなあ。長椅子に座っていると、人間は病気なのが当たり前で、健康なことが珍しいことのように思われてくる。
呼ばれたので診察室に入り、若い医者に体の状態を説明する。
「これは……ちょっと悪いような気がしますね」
聴診器を私の胸に当てて、その若い男は首をかしげて表情を曇らせた。
「とにかく、検査をしましょう」
医者の指示に従い、検査室に入った。
最初は採血。入院する可能性があるというので、点滴用のチューブを取り付け、そこから血を採った。チューブはそのままでテープを巻いて上腕部に固定。
それから、レントゲンとエコー検査。そして、最後に胸部CTスキャンをやった。造影剤が入ると体が熱くなった。
検査後、診察室の前で名前を呼ばれるのを待つ。
たぶん、狭心症だろう。薬を貰って、急に発作が起こったらニトログリセリンとやらを飲めばなんとかなるんじゃないかな……。楽観的な方向に心の舵取りする。
しかし、若い医者の言葉は私を突き放した。
「これは、かなり悪いですね……」
医療用のパソコン画面を見て、つぶやくように宣告した。
「あらら……」
そんな返事しかできない。
「心臓の血管が完全に詰まっています。心筋梗塞というやつで、よく自分で病院に来ることができましたね」
マウスで心臓のスキャン画像をクルクルと回して、目を細めている。
「そうですか……」
採血の検査結果を印刷して机の上に置く。
「見てください。トロポニンが0.71もある」
「はあ……」
医者が結果を指さすが、私の頭には入ってこない。
「すぐに入院して緊急手術しなければなりません」
医者の目は真剣だった。
あーあ、どうすればいいのか……。着替えとか準備もないのに、このまま手術するのか。入院するなんて私の人生で初めてのこと。雑事が私の頭の中を駆け巡る。
「あのう……一度、帰宅してから準備をして来週辺りに、また来るということではダメですか」
力のない声で訊ねた。
「いいえ、いけません。このまま帰すということは医者としてできません」
キッパリと言った。
「これは重傷なんですよ。もしかしたら、死んでいても不思議ではないくらい……なんですよ」
相手は私の目をのぞき込むようにして説得している。
「そうですか……分かりました」
他に選択肢はないだろう。覚悟を決めた……というよりは、状況に流された。血流が足りないせいで思考がボンヤリしているよう。
医者の横に立っている若い看護婦が気の毒そうに私を見ている。
一礼して診察室から出る。足がふらつくので、近くのイスにつかまって退室した。
私は車椅子の乗せられ、エレベーターで2階のナースステーションに運ばれた。
手術と言っても開胸手術ではなく、カテーテルという物を使って詰まっている心臓の血管を広げるらしい。そんなに時間もかからないという看護婦の話だった。
病院は3階建てで、上から見ると楕円形のような形をしている。
フロアの中央に楕円形に区切られたエリアがあり、医者や看護師の机が並んでいた。
私は4人部屋の窓際のベッドに運ばれた。
看護婦が数人集まってきて、その一人が私のズボンとパンツを脱がそうとする。
「あ! どうするんですか」
私は足を閉じて抵抗した。
「尿道にカテーテルを入れます」
40歳くらいの我の強そうな女。
「そんなものを入れるんですか」
「そうするくらいに症状は重いんです!」
言い放つと、一気に剥ぎ取った。
60歳を過ぎているのに女達の前でチンコをさらしている。どんな恥辱プレイだよ。
せめてもの救いは、血液が足りないせいで感性が鈍くなっている状態であること。健康だったら恥ずかしくて情けなくて泣いているだろう。
看護婦が薄いゴム手袋を付けた手で私のチンコをぎゅっと握り、右手で細いチューブを尿道に入れてきた。
今までに経験したことのない感覚。チューブが膀胱に達したときは、「あっ」と声を上げてしまった。
そのカテーテルは手術中にトイレに行かなくても済む処置だ。
それから、大きめのシェーバーで剃毛される。
点滴などを装着して準備が整うと、ベッドに横たわったまま1階の手術室に運ばれた。
ベッドは部屋の中央に置かれ、すぐ右横には大きなディスプレイが数枚並んでいる。そして、2本のアームが自由に動くようになっており、その先端にはビニール袋で包んだ検査機が取り付けてあった。
部屋は寒かった。室温を下げないと検査機がうまく働かないという話。
「ニトログリセリンを使います」
インターンと思われる若い男が私の舌の裏側に少し甘い液体をスプレーした。
担当医の準備が整うと、私の体の上にブルーシートを敷く。
それは、手首の動脈を切ってカテーテル挿入用のチューブを入れるので、血が飛び散っても構わない様にするための措置。
両方の手首に局部麻酔の注射を打ち、チューブを入れるよう。ブルーシートのおかげで、視界は天井だけ。その場面が見えないようになっているので助かる。
やがて、チューブがグリグリと血管に入ってくる。その痛みで10センチくらいは入っただろうというのが推察できた。
そして、いよいよカテーテルを入れる順番。
全身麻酔などはしていないのでカテーテルが腕に入ってくるのが分かる。腋を通り、やがて心臓がチクチクした。
金属製のアームが私の胸の上であちらこちらに動く。
鼓動が早くなると、壁に取り付けられている黄色のランプが点灯した。
苦痛はないが、ジッと横になっているのは精神的にジリジリしてくる。
「どうも、血管の方向が分からないな」
担当医がつぶやく。
その医者は私の左側に回り、今度は左手首からカテーテルを入れ始めた。
神様、お願いします。私を助けてください。この手術を成功させてください。
普段は神頼みなどはしないのだが、いよいよとなると人間は神様にすがるしかないようだ。
両手は板に固定されて動かすことができない。つまり、手術が終わるまでジッとしていなければならないのだ。体が熱くなって喉が渇いてきた。
「すいません、水をもらえませんか」
部屋の端の机に座っている看護婦に頼む。
そのおばさんは、ちょっと待ってくださいと言って医者の様子をうかがう。作業が止まるのを見計らって医者に許可を求めた。
「いいでしょう」
承認を得て看護婦は水差しを持ってきて、身動きのとれない私の口に少量の水を注ぎ込む。
水を飲み込むと少し落ち着いてきた。
手術は1時間も続いた。
その頃になると、カテーテルを差し込まれた膀胱がうずき出す。変な残尿感があって、それがたまらなく不快だ。
叫び声を上げて暴れたくなる衝動がムクムクと膨らんでくる。
今は2本のカテーテルが心臓の血管に入っている状態。もし、大きな動きをすれば心臓はグチャグチャになって私は死んでしまうだろう。ただただ、我慢して耐えるしかない。
私は小さな声で歌った。
『365歩のマーチ』を周りに聞こえないように歌う。手術室はブーンという振動音やピコピコという私の鼓動をチャックする音で騒がしかったので、マスクの内側にこもるようにすれば歌っていても他人に聞こえない。
どうして、その曲を選んだのか自分でも分からない。ただ、不意に頭に浮かんできたのだ。
不思議に落ち着いてきた。
しばらくの歌唱の後に医者の「終わりました」という終了宣言が聞こえた。
心底ホッとした。
やっと終わった。私は試練に勝ったのだ。
手術の補助員がブルーシートなどを手際よく片付け始める。
尿道カテーテルと点滴も外してくれるのかと思ったが、それは一晩中そのままだという。
ベッドに横になったまま、装備品を一式つけた状態で手術室を出た。
カテーテル用のチューブが手首の動脈に入っている。
ベッドは待合室の横を通った。
診察を待っている患者が何事かと私に注目。悲惨な状態を見られて、私はちょっと得意になる。
ベッドは3階の集中治療室に運ばれた。
私は、血圧計や心電図のプローブなどを付けられて身動きできない状態。カテーテル用のチューブも手首に刺さっているままだ。
多少、左手を動かすことができたので、ベッドのサイドテーブルに看護婦が置いてくれたスマホをぎこちなく持ち上げた。
会社に連絡しておかなければ。
画面に表示された会社の電話番号をタップする。
すぐに所長が出た。
「どうした、佐藤さん。大丈夫か? 明日は出勤できるんだろ」
いつものように愛想のない声。
「実は私、心筋梗塞で緊急入院して緊急手術をしたんですよ」
しばらくの沈黙。
「そんなに悪かったのか……」
「はい、カテーテルを入れたんですよ」
「そうか、ステントを入れたのか……」
所長は血管を広げるステントを知っていたよう。
「それで、2週間は出勤できないんですが……」
しばらく無言が続く。
「まあ、仕方がないな。だが、診断書は早めに出してくれ」
「診断書が必要になりますか?」
それは看護婦に頼めば良いのだろうか。
「2週間も休むんだから、それは出さないとダメだろう」
「はい、そうですね」
電話を切ってから、社長に連絡した。
社長も驚いていた。彼は優しい人柄だったので、長期休暇を快く許してくれた。
さらに田舎の兄に電話する。
「おまえ、大丈夫か?」
兄は私が手術したことを知っていた。
手術の前に書いた同意書に、保証人として兄の名と電話番号を記入したので、医者が気を利かせて結果を連絡してくれたらしい。
「まあ、無事だったよ」
「お父さんも心筋梗塞で入院したからなあ、遺伝かもな」
そうだったのか、私は知らなかった。
「手術してから20年も生きたんだから、お前もなんとかなるだろ」
「そうかい。それで、ちょっと頼みがあるんだがなあ」
「なんだよ」
「1週間くらい入院するんで、着替えとか必要なんだ。ちょっと、こっちに来てくれないかな」
「……東京に行くのかよ」
あからさまに嫌そうな声。
「頼むよ。他に頼める人はいないしさあ……」
「ちょっと用事があるからダメだな」
用事って何だよ。弟が死にそうな目に遭ったというのに。
「なんとか来てくれないかな。費用はこちらで出すからさ。考えてみてくれよ」
実家は東北の田舎だ。車で半日以上かかる。
「そっちで考えろよ。用事があるからダメだって言っているだろ」
素っ気ない返事だ。子供の頃は仲良く遊んだのに。
しばらく無言でいると電話が切れた。
やれやれ、実の兄弟でも歳を取るとこんなものか。
私はベッドの上で、これからのことをあれこれと考え始める。
とりとめのないことを考えていると、いつの間にか夜になっていた。
ほとんどベッドに固定されているので、寝返りも打てない。
看護婦は夕食として栄養ゼリーを勧めてくれたが、食欲がないので断った。
天井近くに大画面のテレビがあって、集中治療されている患者は自由に見て良いと言われたが、何もする気が起きない。
尿道カテーテルの残尿感は気持ち悪いし、身動きすると点滴のチューブがチクチクと痛む。時々、ベッドの上で背伸びするのが唯一の気分転換だった。
寝返りをするために左上腕部の血圧測定用のカフを外しておいたら、点滴を交換しに来た看護婦から注意された。
一睡もできなかった。
早朝になって治療室がボンヤリと明るくなった頃、看護婦がやってきて採血した。
しばらくすると、男の医者がやってきた。
「血液検査は問題なかったので、チューブを外しますね」
そう言って看護婦と一緒にブルーシートを広げる。
「チューブを入れるときは痛かったですか」
にこやかな顔で医者が私に聞く。
「はあ……」
「取るときは、もっと痛いですよ」
相手は笑っているので、ここは笑って返すところなのか。
手首の動脈がズリズリと痛む感覚。ようやく、手首の異物感がなくなった。
「ほら、こんなに長いものが動脈に入っていたんですよ」
差し出されたのは10センチくらいのプラスチックのチューブ。
「はあ……」
ああ、見たくないな。
両方の手首には動脈の止血用の器具を巻く。それは大きなビー玉の様な袋を連ねた物で、空気を入れて手首を圧迫し、それで血を止めるらしい。さらに手首が動かないように黒いあて板で固定された。
さらに尿道カテーテルと点滴も外す。
ああ、ああ、やっと拘束具から解放されたんだ。
まともな朝食を食べてから、ベッドは2階の4人部屋に移動された。
心臓の具合は良くなった。手術前は少し歩くだけで息切れしたのだが、今は長く歩いても問題はない。
その部屋は、大きな病室をカーテンで4つに区切っている。
私は窓際だったので、外の景色を見ることができた。
スマホでゲームを始めたが、途中で嫌になってやめてしまう。
ボンヤリと外の木を見ながら、とりとめのないことを考えていた。
私の胸には3本のプローブが貼り付けてあり、それはスマホを二回りも大きくしたような重い検知装置に接続されている。
うっかりプローブを外してしまったときは、看護婦が飛んできた。
昼過ぎに若い看護婦がやってきて、ステント手帳や薬についての説明をした。
また、退院後の生活態度についても注意を受け、治療費については高額になるので健康保険の限度額制度を利用するように勧められた。
替えのパンツがないので、介護用のおむつを病院の備品購入で買った。
食事は薄味で塩分が少なかったが、けっこう旨かった。野菜を主体にしているので、1ヶ月も病院食を食べていれば健康になるだろう。
看護婦は皆、明るくて親切という印象。
アラフォーの看護婦が私の顔を見て、俳優のムロツヨシに似ていると言って大笑いしていた。
3日もたつと、同室の老人達とも話すようになった。
向かいの津田さんは、もうすぐ90歳になる。
彼は心臓のカテーテル手術がうまくいかず、他の病院に行ってバイパス手術をすると言っていた。
それは深刻な状態だと思うが、本人はにこやかな顔で過ごしており、看護婦に冗談などを言って笑わせていた。
斜め前の斉藤さんは心臓に水が1リットルも溜まったらしい。苦しかったが、水を抜いたらスッキリしたと笑う。ただ、それがガンなどの悪性な物であるかどうか、検査結果を待たないと安心できない。
隣の人は私が入院中、ずっと尿道カテーテルと点滴、心電図のプローブ、それに訳の分からない装置を体に繋いでいた。トイレに行くときは、看護婦を呼んで車椅子に乗って用を足す。
就寝時間になって照明が消されると、隣の人の装置がチカチカと光るのがカーテン越しに見える。それは隣の人の呼吸と連動しており、しばらく寝息が途絶えると、赤ランプが点滅する。大丈夫だろうかと心配したが、看護婦が来ないので問題がないのだろう。15秒ほどして寝息が戻ったので、他人事なのに安心した。
この病院に入院しているのは、ほとんどが老人で私が最も若い。
人生の荒波を経験し尽くしているのか、老人達に悲壮感はない。淡々と現実を受け入れているようだ。
人間というものは結婚して家族を持つことができれば、せめてもの人生においての意味を見いだせるのかもしれない。
やっと1週間がたって退院の朝になった。
担当医が手術のビデオを見せてくれた。
それは心臓のレントゲンの動画で、ドクドクと動いている心臓。その血管の一部が詰まっており、血流が止まっている。そして、そこをカテーテルが通るとサーと気持ちよいくらいに血が放流された。
ああ、私の心臓はこうなっていたのか。
医者の話によると、もう一本の血管が詰まっており、長く放置していたために血管内が石灰化しているそうだ。それにはロータブレーターというドリルのような物を使って内部を削るという。
そんな物で血管をガリガリと削るのか。大丈夫なのかな、それって。血管が破れたりしないの? 医者の顔色をうかがうと、そんなに深刻な表情ではない。何度もやっている手術なんだろうな……。
2週間後に検査をやってから次の手術の日取りを決めるという。
受付の横にタクシー会社への直通電話が置いてある。
私はタクシーを呼び、荷物を抱えて車に乗り込んだ。
*
1週間ぶりに見るアパートの部屋。
遮光カーテンを開くと午前の強い日差しが部屋に広がる。
「帰ってきたぞー! 私は帰ってきたんだー!」
6畳の部屋に寝転がった。
開放感を満喫してから、ゆっくり立ち上がって冷蔵庫を開く。
すぐに帰ってくるつもりだったので、エビフライなどが中に残っている。
私は缶コーヒーを取り出して飲んだ。
甘くて旨い。
飲み終わって冷凍庫からソフトクリームを取り出す。
夏の暑さで少し溶けるのを待ってから口に入れると禁断の甘さが広がる。
甘くて甘くておいしい。
それを食べ終わってから、録画しておいた番組を見始めた。
大河ドラマを見終えて、バラエティー番組を見始めた頃にスマホが鳴った。
所長からだった。
「よお、佐藤君。元気か?」
「はい、なんとか手術も無事に終わりました。なるべく早く職場に戻るつもりです」
会社には迷惑をかけたので、フォローしなければ。
「ああ……それなんだけどさあ……」
いつもの所長と違って歯切れが悪い。
「こちらとしても困るんだよなあ」
「はあ?」
「あんたが職場に復帰したとしても、途中で倒れたりしたら厄介なことになる」
「はあ……」
「仕事中に何かあっても、こっちじゃ責任がとれないんだよな」
「はい」
相手は何を言いたいのだろう。
「だからさ、来てもらっても困るんだよ……」
ああ、そういうことか……。
「つまり、会社を辞めろということですね」
私も男だ。女々しい態度はしたくない。
「こちらじゃ、はっきり言えない。後は社長と話して決めてくれないか」
「分かりました」
「残った有給はぜんぶ使っていいから。その後のことは社長と相談してくれ」
「分かりました」
通話が切れた後、私は呆然として窓の外に目をやった。
今まで真面目に働いてきたのに、結局はこうなるのか……。会社なんて一生懸命に尽くすような所じゃなかったんだな。
戸惑いと怒りと、それに訳の分からないものが頭の中をぐるぐる回り、思考が混濁化している。
何でこんなことになっちまったんだ。
……私が悪いのか。
体重が増えているのに運動とかしなかったし、甘いものや脂肪の多いものばかり食べていた。成人病になってたとしても、それは自業自得か。
とりとめのないことを考え続けて、しばらくすると何かが心の中に浮かび上がる。
雨でぬかるんだ土。そのグチャッとした中から生えてくるタケノコのよう。
まだ私は生きているんだ。死んだわけじゃない。
生きているだけで丸儲け。そのうえ健康ならばボロ儲け。
私が生きているということは何かの意味があり、生きるだけの価値があるのだろう。
上半身を起こす。
「よし、健康になるぞー。あと、20年は生きてやる!」
私は立ち上がって、部屋に散乱していたペットボトルなどを片付け始めた。
本当の人生の厳しさ 3 佐藤コウキ @toyoko718k
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