死なない死体と精神の逝去における行末の考察

樋川カイト

死なない死体と精神の逝去における行末の考察

 気温が観測史上最高を記録した真夏のある日。

 真昼間だというのにカーテンを閉め切った部屋の中で、男がパソコンに向かってた。

 その暗い部屋の中では、エアコンの駆動音と、男が何かを打ち込むキーボードの音だけが響いていた。

「先生、またこんな環境で仕事してるんですか。ちゃんと換気をして、日の光を浴びないと身体に悪いですよ」

 その部屋に、如何にも大学生と言った風な薄着の女性が、ノックもせずに入ってきた。その女性は部屋に入るなり、自分の腕を抱き身震いすると、男の声を掛けた。

「大丈夫だ、問題ない。日光なら、自宅からこの部屋まで嫌と言うほど浴びてきた。寒さについてはほら、そのようにヒーターの熱でバランスを取っている。まさに『頭寒足熱』という奴だ」

 男は振り返る事もなく答えると、足元のヒーターを指差し、何が可笑しいのか「ハハハ」と乾いた笑いを浮かべた。

「光熱費がかさむから止めてください」

 もう慣れているのか、女性は力なく反論すると、用意しておいた上着を羽織って近くのソファに腰かけた。

「別に君が払っているんではないだろう。光熱費や食費、果ては君の給料まで全て僕の懐から出ているんだ」

「それはそうですけど。毎回それの手続きをしているのは私です」

「それが君の仕事で、僕はそれを任せる為に君を雇っている。文句があるのなら辞めてもらっても構わないが」

「いえいえ、文句なんて滅相もない。私がおまんま食いっぱぐれないのは、ひとえに先生のおかげでございます」

「ふむ、発言に底知れぬ悪意を感じるが、気にしない事にしよう。ときに佐織くん。君は今日、5分27秒の遅刻を犯したが、それに対しての弁解は無いのかい?」

「あら、先生。珍しい事を仰いますね。いつも遅刻するのは先生の方じゃないですか。だいたい、遅刻したのは4分53秒です。それに、私が時間通りに出勤しても、先生の邪魔になるだけですから」

「反省が見られないな。だが、君の言っている事も一理ある」

「先生が良く仰ることです。『屁理屈も、理屈が通れば立派な理論』です」

 佐織と呼ばれた女性は、勝ち誇った表情を浮かべると置いてあった雑誌を手に取りページをめくり始めた。

 男も興味を失ったかのようにパソコンに向き直ると、また何かを打ち込み始めた。

 そして再び、部屋の中には静寂が訪れる。


 ――

 その静寂が破られたのは、正午前になり、佐織が二人分の昼食を買いに行こうと立ち上がった時の事だった。

 ノックの音に続いて扉が開き、そこから清楚な女性が顔を覗かせ尋ねた。

「あの~、宗形先生の研究室はこちらでしょうか?」

「あ、はい。ここで合っていますよ。先生に何か御用ですか?」

「えっと、助手の方ですか?」

「いえ、厳密には違いますが、そのような解釈で良いと思います。先生は、そのあたりで仮眠をとっているはずなので起こしてきます。ソファにでも座って待っていてください」

 佐織は、資料に埋もれるように寝ている宗形を文字通り叩き起こすと、三人分のコーヒーを淹れた。

「すいません、この部屋にはコーヒーとお湯しかなくて。コーヒーで良かったでしょうか?」

「あ、はい。ありがとうございます」

 佐織の渾身のギャグにうろたえながらも、客は愛想よく答えるとコーヒーを美味しそうに飲んだ。

「どうも、初めまして。僕に用があるみたいですが、失礼ですがお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 やっと脳の6割ほどが目を覚ました宗形は、精いっぱいの社交モードを展開すると尋ねた。

「あ、失礼しました。わたし、篠宮と申します。あの、実は先生に折り入ってお尋ねしたいことがあったんです」

「あった、と言うと今はもうないんでしょうか?」

「え?」

「いえ、失礼。何でもありません。それで、尋ねたい事と言うのは?」

 宗形は可笑しそうに笑いながら、相手を促す。隣で佐織が宗形を睨み、篠宮と名乗った女性はその二人を交互に見つめている。

「えっと、尋ねたいことなんですが、とりあえず見て頂けますか?」

 そう言うと篠宮は、意を決した様に立ち上がり上着のボタンに手を伸ばす。そしてそれを一つずつ丁寧に外していく。

 そして全てのボタンを外し終わり、篠宮がその服を脱ぎ捨てた時、宗形と佐織は言葉を失った。

 それは単に、相手の突飛な行動に驚いたからではない。問題はその体にあった。

 篠宮の胸、丁度心臓のあるであろう場所に、まるで刃物で切り取ったかのようにポッカリと穴が空いていたのである。その穴からは、本来なら見えないはずの後ろの景色までがしっかりと見えていた。

「えっと、それはどうなってるんですか? トリックか何か?」

 たまらず佐織は声を上げる。その声は上ずっており、まるで種の分からないマジックを見せられたようだ。

「いえ、見た通り穴が空いているんです。肉も、骨も、内臓も、全て切り抜かれています」

 そう言って篠宮は、その穴に右手を通す。右手は何の抵抗も受けずに穴を通り抜けると、そのまま背中を触る。

 佐織は突然吐き気に襲われた。人と言うのは、自らの信じられない者を見ると気持ち悪いと感じる事がある。その点では、どうやら佐織は正常な人間だったらしい。

「ちょっと失礼。僕も通してみても良いですか?」

「ええ、どうぞ」

 対して宗形の方は、興味津々の様子で立ち上がると、篠宮の穴の中に手を伸ばしていた。

 その手も勿論何にも触れる事は無く、穴が篠宮のたちの悪い悪戯ではない事を証明した。

「ふむ、確かに貫通しているようだ。しかし、生命活動には影響ないんですね」

「はい、何処にも異常はありません」

「なるほど、ただ穴が空いているだけか」

「ただ空いてるだけ、じゃありません! 何でそんな状態で生きてるんですか!」

 佐織が大声で抗議をすると、宗形は顔をしかめる。

「佐織くん、失礼じゃないか。理解できない事態が不安なのは分かるが、当事者はもっと不安なんだ」

「あ……。ス、スイマセン」

「えっと、気にしないでください。もう慣れていますから」

 宗形に指摘され慌てて頭を下げる佐織に、篠宮は笑顔で応じた。その笑顔を見て、佐織はもう一度深く頭を下げる。

「今、慣れているとおっしゃいましたが、僕らの前に誰かに見せましたか?」

「はい。家族と、それからお医者様に。でも、みんな気味悪がって。お医者様は私の事を、『死なない死体』だとおっしゃいました」

「死なない、死体……」

 その言葉に、佐織はそこはかとない薄気味悪さを感じたのだが、どうやら宗形は別の印象を受けたようだ。

「その医者は相当国語の成績が悪かったようだ。もしくは無能だろう。『死なない死体』とは何とも無責任な表現だ。そもそも死体とは、魂と言う概念が身体から離れた状態の事を指す。意志が完全に剥離した状態と言い換えてもいい。そう言う意味では、幽体離脱をしている時の身体は死体であると言えなくもない。最大の違いは、それが元に戻れるか戻れないか、だ。話が横道に逸れてしまったが、つまり僕が言いたいのは、篠宮さんの身体からは精神が剥離しておらず、自らの意志で思考し、行動を起こすことができる。その為、篠宮さんを死体と表現するのは不可能であると同時に、人権を無視したあるまじき行動だという事だ。そもそも『死なない』と『死体』は相反する言葉であり、それを繋げて一つの言葉にする事こそ愚の骨頂で……」

「先生、落ち着いてください。篠宮さんが引いてますよ」

「おっと、失礼しました」

 いきなりヒートアップし始めた宗形を何とかなだめ、佐織は話を本筋に戻す。

「結局、どうして篠宮さんは胸に穴が空いても大丈夫なんでしょう?」

「私も、それをお聞きしたくて会いに来たんです」

 二人の問いに宗形は目を瞑り、顎に手を当て考えを巡らせる。

 そして数秒後、かたずを飲んでその姿を見つめていた二人に向かい微笑みかける。

「貴女の事はだいたい分かりました」

「え!? 分かったんですか?」

「教えてください。私はどうなったんですか!?」

「落ち着いてください、篠宮さん。説明したいのは山々ですが、この問題は非常にデリケートです。少しでも均衡が揺るげば、それこそ貴女が真実を知っただけで崩れてしまうような、そんな危うい状態なのです」

「そ、そんな……」

「ですが、ご安心を。それは裏を返せば、今のままならすべては上手くいくという事です。篠宮さん、貴女のそれは神様がくれた贈り物、もしくは試練だと思ってこれからを生きてください」

 宗形の優しい微笑みに涙を流しながら、篠宮は何度も頷いた。

「はい。はい。先生、ありがとうございました。私、先生に出会えてとても幸せです。あの、これ少ないですが謝礼を」

「いえ、それは結構。そのお金は、貴女のこれからの人生の為に使ってください」

「先生。……本当に、ありがとうございました」

 篠宮は何度も頭を下げると、感謝の言葉を残して部屋から去っていった。

 それを見送った佐織は、宗形を尊敬の眼差しで見つめる。

「先生。先生も良い所あるじゃないですか」

「いや、そんなことないさ」

 宗形は、再び仮眠を取る為に部屋の隅へと歩いていく。

「結局、篠宮さんはどうして大丈夫だったんですか?」

 振り向いた宗形は、皮肉っぽい笑みを浮かべながら答えた。

「さっぱり分からない」


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死なない死体と精神の逝去における行末の考察 樋川カイト @mozu241

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