胡蝶の嫁入り ~高階家の姉妹、その明暗

六花

前編:さようなら、お姉様

 ご一新より二十余年、初春の帝都でとある華族の当主が永眠した。


 齢十七にして後を継いだ若く美しい女当主がまず行ったことは、「霜雪そうせつ令嬢」「蛹姫さなぎひめ」と綽名される異母姉の勘当だった。



「お姉様、あなたにはこの邸を出て行ってもらいます」

「え……?」


 汀子みぎわこの高らかな宣告に、広縁に膝をついた異母姉の瞳が揺れる。憤るでも嘆くでもない、ただ怯えたようなその反応が、昔から汀子の癇に障った。


 三歳上の、母親の命と引き換えに生まれた異母姉。半分は汀子とも血の繋がりがあるため、造作自体は整っていると言っていい。けれど生まれ持ったその素養が本領を発揮するのは、汀子のように、丁寧に髪を梳ってきちんと結い上げ、肌を磨き、似合いの化粧を施し華やかな着物を纏ってこそ。擦り切れた小袖、荒れた指先、乾いた唇は、華族の令嬢どころか、それに傅く下女にしか見えなかった。


 実際、異母姉・渚子なぎさこは令嬢として育てられていなかった。汀子が物心ついた頃には、渚子は邸の隅の古い離れに一人で暮らしていて、それなりの着物や食事は与えられていたが、学校に通うことも家庭教師を付けられることもなかった。


 それはおそらく、彼女の見た目――――腰まで伸びた髪のせいだろう。素っ気なくうなじで括られた渚子の髪は、老婆のような見事な白髪だった。「霜雪令嬢」と揶揄される由縁だ。後天的な変異らしいが、そんな異形を、爵位まで賜った華族の娘として外に出せるはずもない。


 軟禁状態だった彼女の使を考案したのは父の後妻、汀子の母である。只飯食らいなど勿体ない、邸内で働かせたらどうです、と。父も反対はしなかった。その日から、渚子は完全に高階家たかしなけの息女から下女へと転落した。


 しかし曲がりなりにも当主の娘、朝から晩まで身を粉にして働きづめというわけではない。渚子の役目は専ら、汀子や母の命令に従い、ことあるごとに難癖つけられ叱責を受けることだった。前妻の実家は零落したが旧堂上家、後妻の実家より位が高い。そんな血を引く義娘を顎でこき使いいたぶることで母の自尊心と嗜虐心は満たされ、汀子もそれに倣うようになった。


「……お父様が亡くなられて、汀子様が当主になったと奥様より聞いていますが」

「ええそう。あいにくお父様の子供はわたくしたちだけ、学校に通ったことすらないお姉様がこの家を、家業を継げるはずもないでしょう?」


 高階家は暖簾分けした質屋から始まり、僅か数代でこの国有数の廻船問屋に成り上がった一族。ご一新ののちは華族に列せられ、今も貿易商として巨万の富を得ている。


「その汀子様が、わたしを追い出すと言うのですか。どうして」

「お母様から聞いてない? お父様の喪が明けたらわたくしは結婚して夫を迎えます。だからこの機会に邸を改装することにしたの。流行りの西洋風にね」


 今いる座敷も、開け放った障子戸から臨む築山の庭も、広大な高階家はすべて純和風の趣きをしている。けれども今、華族の間では洋風建築が流行の最先端であり、至るところで解体と建築が進められていた。洋風への傾倒は庶民の間ですら顕著だ。この流れに乗れなければ、前妻の実家のように時代に取り残されてしまうだろう。


「当然、お姉様の住む離れも取り壊すわ。だからよ」


 一応は堂上家の孫娘だから「お姉様」と呼ぶものの、そこに敬意は微塵もない。これが妾腹であれば、時に母が「なぎさ」をもじって「さなぎ」と嘲るように、盛大に罵ってやれたのだが。


「それに、お姉様はご存知ないでしょうけど、お姉様は戸籍上、もう高階家の者ではないの」


 憐憫と愉悦の入り混じった眼差しを異母姉に向ける。


 汀子も、相続のあれこれの際に初めて知った。渚子は幼少期、おそらく白髪に変じた頃に亡くなったものとされ、高階家の戸籍から抜かれていたのだ。だから学校にも通わせず、社交界にもその存在を公にしなかった。それでも実際に葬り去るのではなく養い続けたのは、父親としての最後の情か。


 だが、華族の令嬢であると同時に財閥の後継ぎとして育てられた汀子にそんなものはない。嫁に出せるわけでもない穀潰しを、成人後も養い続ける義理はなかった。憂さ晴らしがいなくなるのは些か惜しいが、勘当後の異母姉の末路を思い描けば充分に愉しめる。


「そんな赤の他人を邸に置いておく道理がないでしょう?」

「……そうですか」


 渚子は沈痛な面持ちで俯く。「汀子様」「奥様」と呼ぶように、異母姉は自分たち母娘には逆らえない。解ってはいるが、涙のひとつも見せず殊勝に勘当を受け入れる様子は、それはそれで汀子を苛立たせた。


 着物や簪、人形から尊厳に至るまで、汀子は渚子からあらゆるものを取り上げてきた。だから最後に、もうひとつ取り上げても構わないだろう。


「ああそれと、お姉様はもう高階家の娘ではないのだから、今後は『渚子』と名乗らないでちょうだい」

「……名前まで奪うと言うのですか」

「万が一、高階家長女のことを覚えている人に出会ったら面倒なことになるでしょう。死んだはずの娘、何よりその髪」

「…………」


 詭弁だが、やはり渚子は何も言い返せず項垂れた。それを見て、汀子は更に取り上げることにする。


 床の間に飾られた短刀を手に取り、すらりと鞘から引き抜いた。その冷たい音に顔を上げた渚子が目を瞠る。明確な恐怖を浮かべる顔を満足げに見遣り、汀子は括っただけの渚子の白髪を無造作に鷲掴むと、結紐ぎりぎりのところで力任せに断ち切った。


「……!」


 声にならない悲鳴が軒先に消える。


 傷んだ白髪が、板間にばさりと広がった。結紐も解け、不揃いに残った髪が渚子の肩に幾筋か落ちる。


「そんなに長いと目立つでしょう。これで少しは隠しやすくなったんじゃなくて?」

「…………」


 汀子は親切心だとばかりに嫣然と微笑みかけるが、霜雪令嬢は乱雑に切り捨てられた髪を茫然と見下ろすばかりだ。


「明日がお父様の初七日だから、明後日には出て行ってもらいます。……それと、髪も自分で片付けなさいよ。竈にでもくべておきなさい」


 それだけ言い捨て、汀子は短刀や鞘もそのままに座敷を後にする。蛹のように肩を丸めた異母姉の表情など、知ったことではなかった。



 翌々日、新当主となった異母妹の「さようなら」の一声で、渚子は殆ど身ひとつで高階家から勘当された。山笑う曇り空の下、重厚な門扉が、渚子の眼前で無情に閉ざされる。


 僅かな私物とお情けのように渡された路銀をまとめた風呂敷包みを掻き抱き、渚子はしばし、閉め出された大門を眺めた。しかしどれほど経とうと再び開門されるはずもなく、のそりと踵を返し、長年暮らした邸を離れる。


 足許に視線を落としたまま、とぼとぼと大通りを当てどなく彷徨う。これほど多くの人々が行き交うのに、憂い顔の渚子を誰も気にも留めない。


(……これからどうしましょう)


 白い髪を隠すためかずいた頭巾からこぼれたひと房をしまいながら、ぼんやりと渚子は身の振り方を考える。


 何しろ長いことあの邸に閉じ込められていて、その暮らしがずっと続くと思っていたから、いきなり追い出されても途方に暮れてしまう。


 これからどうしよう。どこに行けばいい? そう自問する渚子の脳裏に、ある顔が思い出され、ふと足を止めた。


 五年ほど前、一度だけ渚子の離れを訪れた者。


 長い幽閉生活の中、彼は初めての客だった。邸外の話を聞かせてくれて、渚子の話を聞いてくれた。その話題のひとつであった彼の郷里のこと。帝都からはそれなりに遠い山。


 けれど。


(行ってみようか。……行ってみたい)


 ぎゅっと包みを抱え直し、渚子は心を決めた。継ぎ接ぎの小袖を纏うみすぼらしさは変わらないけれど、顔を上げ、再び歩き始めた足運びに、もう迷いはなかった。


 大通りを離れると、だんだん往来の人影はまばらになる。郊外の住宅地を縫うように歩き続ける渚子の華奢な背を、不意に呼び止める声があった。


「――――渚子」


 穏やかによく通るその響きは、五年前にも聞いたもの。


 弾かれたように振り返った渚子の視線の先に佇んでいたのは、近頃では珍しくなった僧服に身を包んだ長身の美丈夫と、それに付き従う狼の如き体躯の白犬。笠の下から覗く切れ長の双眸は、変わらず理知的な光を宿している。


 五年ぶりの再会に、驚きながらも渚子は花が綻ぶような微笑みを返した。


「もう一度お会いしたいと思っていました、哉宵さいしょう様」

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