ナーヤ
「姉さん……」
ナーヤは後宮の奥深く、一等に豪華な部屋で重い腹を抱えていた。歳の頃十五になろうというナーヤはしかし、元孤児にありがちな幼少期の栄養失調が祟って作りがまだまだ小さい。だというのになんの因果か子を孕み、今こうして高価な敷布に包まってうつらうつらと過ごしている。
「ナーヤ、果物食べる?」
「潰してくれる?」
「飲み込める方がいいのね、じゃあ水桃にしましょう」
ナイフで丁寧に皮を削ぎ、実を潰して皿に重ねてくれるのは姉のメーヤだ。
ナーヤとメーヤの姉妹は物心付いた頃から二人きりの孤児であった。親は知らない。住んでいたスラムが区画整理で片付けられた時に纏めて孤児院に入れられたが、どさくさ紛れにメーヤと離されることがなかったのでナーヤとしてはなんの問題もなかった。スラムと変わらず孤児院での生活も苦しかったが、ナーヤは姉といられるならそれだけで文句などなかったからだ。
それだけが何より一番であったから、ナーヤは異国から来た金持ちの貴族に引き取られるとなった時に初めて我儘を言った。姉と一緒でないと行きたくないと。
メーヤはナーヤと比べたら華やかさなどまるでない、穏やかといえば聞こえはいい程度の凡庸な顔をしている。貴族は渋っていたが、最終的に侍女としてナーヤの世話をするならばと姉妹纏めて引き取ることに了承してくれた。
「お姉ちゃん、一緒に行こ! でも養子はダメって、私のお世話係なんですって。私はお姉ちゃんが一緒じゃなきゃ嫌なんだけど、ダメ?」
「もうナーヤったら……」
別に私、ナーヤが幸せならそれでよかったのに。
言うメーヤにナーヤは笑ったものだ。お姉ちゃんがいないと無理、私達ずっと一緒だもん、と。
──だが、果たしてそれでよかったのか。
貴族に従って幾つもの国を越えながら教育を受けていたまではよかった筈だ。しかし結果としてナーヤは何かをやらかしたらしい貴族に代償として売られ、年嵩の王の褥に転がされることになる。メーヤは血に塗れ高熱にうなされるナーヤを抱き締めて枯れるほど泣いていた。こんな筈じゃなかった、こんなことになる筈じゃなかったのにと。
(そうね、こんな筈じゃなかった)
美しさを買われたナーヤは知らぬ国で貴族の養女として社交界に出る予定だった。貴族だってそういう話をしていたのだ、この娘ならきっと良縁に恵まれるぞと。
──ある意味では予想以上だろう。ナーヤはどこかの貴族どころか王のお手付きになったのだから。
身体を癒してしばらく、ナーヤ達は身を固くして、誰の気にも障らないよう過ごしていたように思う。後宮にはこうした女達が少なくないようで、けれどナーヤほど幼い女はいなかったからナーヤを見た女達はひどく哀れそうな目をして……、それでおしまい。
その間、王から再度の求めは一切なく、このまま忘れ去られるのならばそれはそれでいいのかもしれない、食うには困らないのだしと姉妹でうっすら笑っていた。思えば束の間の平穏であったのだろう。
ある日体調がおかしくなって、妊娠の兆候が見え、途端にナーヤは上にも下にも置かれぬようになり後宮の奥に据えられた。後宮には掃いて捨てるほど女がいるというのに、王の子は一人とて生まれたことがないという。つまり、ナーヤは初めて王の子供を孕んだのだ。
多くの医師が毎日のようにナーヤを診にやってくる。それに辟易して体調を崩せばそれはそれで上から下から大変な騒ぎになった。もうナーヤには他人事のようだ。全部が与り知らぬところで発生し、ナーヤの上を通り過ぎていく。
でも、思い返せば今までと何が違うだろう。ナーヤの人生は常に流れに任せるものであった。場所が違うだけだ。
(姉さんがいればいい)
メーヤさえいれば、ナーヤはそれだけでいいのだから。
ナーヤの小さな身体に見合わぬほど膨れてきた腹を見て、医師はきっと玉のような王子が生まれると言った。ナーヤは男だろうが女だろうが構わない、元気でナーヤとメーヤと一緒に笑って暮らしてくれるような子でさえあれば。しかし王の子ともなればそんな希望も通らないだろうか。
ある夜、寝椅子で夜空を眺めるナーヤにメーヤが言った。
「ナーヤ、さっき聞いたのだけれどもね、この国では星のことをナジュマというのですって」
「綺麗な音なのね。それに私の名前に音も少し似てる」
「ええ。……私ね、貴女と二人で星を見ていられるのなら、それだけでいいわ」
ナーヤの手を取ってくれるメーヤの手は温かい。メーヤは容色に恵まれぬとはいえ働き者だし我慢強くて、この状況下でも色んな女に教えを乞うては教養を身に付け、技量を磨いている。ナーヤが共にと望まなかったとしても、きっとそれなりに奮闘して太陽の下を歩む人生を送れたに違いない。
こんなに豪勢で寂しいところにメーヤが閉じ込められているのは、偏にナーヤの所為でしかないのだ。
「……姉さん、この子、女の子だったらナジュマがいいわ」
「名前を勝手につけて怒られないかしら?」
「男の子だったらきっと素晴らしい名前が付けられるのでしょうね……。でも女の子だったらどうなのかしら」
「どうなのかしらねえ……」
大丈夫そうだったらそうしましょうね。今後への不安はいつでも身を覆うけれど、メーヤがナーヤを抱き締めてくれたのでそれだけで霧散した。どこまで行ってもナーヤにはメーヤだけが世界の全てだったから。
そして世界は引っくり返る。
難産の果て、ナーヤは女の子を産んだ。途端、医師達は波が引くように去っていき、処置すら放られたナーヤと泣き喚くメーヤの間に血だらけの嬰児だけが残されることになる。
「あいつら! あいつら! 女に用はないって!」
熱に浮かされたナーヤは、メーヤが一人でようやく綺麗にした子供を抱えながら呪詛を吐くのをぼんやりと聞いた。腹どころか全身が熱い。
「ねえさん……」
「ナーヤ! ナーヤ!」
「その子、ナジュマよ……」
「! ……ええ、ナジュマよ。貴女に似て綺麗な子になるわ……!」
自分の産んだ子供に乳をやれたのかすらわからないまま、ナーヤは前後不覚に陥った。そしてどれほど経ったものか、次いで聞こえてきたのはまたしてもメーヤの泣き声だ。
「やめて! 連れて行かないで! 子供がいるのよ、母親は必要よ! ナーヤは王女の母親なのよ! ナーヤを返して!」
全てが遠い。雑に抱えられて何かにぶつかっている両腕が痛くて、離してほしいと思った瞬間まるで塵のように打ち捨てられた。
「……」
熱に浮かされた視界に映る、ただただ広い夜空。ぼんやりとしながらも煌めく星々。頬に当たる砂がむしろ気持ちいい。
(ねえさん)
大好きなのに、私の所為で苦しめて、泣かせてばかり。
ごめんね。どうか笑顔でいて。さようなら。
美しい
一人の女の、今までの女と同じような死を砂漠の星だけが見つめていた、昔の話である。
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