落葉の宿

波打ソニア

落葉の宿

 墨色の床を引きずるように歩いた。

 月明かりに浮かぶ渡り廊下の周りは、燃えるように豪奢な紅葉の庭だった。葉を落としつくした骨のような木が何本も佇み、しばしば骸骨と空目する。目を逸らしたくば、灰のような床に目を落とすしかなかった。

 体の中が綿になってしまったように覚束ない。力を入れても、背は伸びない。右へ左へよろめいて、何度目かのそこへたどり着いた。

 黒い離れの間。襖の枠さえ墨塗だ。音もなく開くと、その中身さえ墨塗だ。

 そこからすぅっと、白い手が浮かび上がり、招く。嘘のように熱が消え、白々しく冷たい女の手。

 庭の骸骨のようにか細くしっとりとした肉が纏わりつくその手を、何度目か、取る。


 真白い野のような布団は、どんなに乱されても床を見せずに体を包んだ。腰からそびえる女の白い腹に、熱を呑まれていよいよ体中が緩んでゆく。とろいまばたきを一つした時、かすかな笑いとともに耳元に唇が寄ってきた。

 そのまま眠ってしまえばよい。

 冷たい息でやさしい声を吹き込まれて、温めてやろうと背中を抱いたが、すぐには腕が上がらなかった。白い背に預けた腕は、乗せただけのような有様だ。それでも嬉しそうに風が吹く。

 お優しい。とこしえに、このまま共に。

 言祝ぎのように囁いて、冷たい腕が首を抱く。雪が積もるように熱が抜けていく。女が熱を得たのだと思って、安堵の息を耳元にそそぐ。とろけるように体が軽くなっていく。身を任せて瞼を閉じたとき、ごく近くで笑い声がした。それは。牙を剥いた獣の息だった。


 跳ねのけたはずの女の姿は見当たらず、月明かりの山の中に寝そべっていた。骸骨のような裸の木が間近に佇み見下ろしている。べちゃりとした寝心地に見下ろすと、白っぽく照らされた体の下で湿った紅葉が腐ろうとしていた。身を起こし、腰にへばりついてきたのををひっぱたくように落とした。

 夢見ておればよいものを。

 熱を失った平坦な声がした。途端、葉を落とし切ったはずの頭上から、身を埋め尽くす勢いで乾いた葉が降り注いだ。豪奢な色は気配もなく、茶色く尖った葉先が体をひっかく。撫でまわすように、愛でるように、しつこく降り続ける。たまらず目の前をかき分けて走り出す。

 眠ればよい。夢見ておればよい。とこしえに。ここで共に。

 繰り返される声に追い立てられる。踏めば柔らかく崩れる枯葉に足を取られながら、体じゅう千切れんばかりに走る。綿のようだった体はもはや痛みも感じず、けれどあちこちに傷がついていくのだけがわかる。かばうこともできずにただ走る。

 ここで共に。ここで共に。どうか共に。

 いつしか枯葉は消えて、墨が目に染みこんだような宵を走っていた。伸ばされるあの手を振り切るつもりで走って、それでも耳元で延々と囁かれながら逃げた。


 いつ気を失ったのかわからない。目覚めたときには薄暗い板の間の狭い布団に寝かされていた。寝返りを打ってすぐに乾いた板に頬が押し付けられ、煤けた天井に向き直る。

 そのまま山の中でのことを思い出そうとじっと考えていると、障子が開いて人懐こい老人が入ってきた。目覚めているのをまずは喜び、娘を呼んで粥を持ってこさせてくれた。

 死にに来なさったのかね。

 いきなり図を突かれて、夢から引っこ抜かれたような心地がした。だが、責めも咎めもない調子で老人は語った。

 村の者や、ゆかりのある者は決して一人で山に入らない。初めて通るものも大体は近くの者が送ってくる。秋の山では特にこれがしきたりと呼べるほどに厳しく守られる。それを破るのは、人目につかないように来たような者だけだ。

 寂しがりの山の主がいる。山から生き物も花も葉も絶えるようなこの時期は特に、賑やかさを恋しがって見境なく手を伸ばしてしまう。

 主様は食べることと添うこととを一緒くたにしてしまう。せっかく抱きとめてもその腕の中でぼりぼりと食べて、また一人になってしまう。そうしてまた寂しがってもっともっと狩ろうとする。

 話を聞いて呆気にとられていると、老人が指を差してきた。差されるがまま着物を開けると、胴やむき出しの脛のあちこちに引っかき傷がついていた。体じゅう枯葉に引っかかれたことを思い出すが、残った傷はまるで女の爪痕だった。


 村から見上げた山は葉の残った木もなく、霜が降りて真っ黒になった地面をさらしていた。あの豪奢な紅葉の庭は、残らず腐りきったのだろうか。借り物の着物からはみ出た傷を、ほかの村人がじろじろと見てくる。ときどき、何度もうなずいてくれる人もいた。

 主様から逃れるほどの丈夫な足腰を持つ男を村に招き入れるのは、村ではよいことなのだと老人が言っていた。聞けば村長なのだという。山を恐れて逃げてきたものはしっかり働くいい村人になるのだ、と強かに言ってのける様子が頼もしく、しばらくは厄介になることになった。


 とこしえに、共に。

 あの声がまた聞こえてくるような心持もする。二度と会ってはならないのだろう、今後一人で山に入るつもりはない。うまい飯を食わせてくれる村長にすっかり打ち解け、死ぬ気はどこかに失せてしまった。

 けれども、ここに骨を埋めることになって、あの寂しい宿が少しでも賑わうのならと考えてしまうことも、確かだった。

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落葉の宿 波打ソニア @hada-sonia

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