10話

「何もないのに、声かけただけで泣くわけねえだろ。喧嘩でもしたのか?」


「していない!」


「じゃあ、なんか嫌がられるようなことでもしたんじゃねえの? 最後に話した時、変なことした心当たりないのかよ?」


「最後……」


 己の無罪を譲るつもりはないが、ロレッタに避けられたのが思いの外ショックだったリューズナードは、渋々振り返ってみる。


 ロレッタと最後に会話したのは、昨夜だ。彼女が用意してくれた食事を平らげて、気落ちしていた彼女の話を聞いて、それから。


「…………キス、した」


「は?」


 ボソリと呟くリューズナードに、男性の住人が目を丸くする。


「いつも通りに話をして、寝る前にキスした」


「……それだけ?」


「ん」


 生まれて初めて、しかも衝動的にしたあの行いが「変なこと」に含まれるのか否かは判別できない。ただ、他に普段と違う部分が見つからなかったのだ。そう言えば、こちらが満足して就寝した後、彼女はどんな顔をしていたのだろう。


 再び眉間に皺が寄ったところで、男性の住人から衝撃的な意見がもたらされた。


「ええ……。奥さんに嫌がられるって、お前嫌われてるんじゃねえの?」


「……嫌、われ……」


「いくら夫婦でも、嫌がる相手に無理やり迫るのは犯罪だからな。国によっては捕まるぞ」


「犯罪……」


 法律にも、恋愛にも、世間一般の夫婦事情にも明るくないリューズナードは、告げられた言葉を唖然と繰り返すしかできなかった。自分は、本当に無実だったのだろうか。それさえ信用できなくなってくる。


 初めて会った頃のように、ロレッタがまた、怖がって何も話してくれなくなってしまったら。また、笑いかけてくれなくなってしまったら。想像しただけで、もの凄く嫌だ。


「ハンザイって何? リューが悪いことしたの? ロレッタお姉ちゃん、リューのこと嫌いなの?」


「れーたん、りゅー、いや?」


「……つ」


 子供たちの純粋な言葉が、リューズナードの内側へ深々と突き刺さった。体に傷を負うよりずっと痛い。男性の住人からも憐れむような視線を向けられる。


 悪いことをしたら、「ごめんなさい」だ。聞き入れてもらえるかは分からないけれど、ともかく一度、謝ろう。決意を込めた目で、ロレッタが消えて行った家屋の扉を見詰める。当然、彼女の姿は見えない。


 ――ピーイィ! ピーイィ!


 村の上空から、けたたましい鳥の鳴き声が聴こえた。特に珍しいことでもなかったが、それがあまりに長く続いた為、さすがに気になって空を見上げる。


 鮮やかなオレンジ色へと変わり始めた太陽を覆い隠すように、大なり小なりの鳥たちが飛んでいる。リューズナードに鳥の名前の知識はほとんどないが、確かあれらは、閑散とした山や林を好んで住み着いている種族ではなかったか。常に人の気配がしている村の近くでは、あまり見かけた記憶がない。しかも、数羽ではなく数十羽が一斉に同じ方向へと飛び去って行く。


「なんだ? 騒がしいな」


 男性の住人も、同じく空を見上げていた。子供たちは舞い落ちてくる羽を拾い集めて楽しんでいる。


「……少し、外の様子を見てくる。俺が戻るまで、誰も外へ出ないよう伝えてくれ」


「ああ、分かった。気を付けてな」


 異変の気配を察したリューズナードは、男性の住人に言伝を頼むと、足早に村の外へ向かった。




 森の中では、鳥以外の動物たちも忙しなく駆けている様子が見て取れた。普段であればこの辺りでは見かけない獣も混じっている。多様な生き物たちが皆、先ほどの鳥たちと同じ方向へと走っているのだった。


(どこかを目指している? ……いや、何かから逃げているのか)


 異なる種族の野生動物たちが、いきなり同じ目的意識を持って行動し始めるとは考えにくい。住処をわれて逃げて来た、と考えるほうが納得できる。そうだとすれば、この生き物たちが辿ってきた道の先に、騒ぎの元凶があるはずだ。リューズナードは野生動物たちの流れに逆らって歩を進めた。


 木々を躱し、茂みを突っ切り、小川を超え、原石の村ジェムストーンの石壁が完全に見えなくなってから、しばらく。周囲を警戒しつつ進んでいたリューズナードは、途中でピタリと足を止めた。近くの茂みに身を顰め、気配を殺して厳戒態勢を取る。


 鳥や獣たちだけではなく、人間の気配を感じたのだ。それこそ、確固たる目的意識を持ち、統制の取れた足並みでどこかを目指すような人々の気配が。いくつもの死線を潜り抜けてきた自身の危機察知能力を、リューズナードは疑っていない。


 ほんの少しずつ、ジリジリと、気配の源を探して進む。獣さえ軽く追い払いながらこんな所を移動する人間の集団の正体など、ほとんど判りきっている。どこかの国の軍勢が、敵地へ向けて侵攻しているのだろう。


 万が一にも、原石の村ジェムストーンが巻き込まれることのないように、軍勢の特色や目的地を把握しておきたい。魔法国家の兵士たちは、それぞれ自国の象徴たる魔力の光と同じ色の装束に身を包んでいる。どの国の人間なのかは、視認すれば一目で判別可能だ。進行方向から目的地も推察できる。


 やがて、はっきりと人間の足音が捕捉できるようになってきた。蹄の音も聴こえる。歩兵と騎馬兵がいるようだ。数も相当揃えているらしい。


 音のするほうへ目を凝らす。草木の緑、大地の黄土、夕日の橙。その中に混ざり込んだのは、燃え盛るような赤だった。かつて自身も身に纏っていた、見間違えるはずもないカーディナルレッドの装束。


炎の国ルベライト……!)


 認識した瞬間、瞳に敵意が宿る。リューズナードは全ての魔法国家を嫌悪しているが、中でも取り分け強い憎しみを抱いているのが祖国である炎の国ルベライトだった。王族も、貴族も、兵士も、国民も、街並みさえも、全てが不快で腹立たしい。


 もう二度と関わるまいと誓った国の兵士たちが、隊列を組んでゾロゾロと移動する先。


 進路と思われる方角にそびえるのは――ロレッタの故郷、水の国アクアマリンだ。

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