第17話 景虎からの提案

 朝食を食べ終え、沙苗は湯飲みにお茶を注いで差し出す。


 ありがとう、と景虎は言い、口をつける。


「いかがですか? 昨日が濃すぎたので、すこし薄めに淹れてみたのですが」

「これくらいなら丁度いいな」

「分かりました。じゃあ、明日からこれくらいの濃さにしますね」

「それから……」

「はい?」


 景虎は大きく『ぬ』と書かれた紙を卓袱台においた。


「昨日、お前が書いたものをみせてもらった」

「ど、どうでしたか?」


 どきどきする。


「よく書けてる。はじめてにしては上出来だ」

「本当ですか!? 嬉しいです!」


 沙苗はついつい気分が高揚するあまり、大きな声を出してしまう。


 はっとし、「し、失礼しました」と今さら口を閉じた。


「構わん。『ぬ』が苦手のようだから、手本にできるように書いてみた」

「ありがとうございます!」


 沙苗は、景虎の書いてくれた『ぬ』をまじまじと見つめる。


「さすがは景虎様! とても綺麗です……!」


 こんな風に自分も書けたらいいのに。

 いや、書けるように頑張ろうと、ますます文字の読み書きへのやる気があがる。


 景虎はきょとんとした顔をする。


「景虎様? どうされたんですか?」

「あ、いや……」

「すみません。私、少しはしゃぎすぎてしまって……恥ずかしい姿を見せてしまいました」

「それでやる気があがるのなら、それに越したことはない」


 景虎は緑茶を飲み、もう一枚の紙を卓袱台におく。


「ところで聞きたいことがあるんだが、これはなんだ?」

「え! どうしてそれを!」

「お前が自分で俺の文机においたんだろう」

「……それは間違いです! 置くつもりはなくって……あの……す、捨てるつもりでした!」


 きっと後で捨てようと思っている間に、そのことをすっかり忘れて、他の紙と一緒に文机においてしまったのだろう。


 沙苗は恥ずかしさのあまり、その紙を掴もうとするが、それよりも景虎がとりあげるほうが早かった。


「それはそれだ。ここに描かれているものは何だ? 純粋に疑問に思ったんだ」

「それは……あの…………です」

「? よく聞こえなかった」


 俯き気味の沙苗は顔が、どんどん火照る。


「……い、犬でございます!」


 景虎は、まぢまぢと紙を見る。


 ――景虎様、そんなによーく見ないで下さい……!


 穴があったら入りたいというのはまさにこのこと。


「お前もなかなか絵心があるようだな」


 景虎はあいかわらずの心のうちを読ませない無表情だったが、心なし声が高くなってる気がする。


 燃えるように頬が火照る。


「か、からかわないでください……。何度かこっちのほうも練習してみたのですけど、景虎様のようにうまくはいきませんでした」

「絵は練習する必要はないだろう」

「で、ですから、これは落書きだったんです……」

「ま、こっちもうまくかけたら見せてくれ」

「……い、意地悪です」

「そうか? 俺はおまえが提出してくれたから講評しただけだ」


 二人の間にやわらかな空気が流れる。


 ううう、と沙苗は俯く。


 ――どうしてこういう時に、三船さんが来てくれないの!


 関係ない、景虎の秘書に当たってしまう。


「帝都はどうだ?」


 不意に話が変わった。


「そうですね。あいかわらず人がたくさんで眼が回ってしまいそうです」

「まあ、里から来たんだ。馴れないのは当然か。相談だが、今週の日曜は非番なんだが、もしお前に何も予定がなければどこかへ出かけないか?」

「! 出かける……? ど、どなたと、ですか?」

「俺とお前に決まってるだろう」

「か、景虎様とご一緒に?」

「そう言ってるだろ。お前が嫌でなければ」

「嫌だなんて! ぜひ、お願いします!」

「分かった。どこに行きたいか、何をしたいか、考えておけ。できるかぎり、お前の要望を叶えよう」

「ありがとうございますっ」

「これも契約の一環だからな」

「そうなんですか?」

「帝都が嫌になって、逃げられても困る」

「そんなことしませんけど」

「可能性の話だ」


 契約結婚の維持のためとはいえ、景虎から提案してくれることが嬉しい。

 理由はどうあれ、彼の大切な時間を沙苗のために使ってくれるというのだから。


 そこへ、いつものように三船が迎えに来る。


「行ってくる」


 景虎はそう言って立ち上がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る