第16話 一日の終わりに(景虎視点)

 景虎が帰宅する。

 屋敷はしんっと静まり返っているが、沙苗が来る前とは少し雰囲気が変わったように思えた。


 一人で暮らしていた時、家に入ると出迎えたのは寒々とした冷気だったが、今はその空気がいくらか柔らかくなっているような気がした。


 うっすらと漂う甘いかおりは、沙苗のものだろうか。

 いつの間にか、自分以外の誰かが家の中にいることに馴れていることに驚いた。

 まだ沙苗が帝都に来て一ヶ月と経っていないというのに。

 沙苗の作ってくれた朝食を食べていることも含めて。

 沙苗が来るまでは、景虎にとって家というのはただ寝て起きるためだけの場所だったはずなのに。


 結婚せよ、というこれまで聞いたことがないような種類の勅命が下ったことを知った時、景虎は固辞した。

 今から思えば、帝からの命を固辞するなど考えられない不敬をしたものだ。

 しかし当時の景虎は必死だった。

 自分に誰かを幸せにする余裕などない。

 誰かと一緒に暮らすということそのものも、わずらわしさ感じられない。

 仮に無理矢理、結婚をしたとしても、妻になるだろう人を不幸にするだけなのだと、言いつのった。

 しかし帝は『天華の家を絶やすわけにはいかぬ。それに心に負った傷を癒やしてくれるのは時間ではなく、人の温もりだ』そう言われたのだ。

 帝はきっと、当時の己の身をかえりみず、一心不乱にただあやかしを斬るためだけに生き続ける景虎に、危うさを感じたのかもしれない。


 正直、今の景虎も当時とさほど変わってはいない。

 ただ当時よりも多少だが、周りが見えるようになった。

 部隊の指揮官の職をうけたからかもしれない。

 自分がいたずらに動けば、それだけ周りを巻き込み、傷つけてしまうという自制が無意識のうちに働くようになった。


 沙苗を起こさぬよう、できるかぎり足音を殺して書斎に入る。


 しっかりと畳まれた浴衣が置かれていた。

 一人で暮らしていた時は洗濯する時間も余力もなかったから、汚れた衣服はそのまま捨て、新しいものを買うようにしていた。

 でも今は洗われ、しっかり畳んでおいてある。

 軍服から浴衣に着替える。ほんのりと石鹸の香りがした。

 衣服から漂う石鹸の香りを嗅いだのは、どれくらいぶりだろう。


 そんな感慨を覚えながら浴衣に着替えると、座椅子に座る。

 文机に紙が積まれていた。五十枚くらいはあるだろうか。


 ――ずいぶん頑張ったものだ。


 初日だからというのもあるのかもしれない。

 それでも構わない。やる気があることは悪いことではないから。


 一枚一枚目を通す。

『いぬ』や『ねこ』、『はと』、『とけい』などなど、つたない文字が書かれている。


 ――小学校の教師にでもなったような気分だな。


 紙に書かれた平仮名を見ていく。

 一生懸命書いたことが伝わってくる。

 筆の使い方は別に教えたほうがいいかもしれないが、今は読み書きだけでいいだろう。

 一度に色々と教えても困らせるだ。


「ふっ……」


 景虎は自分の口から意識せず、もれた微笑の息遣いにはっとする。


 ――俺は今、笑ったのか……?


 それはもちろん、沙苗の書いた文字が下手だから笑ったというのではない。

 自然と頭の中に真剣な顔で黙々と平仮名の練習をする沙苗が思い浮かび、微笑ましいと感じたのだ。

 その拍子に、ふっと笑みがこぼれたのだった。


 今さらながらに唇を引き結ぶ。

 そうしなければならないような気がしたのだ。

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