第7話 帝都で迎えるはじめての朝

 沙苗が目覚めると、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって混乱してしまう。

 しばらく寝ぼけた頭で天井をじっと見つめていると、そこが天華家であることを思い出す。


 沙苗は思わず手足を伸ばす。座敷牢ではそんなことありえなかった。手と足を伸ばせばすぐに壁に当たってしまう。しかしこの広間ではどれだけ伸ばしたところでどこかにぶつかるということがない。


 布団を抜け出すと布団を畳み、浴衣から着物へきがえた。


 まだ夜も明けきらぬ時刻である。


 広い屋敷は静まり返っていた。さすがにまだ景虎は眠っているだろう。

 朝ご飯を用意しておこうか。妻としての献身は求められてはいないが、でも使用人も誰もいないのだ。一人で用意するのは面倒なはず。

 沙苗と木霊たちは部屋を一つ一つ見て回り、ようやく台所にたどりついたのだが。


 ――き、汚い……。


 三つある立派な竈には埃が積もり、さらに蜘蛛の巣まで張っている。

 木霊たちも驚きを隠せない様子。


 ――そういえば景虎様、屋敷には寝に帰っているだけって言ってたっけ。使用人もいないんじゃ、掃除をする手間もないのよね。


「みんな、掃除道具を探してくれる? 納戸がどこかにあるはずだから」


 木霊たちに納戸探しを任せている間に、沙苗は勝手口から外に出ると、井戸へ向かう。

 井戸で水を汲んで木製の盥へ移して台所へ戻ると、木霊たちがどうやら納戸を探し当ててくれたらしい。

 さっそくホウキやはたきを取り出し、手ぬぐいで鼻から下、それから髪を覆う。


「よしっ」


 まずは蜘蛛の巣をはたきで壊していく。蜘蛛には申し訳ないが、仕方がない。

 高い所に溜まった埃も床へ落とす。


 それからホウキで履いて、ちりとりで回収し、捨てる。

 次に納戸にあった古い布を盥へ溜めた水にさらしてきつく絞る。そして竈に積もった埃を拭っていく。しっかりと磨き上げ、何度か水を替えた。


 台所と井戸を三往復してようやく、使えそうなくらいまで綺麗にできた。

 それから水甕もしっかり洗い、井戸から汲み上げた水を溜める。


「ふぅ……これでいいかな」


 ちょっとした達成感を覚える。まだ一月の寒い中とはいえ、うっすら汗をかいてしまった。


「何をしている?」

「! 景虎様、おはようございます。起こしてしまいましたか?」

「木霊どもがうろちょろする気配で起きた」

「申し訳ありません……」


 その場で三つ指をつく。

 景虎は軍服ではなく、亀甲柄の羽織袴姿。


「で? 何をしていた?」

「台所が汚れておりましたので掃除をしておりました」

「そんな必要ない」

「朝食の準備などできれば、と思ったのですが、お米やお味噌はどこにございますか?」

「ない」

「ないのですか?」


 せっかく花嫁修業の成果を披露しようと思ったのに、出鼻を挫かれた沙苗は言葉につまってしまう。


「毎日、食事は外で取る。お前もそうしろ」


 景虎は懐から紙を取り出すと、渡してくる。


「一日分の食費としては十分だろうが、足りなかったら言え」


 その紙には人の顔と何かが描かれている。


「……これは何ですか?」

「金だ」

「かね……?」


 景虎は眉をひそめた。


「何かの冗談か?」

「あ……申し訳ございません。よく分からないので、教えていただけますとありがたいのですが……」

「いくら田舎に生まれたとはいえ、紙幣も知らないのか? いくらなんでも物々交換でもないだろう……」

「しへい……」

「このお金と引き替えにものを手に入れるんだ」

「そうなのですね……」


 人生のほとんどを座敷牢ですごしていた沙苗は当然、お金のことなど分かるはずもない。


「お前にはまず、この街で暮らしていく術を教える必要があるみたいだな。とりあえず風呂に入れ」

「いいえ、お風呂は結構です。水と布さえあれば……」


 景虎は眉をひそめた


「水? 何かの修行でもしているつもりか。こんな真冬に行水なんて、いくら半妖でも半分は人間なのだろう。遠慮するにしても度が過ぎているぞ」

「す、すみません」


 お風呂の準備は全て、景虎がやってくれた。

 沙苗は恐縮して自分がやるからと言うが、失敗されて壊されては困ると取り合ってもらえなかった。

 着物を脱ぎ、そして五右衛門風呂に浸かる。


「温かい……」


 体に染みるような熱に、涙がこぼれてしまう。

 ちゃんとこうしてお風呂に入ったのは人生で初めてだ。


 ――こんなにお風呂が気持ちいいなんて、びっくり。


 沙苗にとって、この季節、体を洗う時間はただただ苦痛だった。

 しかしこんなに気持ちいいお風呂ならずっと入っていたい。


 三十分ほど湯を楽しみ、教えられた通り上がり湯で体を清めて体をよく拭き、風呂から出ると、居間へ顔を出す。


「お風呂、ありがとうございます」

「出かけるぞ」


 景虎と一緒に家を出る。


「あの、お仕事はよろしいのですか?」

「今日は休みだ」


 そのまま留めてある自動車へ、景虎は向かう。


 ――またあれで、お出かけに……。


 昨日のことを思い出すと、それだけで冷や汗が出る。


「自動車は苦手のようだな」

「……そのようなことは」

「そんな低い声で否定されても説得力がないぞ。ま、このあたりのことは覚えておいたほうがいいだろうから、歩くか」

「はいっ」


 内心、胸を撫で下ろしながら景虎に従う。

 まだ早朝だが、街中には大勢の人が行き来していた。


「……た、たくさん人がいらっしゃるのですね」

「昼時になればもっと人手がでてくる」

「も、もっと!?」


 これ以上の人なんて実際、目の当たりにしたら目が回ってしまいそうだ。

 沙苗は木霊たちと一緒に、道順を忘れぬようしっかり頭に刻み込む。

 大きなお屋敷が密集した地域を抜けると、小さな建物が目立つようになる。


 景虎曰く、商店が軒を連ねる、商店街という場所らしい。


「ここで、さっき見せた紙幣を使って、ものの売り買いをする」


 沙苗には全てがはじめてだった。


 魚屋や豆腐屋、雑貨店に食堂。

 そしてつい注意が散漫になって向かいから急ぎ足でやってくる男と肩がぶつかり、尻もちをついてしまう。


「おい、気を付けろっ」


 男にじろりと睨まれ、沙苗はぺこぺこと頭を下げた。


「す、すみません」

「おい、待て。新聞を読みながら歩いていたお前にも、非があるだろう」


 男は明らかに景虎の異相に、息を呑む。


「……も、申し訳ありません。狩人様」


 男は色をなくして、逃げるように立ち去った。


「大丈夫か」


 景虎は手を貸そうとして右手を差し出しかけたが、すぐに引っ込めた。

 沙苗はお尻を叩いて土埃を払い、立ち上がる。


「はい」


 道行く人たちが、景虎の異相を物珍しそうにじろじろと眺めていた。

 しかし景虎はまったく意に介さず平然と歩く。


 沙苗と一緒に商店に立ち寄り、米と味噌、醤油、野菜や干物などを購入する。

 さきほどの紙幣を店主に渡すと、たしかに品物が購入できた。

 景虎は店主に購入した品々を、屋敷へ届けるように頼む。


「買い物の仕方は分かったか?」

「は、はい。大丈夫だと思います。……あの、景虎様、すみません」

「何の謝罪だ」

「私が自動車が苦手なばっかりに。変に注目を浴びてしまって」

「これくらいのことは馴れているから気にするな。それに、この見た目で狩人と一発で分かるから、面倒な説明もはぶける」

「そういうもの、なんですね」


 ここまで割り切るようなことは、沙苗にはできない。生まれてこの方、侮蔑の視線を浴び続けて来た沙苗は、大勢の人間の視線が怖い。


「何か食いたいものはあるか?」

「いいえ。お任せいたします」

「なら、うどんでいいか?」

「はいっ。うどん、好きですっ」


 座敷牢で食べる時、冬に食べるうどんが、とても好きだった。この時期、ご飯だとどうしても冷たくなるとかぴかぴになって食べにくいが、うどんはそういうことがない。


 景虎が立ち寄ったのは、年季が入った二階建ての建物。


「これは天華様。お二階、あいております」

「あ、こ、こんにちは……!」


 沙苗は店主たちに頭を下げると、彼らは目を丸くした。


「……お店の人たち、驚かれていましたが、なにか変なことをしちゃいましたか……?」

「俺が女と連れだって歩くのが珍しいんだろう」


 二階の和室へ案内されると、冊子を渡される。


「……これは何ですか?」

「品書きだ。書いてあるだろう」

「あ、……はい」


 たしかに何かがずらずらと書かれているが、沙苗は文字が読めなかった。


 ずっと続いた座敷牢生活では文字の読み書きを教えてくれる人は誰もいなかったし、沙苗に色々なことを教えてくれた木霊たちも、さすがに文字の読み書きまでは分からない。


「た、たくさんあるんですね……」


 ――どうしよう。文字が読めないこと言ったほうがいいかな。でも……。


「失礼いたします」


 女性がお茶を運んでくる。


 ――どうしよう。どんなものがあるのか分からない。


 沙苗はおろおろしてしまう。

 女性が不思議そうな顔で、沙苗を見てくる。


「ご注文の品はおきまりですか?」

「……あ、えっと……たくさんあって、迷ってしまって……」

「山芋を使ったうどんが人気ですよ」


 女性が助け船を出してくれると、沙苗は迷わずそれに飛びつく。


「じゃ、じゃあ、それをお願いしますっ」

「俺はいつものを」

「かしこまりました。失礼いたします」


 女性は腰を上げて、下がっていく。


「温かい」


 お茶を飲むと、ぬくもりがじんわりと体に染みた。

 景虎も向かいでお茶を飲んでいる。

 二人の間に横たわった沈黙に、そわそわしてしまう。


 ――何か話したほうがいいのかな。でも何を話したら……。


 景虎のことは、狩人であること以外、なにも知らない。だからと言って、あれやこ

れやを聞けるほど打ち解けてもいない。いや、そもそも打ち解けることを景虎は望みはしないだろう。


「落ち着きがないな」

「! すみません……」

「謝ってばかりか」

「す、すみま……はい」

「何か気になることがあるなら言え」

「よ、よくこちらへいらっしゃるのですか?」

「ああ。ここのうどんは帝都でも指折だからな」

「そう、ですか」


 あっという間に会話は終わってしまう。気まずさを覚えていると、女性がうどんを運んできてくれる。


「おまちどうさまです。ごゆっくりどうぞ」


 湯気があがったうどんにはたっぷりの山芋がのっていた。

 景虎が注文したのは、肉をたっぷりのせたうどんだ。


「……景虎様は、お肉がお好きなんですか?」

「ああ」

「私はお魚好きです。めざし……ですとか」

「そうか」


 景虎は素っ気なく頷くと、うどんを食べ始める。

 いただきます、と手を合わせた沙苗もうどんを啜る。


「!」


 口に入れた瞬間、あまりの美味しさに手を止めてしまう。


「こ、これ、なんですか?」

「うどんだ。自分で注文しただろう」


 景虎が怪訝な顔で見てくる。


「……すみません。あまりに美味しくて……感動してしまって……私が食べたことのあるうどんと本当に同じものか疑ってしまって……」


 汁もしっかり味がついているし、うどんもこしがあって食べごたえがある。

 座敷牢で食べていたうどんはぶよぶよしていて、汁もただしょっぱいだけだった。具だって何もなかった。


 あまりに美味しくて、汁まで一滴残らず飲み干してしまう。


「ごちそうさまでした」


 景虎は毎日、こんなに美味しいものを食べているのだと思うと、そんな彼のために料理を作ろうとした自分が恥ずかしい。


 ――私の料理は、結婚が決まってから急遽教えられた付け焼き刃。こんな美味しいものを食べ慣れている景虎様にはとても満足していただけないわ……。


 こんなにも美味しいうどんを食べたのに――いや、食べたからこそ、というべきか――気分が暗くなってしまう。


 でもこれはかえって良かったのかもしれない。危うく、沙苗のどうしようもない料理を食べさせ、不快にさせてしまうところだった。

 事前にそれが分かっただけでも良かった。

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