第17話 香奈とピアノと旅の宿

(香奈とピアノと旅の宿)

  

 二階へ上がった愛実と麗子は、やっと肩の荷が降りたように畳の上に大の字になってゴロゴロと寝ころんだ。


「ね―え、誰か布団をひいてよ―」

 愛実は情けない声で呟く。


「アミ、あなた、ひきなさいよっ!」と麗子も、また畳の上で伸びていた。


「じゃ―あ、私このままでいい……」


 民宿では大抵の場合、布団の上げ下ろしは自分たちでやらなければならない。

 愛実と麗子は、慣れないことばかりで、さすがに疲れ切っていた。


 しかし正美だけが、わりと平気な顔で、窓に腰を掛けて、一年ぶりに見る夜の海の漁り火を眺めていた。


 麗子は、誰も布団をひいてくれそうもないことを知ると、重い体をよいしょとばかりに起こして、押入から布団を全部引きずり出した。


 その様子を見ていた正美が……

「麗子ちゃんとも、あろうお方が、そんなはしたないことを、とても女の子には見えませんことよ―」


「あ―ら、私どもは、いつもベッドざますの。だから布団なんて知らないんざますの。おほほほ……」と、麗子が言うと、さっさと自分の布団だけひいて寝てしまった。


 愛実は、麗子がぶちまけた布団の下敷きになったことをいいことにして、そのまま気持ちよさそうに眠っている。


 正美は、それを見ながら、野性的な子たちだと感心しながらも、彼女たちの行く末を案じた。

「でも、あんたたち。お風呂くらい入ってから寝なさいよ。私、先にお風呂に入ってくるからね―!」


 正美は、そう言うと部屋を出ていった。


 二人はそのまま、ぴくりとも動かず静けさの中で眠っていた。


 今まで正美が座っていた窓からは、気持ちのよい風が、潮の香りを運んできている。


 下の方からは、かすかににぎやかな声がする。


 でも、ここは静かだ。


 しかし、そのざわめきの中からピアノの音が混じっているのに気がついた。


「あれ、ピアノの音だ……、なんでピアノの音がするんだ……?」


 愛実は、疲れた体にむちを打つようなピアノの音が、かすかだけれども耳について嫌だった。

 しかし、その一方で、今まで、ぼ―としていた思考回路が、めきめき冴えてくるのを感じていた。


「あれ、ピアノの音、この家の下から聞こえてくる……」

 愛実は、布団をはねのけて起きあがった。


 そして両手で髪をぐちゃぐちゃにかき回すと……

「あ―も―!」


「どうしたの……?」

 その叫び声に、麗子が寝ながら愛実の様子をうかがった。


「う―、ピアノの音が気になって眠れないのよ―」

 愛実は、麗子が何か言うより早く、立ち上がって部屋を出た。


 階段を下りると、玄関のある居間のすみに、ちょこんとアップライトピアノがあった。


 そして、弾いていたのは……

「あれ、香奈ちゃんが弾いていたの?」


 そう言いながら愛実は近づいていった。


 香奈は、愛実の声にびっくりして弾くのをやめてしまった。


「ごっめんなさい、うるさかった。いつもは昼間、練習するんだけど……」


「今日は私たちが、じゃましちゃったのね―」


「そんなことない。今、とても弾きたくなったの……」


「そうよねー、そんな時もあるわよね。こんな気持ちのいい夜なんかはね―」


「……、……、」


 香奈は、恥ずかしそうにしているだけだった。


「昼間の雨が少しは効いたのかな。気持ちのいい風ね。お姉ちゃんにも弾かせてくれない?」


「えっ、お姉ちゃんピアノ弾けるの?」


「さ―あー、どうかな―」


 香奈は、立ち上がって愛実に椅子を譲った。


 愛実は少し椅子が低いかなと、思いながらも、鍵盤に手を置いた。

 そして少し考えてから、生きよい良く弾き始めた。


「あっ、『我は海の子』だ!」と香奈は嬉しそうに囁く。


「そう、香奈ちゃんのテーマ曲みたいな歌だね。歌える―?」

 香奈は、また恥ずかしそうに下を向いてしまった。


「じゃ―あ、一緒に歌お―うー!」

 愛実はもう一度、歌の最初に戻って、伴奏しながら歌い始めた。


 始めは、小さな声だった香奈ちゃんも、だんだん大きな声になっていった。


「香奈ちゃん、うまいうまい。じゃ―、次は……」

 愛実は、途切れることもなく、『浜辺の歌』に移った。


 その巧みなアドリブの伴奏に、香奈は歌うことよりもピアノの伴奏に聴き入ってしまっていた。

 そこへ、階段を下りてきたのは麗子だった。


「アミ、今時の子は、そんな歌は歌わないのよー!」と、愛実を押しのけて麗子はピアノの前に座った。


 そして、麗子の得意なユーミンの曲を弾きだした。


「香奈ちゃん、こんな歌、知らないわよね―?」と愛実。


「ちょっと聴いたことある……」


「あるわよね―え!」と麗子は、また別の流行のポップスを弾きだした。


「あのね―え、レイ! 香奈ちゃんがそんな歌、歌うわけないでしょう―!」と今度は麗子を椅子から引きずり降ろした。


「お姉ちゃんたち上手ね……」

 香奈は、うらやましそうに囁いた。


「そんなことないわよ。香奈ちゃんだってなかなかのものよ。はい、今度は香奈ちゃん、弾いてっ!」と、愛実はもう一度立って、香奈をピアノの前に座らせた。


 香奈は、愛実と麗子の前であがってしまって、なかなか弾こうとはしなかった。


「香奈ちゃんの得意な曲、それとも好きな曲は?」と愛実が促した。


「え―と、学校で習ったの……」と言いながら、香奈は『星の世界』を弾き始めた。


「わ―あ、きれいな曲ね―」と愛実。


「そうね―え、もう忘れていたわねー」と麗子も愛実につられるように囁く。


 そして、愛実が香奈のピアノに合わせて歌い始めた。


 麗子も、その後に続いた。


 二人の息の合ったデュエットが香奈のピアノを一段と盛り上げた。


 香奈は自分の弾くピアノで、愛実と麗子が歌ってくれたことに感激して……


「お姉ちゃん! 凄い凄い!」


 本当は、もっと別の言葉を言いたかったのだが、今の香奈の気持ちに合った言葉が見つけられなかった。


 それでも香奈の目の輝きと、その笑顔で、愛実たちには香奈の喜びが十分伝わっていた。


「今度は、お姉ちゃん!」と香奈は立ち上がって愛実を座らせた。


「それじゃ―あ、香奈ちゃんに負けないような……」

 愛実は静かに、『家路』を弾き始めた。


 そして愛実がやさしい歌声で歌いだすと……、麗子と香奈は、そのピアノの美しさと歌声に、聴き惚れてしまい、歌うのを忘れてしまっていた。


「いいわね……、こんな夜は……」と麗子がしみじみと囁く。


「さ―あ、歌ってよ……」と愛実が促すと、ようやく麗子も歌い出した。


 香奈は、まだこの歌の歌詞をよくは知らないようで、じっと聴きいていた。


「香奈ちゃんは、まだ習ってなかったかな?」


「……、でも、少し知っている」


「そうだ香奈ちゃん、ピアノの練習していたのよね……?」

 愛実は立ち上って、香奈に椅子を譲ろうとした時……


「うんん、お姉ちゃん、もっと弾いて?」

 香奈は、愛実を椅子に戻した。


「そ―、じゃ―あ、今度はお姉ちゃんの好きな曲……」


 愛実が、そう言いながら弾きだしたのは、『遠くへ行きたい』だった。

 そして、愛実は弾きながら語り始めた。


「私、いつもこの曲を弾きながら旅に出たいな、て思っていたの。知らない町を歩いたり、知らない人と出会ったり、お話ししたり、どんなにか楽しくて、胸がわくわくするだろうな―て思っていた。それで、やっと願いが叶って、海の宿に来て、香奈ちゃんや、叔母さんや、お婆ちゃんに出会って、やっぱり旅って素晴らしいなって思った。来てよかった!」


 ピアノは、『いい日旅立ち』に変わっていた。

 麗子も、愛実と同じ気持ちだったのか、愛実に続いて話し始めた。


「そうねー、人との出会いを意識するときなんて、旅に出たときぐらいじゃないかな。普段の生活でも、出会いはあると思うよ。でも生活の中では、出会いは多く必要ないし、それを求めていないから、気づかずに通り過ぎてしまうだけなんでしょうね……」


 それを聞いて正美が続けて話を繋げた。

 

「いいわね―え、私なんか毎年のことだから、アミたちのような感動はないわ!」


 いつの間にか、風呂上がりの正美が、タオルを首に掛けて、すぐ後ろで立っていた。


「いつの間に来たのよ……」

 麗子が驚いたように後ろを振り返った。


「そうねー、正美ちゃんには、つまらなくても、連れてきてくれて、感謝しています!」


「そんな、あらたまって言われると照れちゃうよ!」と、正美は嬉しそうに麗子の背中を指で突付いてじゃれた。


「ほんと―!よく来られたと思うわ。正美ちゃんでなかったら、親抜きで旅行なんて、そんな大胆なこと考えないもの―」


「ちょっと、レイちゃんの言い方、引っかかるけど、誉めてくれたのよね?」


 それを聞いて、愛実は慌てて麗子の代わりに……


「もちろん、二人して感謝してます!」とすかさず補った。


 正美は気を取り直して、愛実の弾くピアノを見ながら、少し神妙に言った。

「でも、私一人だったら絶対に旅行なんて出来なかったし、アミちゃんやレイちゃんがいてくれたから来られたんだと思う。だから、私も感謝……」


「じゃ―あ、これからも三人力を合わせて、がんばりましょう―!」と愛実がまとめると、その横で香奈の浮かない顔が目に入った。


「もちろん、香奈ちゃんも一緒にね!」と愛実はもう一度言い直した。


 香奈は、嬉しそうな笑顔を三人に見せていた。


「お姉ちゃん、もっと弾いてっ!」

 香奈は、またピアノをせがんだ。


「そうよー、アミちゃん。もっと格調高いやつ!」と正美の好きなクラシック曲を望んだ。


「なに―、格調高いって。でも、こんなのは……」

 愛実は、そう言いながら、モーツァルトやショパン、ベートーベンと、いつもの得意のレパートリーを弾き続けた。


 香奈は、間近に見る本格的なクラシック曲の演奏に、今まで感じたことのない興奮が体の中で沸きあがってくるのを感じていた。


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