第2話
「悪いのですけれど、木原悠君を呼んでいただけるかしら?」
「北川さんごめんね、あんまり教室入るのも悪いから」
二人が並んで後輩に向かってほぼ同時に喋った。一人居れば充分だというのに一体何事なのか、理由など尋ねるような真似はしない。言われたことをするだけだ。
「すぐに連れてきます! ……うーん、先輩達二人とも木原と知り合いなのかな?」
体育館では全然姿を見ないので、どうにも二人との繋がりがわからないまま、木原の席にまで行く。ぼーっとしていて上の空、目の前に立っているのに顔を見ようともしない。
「おい木原、藤崎先輩と榊先輩が呼んでるよ。あっちだから」
「え? ああ……うん」
朝からずっとこの調子なのだ、だれた態度に北川は怒る気にもなれない。授業中も何度も先生に叱責されていたくらいだ、うるさくするわけでもないのでそのうちほっとかれたが。ようやく鞄を持って立ち上がるとノロノロと廊下へ歩く。一応北川も後ろをついていった。
「悠ちゃん。まだ具合悪いの?」
心配そうな表情でじっと顔を覗き込む、いまだにいつもと違って様子がおかしいまま。少しだけならまだしも、一日中となると気になってしまう。
「ひかり先輩……何ともないですよ……」
「ぜーんぜん治ってないじゃない。もう心配だなぁ」
明らかに変なのは皆が認めるところだろう、きっと初対面の人物であってもそれがわかるくらいに。実際、榊由美はどうしたのかしら? という感じで首を傾げている。
「ひかり、今日はあまりマネージャーの仕事も無いわ。ワタクシに任せて貰って結構よ」
様子を見て納得したので、自由に出来るように役目を全て引き受けると買って出た。部活に来たとしても落ち着かないだろうと。
「ごめんね由美。悠ちゃん帰るよ、僕が送っていってあげるから。北川さん、ありがと」
ひかりに手を取られると木原は大人しく引っ張られて二人は行ってしまった。保護者、何と無くそんな単語が頭に浮かんでしまう。
「いえ、お疲れ様でした! ……家に送ってく? そ、そういう仲なんだ」
ぼそっと呟いたのを眼前に残った榊由美が聞いたのかどうかはわからないが、はっとして顔を向ける。
「北川さん」
「はい、榊先輩」
直立不動で言葉を待つ、余計なことを口走ってしまったなと。何を言われるかビクビクしていると「ありがとう助かったわ」にこやかに語るも、その瞳が余計なことを喋るなよ、と示しているように見えてしまった北川であった。
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「悠ちゃんって学園前駅から電車だったよね、行き先は南駅かな?」
「……はい。電車……明日も話していいんだよなぁ」
学校からずっと手を繋いだままずーっと引っ張られていて、あちこちでその姿を見られていた。だが悠は全く意識に残っていない。二人は松濤南駅で下車する、この駅自体は何度か来たことがあったが、そこから先はひかりは初めてだった。
「お家はどこかな?」
「……え、ああ、あっちです」
何となくあっちと指さされてしまい、はぁ、と短くため息が出てしまう。危ない、一人で帰すと本当に危ないと再確認する。
「あっちって。もう、生徒手帳貸して」
住所を調べてみると、幸いマンションなので解りやすかった。住所の枝番では一般人は個人宅を見付けることは結構難しい。呆けている悠を引っ張りそのまま大体の住所を頼りに歩き出す。何丁目、というのを道路わきの標識でチラチラ探すと目当てを発見する。
「あ、あれだね! やっと見つかったよ」
803号室を目指してエレベーターで昇る。順番に目で追って行くと、表札が木原となっているのが見えたので間違いは無さそうだ。
「はーい、到着だよ!」
扉の前でぼーっと黙っている悠をひかりが小突く。片手を腰に当てて人差し指で肩のあたりをツンと。
「こーら、鍵だしてよねっ」
「あ、はい」
それはそうだと言われてひかりに差し出す。自分で開けようとの気にはならなかったらしい、彼女はそれを見詰めてまた一つため息をつく。
「もう、ほんとおかしいよ悠ちゃん?」
鍵を回して扉を開けると背中を押した。中はこじんまりとしたリビングに、部屋が二つだけ。母子家庭なのでそれで充分なのだ。突っ立ている悠を椅子に座らせて何度目になるかの溜め息をつく。
「全然話にならないよね、どうしたのか聞くまでは流石に僕も帰れないよ。ねえ、悠ちゃん。今日一体何があったのかな?」
「あー、ひかり先輩、俺、電車で……」
うーんと唸ってから喋り出すも、電車といったところでまた黙ってしまう。根気よく相手をするしかなさそうだ。
「うん。電車でどうしたんだい?」
「初めて綾小路さんと話が出来て、また声を掛けても良いって。スマホを落としたから拾ったんだ。変な女がいてぶつかってきたから」
支離滅裂とはこのことだろう。一つ一つの言葉の意味はわかるが、何を伝えたいかは全くわからない。それでも何かを伝えようとしているので、状況を自分で考えてみる。
「えーと悠ちゃんが頭を打ったわけじゃないよね。綾小路さんって誰かな?」
「綾小路さんは、毎日の楽しみで……ずっと同じ電車に乗ってて、スマホを見てて……」
初めて話したということは、ただ毎日見ていただけ。それが楽しみというのは範囲がかなり狭い。
「それってもしかして……綾小路さんって、女の人なのかい?」
「同じ学校で隣のクラスに居るみたい。だけど……電車で見るだけでよくわからなくて」
否定も肯定もせずにだらだらと話を続ける。原因が女だとわかり、ひかりは何だか悲しくなってしまった。誰かのせいでこんなにも心の余裕を失ってしまっている。なのに自分はここで何をしているのか。
「そう、なんだ……。ごめんね、僕が家になんかまで来ちゃってさ」
「綾小路さん、優しかったんだ……なんか……」
ひかりが視線を伏せてしまい、悠の言葉を聞くまいと踵を返す。これ以上ここに居るのはあまりにも辛すぎると。
「ごめん、僕は帰るね。明日また! ……もう聞きたくないんだ……」
すぐさま部屋から逃げ出そうとすると、悠が言葉を繋げる。別にひかりが帰ろうとしたからではなく、そのままの調子で平坦に。
「……なんか……ひかり先輩みたいで……俺なんかに笑ってくれて……無いよな……嬉しいよ、はは」
「悠ちゃん? 僕みたいだから……嬉しかったの? じゃあ……」
意識して言っていないのは朝からの調子で明らかだ。本心からそうだと言っている、ひかりはえも知れない何かが胸に湧き上がるのを感じた。このまま扉から出て行くと激しく後悔する気がして、勇気を奮って振り返る。
「ねえ、悠ちゃん。悠ちゃんは僕のこと、どう思ってくれてるのかな?」
世話焼きなだけの先輩でもいい、中学時代の知り合いでも構わない。嫌われていないならそれだけで、と心のラインを下げていく。もし痛烈な返事があれば立ち直れないとわかっていても、聞かずには終わらせられなかった。
「ひかり先輩? ……先輩は、俺の大切な恩人です……憧れの人で、尊敬する人です……」
「そ、そうなんだ! 今日はゆっくり休むんだよ悠ちゃん、またね!」
ひかりは軽い足取りで部屋を出た、つい数秒前とは正反対の気持ちになれて。
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