第十五章 躍進

百二十五話 男子、三日会わざれば

 南苑でのお仕事に就き、八日目は部屋のお仕事をしっかり務め、心地良い疲労感とともに過ぎた。

 新しい情報はなかったけれど、その分、今まで得た情報を整理することに時間を使えたな。

 九日目を迎えた私は、この日も少しだけ時間を貰い、中書堂周りの作業を手伝うため、東庁(とうちょう)へ向かう。

 後宮の門を出る。

 やっと天気が上向いて来た、と考え歩く、その途上。


「あ、央那(おうな)さん、お疲れさまです」


 司午(しご)家の嫡男、想雲(そううん)くんに出会った。

 今日も工事の子たちの応援に来てくれたのだろうか、優しいのう。

 しかし、目の周りに青タンを浮かべていた。

 痛々しい姿に関わらず、本人はニコニコと笑顔を浮かべている。


「どしたのその顔? ヤギにやられた?」


 あのヤギ、元から乱暴なところあるし、なぜか司午家の人や馬に当たりがキツいんだよな。


「いえ、剣術の道場を見つけたのですが、稽古をつけてもらっているときに、ちょっと」


 照れくさそうに言う。

 別にいじめられているわけではないのだろうけれど、お姉さんは心配ですよ。


「無理しないでね。そんなことで怪我するために皇都に来たわけじゃないんだから」

「は、はいっ。そこはわかっています。でも、翔霏(しょうひ)さんと巌力(がんりき)さんの助言のおかげで、真っ向からぶつかって行くことができました。体の大きな年上の練習生相手に、引き分けたんですよ」


 嬉しそうに報告する想雲くんを見ると、私の心も浄化されていくのを感じる。

 顔の傷は、男子にとって勲章なのだ。


「おお、それはすごい。まあ翔霏に比べたら、その辺の道場の子なんて怖くないだろうね」


 気合いが足りないと翠(すい)さまからも言われ、自覚していた想雲くん。

 自分を鍛え直すために実家を離れたのは、気持ちを引き締める良い効果があったのかもな。

 人間、環境が変われば心境も大きく変わるもんだ。


「央那さんはこれから、司礼(しれい)総太監(そうたいかん)どのとお話ですか」

「うん、そうなんだけど」


 さて、と少し考えて、私は提案した。


「想雲くんも、一緒に来る?」

「え、僕が行っても、いいのですか?」

「多分誰も、ダメとは言わないよ。私もちょっと、途中で話したいことがあるし」


 のんびり歩いて、私は想雲くんに今まで得た情報を伝えた。

 皇太后さまと馬蝋(ばろう)さんは、私たちを温かく見守ってくれている。

 正妃さまと川久(せんきゅう)太監が環家(かんけ)を追及する勢いは鋭いけれど、その正妃さまは今、体調を崩している。

 些細なことでは、南苑の欧(おう)美人は翠さまや私に悪感情がある。

 塀(へい)貴妃は実直で信頼できそうな方だけれど、私は真実のすべてを話していない。

 など、話を一通り聞き終えて。


「央那さんがお仕えしている除葛(じょかつ)漣(れん)美人は、どのような方なのでしょう?」


 最も身近で、最も答えにくい質問を、想雲くんから投げられる。


「うーん。よく分かんない人なんだよね。未だに」


 正直、そう表現するしかない。

 気まぐれで、子どものようでもあり。

 しかし後宮のため、お国のために、毎日の祈りは欠かさないという、真面目な面もある。

 果たして彼女を支えるのは義務感なのか、信仰なのか、今まで続けて来たのだから今更やめられないという執着なのか。

 もっと簡単に、国土万民や皇帝陛下への愛情から来るものなのか。

 漣さまが朝夕に太陽を拝むその姿は無垢に過ぎて、側で見ている私も、言語化しにくい部分が多すぎるのだ。

 祈りと言うのは本質的に、言葉や概念が生まれる以前の、原初的(プリミティヴ)なものなのだから、言語にしにくくて当然なのかな。


「けれど話を聞く限り、悪意のある方ではなさそうです」


 想雲くんの見解に私も頷く。

 そもそもの話として、漣さまに善とか悪とかの意識があるのかどうかすら、疑問だ。

 善悪を超越して、自分の為すべきことのため、愚直にその身を捧げ尽くす。

 そんなやつを私はもう一人、知っていた。

 冬の雪山でちんけな女の毒串を食らい、笑って死んだ男を。


「まさかね」


 一瞬、漣さまと覇聖鳳(はせお)の顔が私の脳内で重なったけれど。

 ちっとも似てねーよと、バカな考えを払拭する。

 難解な問題を棚上げにして、私は叡智の粋、ガリ勉の塔こと中書堂の再建事業のために、東庁へ足を踏み入れる。


「それでええんか、もっと考えなあかんのとちゃうか」


 皮肉めいた幻聴が、頭の中をよぎるのだった。


「馬蝋さん、司午家の想雲くんも連れて来ちゃいましたけど、構わないですよね?」

「もちろんですとも。ささ、奥へ奥へ」


 中に入り、私は集まっているみなさんに想雲くんを紹介した。


「若輩者ですが、よろしくお願いします」


 ピシッと屹立して挨拶した想雲くんは、あっという間に若い書官たちに囲まれてしまった。


「司午の若君であられましたか。実は小官も角州(かくしゅう)に縁がありまして。勉学のお力添えが必要であれば、ぜひ小官を」

「おい、抜け駆けするな、あさましいやつめ。お前の地元は腿州(たいしゅう)ではなかったか?」

「こやつらは十把一絡げの浅学どもにござれば、ぜひ拙者をご用命いただきたく」

「貴様のような田舎者の引きこもりに勤まるものか。ここは私にお任せあれ。書に込められた陰陽を理解するためには、街を歩き山野を眺め、そこにある空気を知らねばなりません。私はその空気をよく知るものです」


 猛烈な勢いで、家庭教師の売り込みを受けている。

 相手が金づるや出世の糸口になる貴族の子弟とわかった途端にこれだよ、みっともねえなあ。

 なんか小難しいハッタリをかましてるやつがいるけれど、勉強の合間に遊びたいだけだろ、お前。


「そ、そこはゆっくり、考えたいと……」


 あうあう言って困っている想雲くんを救出すべく、私は割って入る。

 

「はいはい、今はお仕事お仕事。いっぺんに言われても困っちゃうでしょ。想雲くんの先生は、私の審査を通過しないと採用させませんからね」


 馬蝋さんが黙って待っている大机の前に、人々を誘導する。


「毒蚕(どくさん)女史の目に適うものなど、今この場にはおりませぬぞ」

「それこそ、百憩(ひゃっけい)僧か、あの軍師さまでなければなあ」


 ケラケラ笑って軽い口を叩き、書官たちは仕事の場にそれぞれ就いた。


「あの毒蚕は中書堂の女王。

 若く苦く、まだ数えで十七歳」


 なんてバカげた歌まで誰かに作られる始末だ。

 いい加減、そのグロいあだ名、やめてね?

 その歌を作ったやつは、絶対に探し出してガン詰めしてやるからなァ!?


「今日はとりあえず、本一冊の平均的な厚さ大きさから、再建された中書堂の棚が収容できる数量を導きたいと思います。棚に収まらない本は別の倉に閉架として収蔵することになりますね」


 私は書官さんや宦官さんに、新中書堂の各階に置かれる棚の容積を求めるようにお願いした。

 建物そのものの構造に関しては、もう外野が口出しできないくらいに工事が進んでいる。

 これからは、箱モノができたあと、どう使うかと言う話し合いだね。

 本を並べられる限界量があらかじめ分かっていれば、どの分野の本をどれだけ置こうかという算段も立てやすい。

 人数がいるので手分けして計算すれば、すぐである。

 知恵のあるやつってのは、その知恵の使いどころを常に探し求めている。


「ふん、それしきのこと。子どもの手習いだ」


 書官書生たちは我先にと計算結果を、図面の余白に書き込んで行く。

 空間の表面積や体積くらい、お勉強してきたんだからわかるよな? 

 そう楽しげな笑みで挑発する私を前にして。


「欄干の近くは、棚を減らした方がいいんじゃ……」


 作業の途中で、良いことに気付いてくれた人がいた。

 あ、ナンパ男じゃん。

 そうだね、あんたは中書堂が燃やされたとき、三階の欄干(ベランダ)から飛び降りて助かったんだもんね。

 避難経路を確保するためには、棚を減らして空間を広く取ることも考えなければならない。


「東西南北で、分かりやすい避難口を設定すれば、棚を減らすのは最小限で済むと思いますよ」


 図面を指差して私がアドバイスする。


「なるほどお、となると三階より上に置ける棚の数は……」


 今日は浮ついたことを口にせず、真面目に作業に取り組んでくれた。

 なんだかんだ、みんな、中書堂が好きなんだねえ。

 私は純粋に嬉しいよ。


「……あ、あの」


 作業と計算を見学していた想雲くんが、恐る恐る私に声をかけた。


「どしたの?」

「書官のみなさまがやっておられること、央那さんは、わかるのですか……?」


 図面の上には本棚の体積や収蔵できる本の数の目安とともに、階段の角度を三平方の定理で求めて、階段下の空間をどれだけ使えるかと言う試算も書かれていた。

 数学としては中学生レベルの問題であり、私が習っていない三角関数のような高校生数学は使われていない。


「まあ、大かたは。あ、あっちのお兄さん、計算間違ってるな」


 ケアレスミスを見つけ、私が即座に訂正する。

 昂国(こうこく)のインテリたちは2の累乗数や偶数の掛け算割り算に強い。

 おそらく、偶数の累乗や掛け算に関しては、小さい頃に2ケタ以上の計算まで暗記させられているんだろう。

 インドの受験生は、99かける99までを暗記している、なんて話にあるようにね。

 半面、計算に奇数や少数、分母が奇数になる分数が混じるとミスをする確率が高い傾向があるのだ。

 私は掛け算であれば、あるていどの大きさまでは暗算でこなせる。

 筆算せずに書式を眺めて訂正して回る私を、想雲くんはちょっと引いた目で見つめるのだった。


「まだ漣さまのところに戻るまで時間あるし、ちょっと教えてあげるよ」

「ほ、本当ですか? お願いしますッ」


 その日、私はインテリたちに書棚の都合をあれこれと計算させ議論させている間、空いている席で想雲くんに図形の体積の計算を教えた。


「容量が1の升(ます)があったとして、合わせていくつあるのか、ってのが基本の発想だから。時間と道具があれば実際に見せられるんだけど、また今度ね」


 数学でも理科の水溶液濃度計算でも、体積の根本は「ビーカー何杯分か、何割か」である。


「す、すごい、央那さんの教えてくれるのは、分かりやすいです」


 水を吸うように計算方法を理解していく想雲くんを見て。

 あの人も、私に恒教(こうきょう)を教えているとき、こんな気分だったのかな、と思った。

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