百十六話 東庁に在りて
中書堂から焼け出された学者や官僚さんたち。
彼らは仮の執務室、勉強部屋として、宮殿の東に位置する、上級の宦官たちが詰める庁館を間借りしていた。
なんの捻りもなく、東庁(とうちょう)と呼ばれている施設だ。
銀月さんと別れて建物に入った私は、馬蝋(ばろう)総太鑑(そうたいかん)に訊く。
「百憩(ひゃっけい)さん、いますかね」
馴染みの顔を探して、室内を見渡す。
いや、そこまで強く会いたいと願っているわけじゃないんだけどさ。
一応は、戻って来ましたよー、くらいの挨拶は、しておこうかな? と。
「百憩僧人は一度、国許(くにもと)に帰られましたな。次に来るときは、西方の寺院にある書物をいくらか持って来ていただけるそうで」
馬蝋さんがそう教えてくれた。
「あれま、里帰り中でしたか」
焼失した書籍の穴埋めをしてくれるのはありがたい。
果たして私が後宮に勤めている間に、再会できるかどうかは謎だな。
なにせ私はさっさと問題を暴いて解き明かし、角州(かくしゅう)の司午(しご)本家に戻りたいと思っているのだ。
漣(れん)美人や孤氷(こひょう)先輩には申し訳ないけれど、今回の後宮勤めに長居するつもりはまったく、ないのである。
いない人の話をしても仕方ないとばかりに、馬蝋さんは大卓の上に図面を広げて、言った。
「それより、これが新しい中書堂の予定図になります。なにか気になる点がございますかな。若く瑞々しい麗女史の視点で、遠慮なく言ってくだされ」
馬蝋さんもそこそこヒマなのか、気軽に意見を求めてきた。
私のような小娘の提案や注文を本気で検討するかどうかは置いといて、話だけは聞いてくれるようだ。
実際に建物が完成して、本や机が運ばれる段階にならないと、私が力になれることは少ないと思うけれどね。
「前の中書堂は階段が狭くて急だったので、それは改善して頂いた方がありがたいですね。危ないですし。手すりがあるとなお良いかもです」
年寄り臭いアイデアを、真っ先に出してしまった私。
「おお、そうですなあ。先だって戌族(じゅつぞく)の襲撃を受けた際、階段を踏み外して怪我をした官がおりました。手すりは確かに良い」
早速、馬蝋さんは図面の端の余白に階段と手すりについて、ちょちょいと覚え書きした。
ササっと走らせた字が、滅茶苦茶に上手い。
かつて麻耶(まや)さんの教育係だったというだけあって、おそらくこの人も、教養の鬼なのかもしれないな。
そうでなければ、宦官の頂点に立つのも難しいのだろうか。
私は引き続き、馬蝋さんに意見を出す。
書籍を並べる分類、棚の分け方について、などに加え。
「滅多に参照しない書物は多少取り出しにくくても、狭い棚に押し込んでしまった方がいいのでは」
以前の中書堂は、とにかくジャンル別、その中で年代別に本が置かれていた。
読まれる頻度、貸し出される回数はお構いなしで、分野が同じ本は同じ場所にまとまっていたのだ。
単純明快と言えばその通りだけれど、誰も読まない本が、目立つ場所に幅を利かせすぎていたのである。
「ふむ、字典や博物書のように、誰もが頻繁に読むものを、分かりやすく表に出して置く、と言うことでございますか。なるほど理に適っておりますな」
図書館の開架と閉架のようにね。
なにげに私、小学校でも中学校でも、図書委員をやっておりましたので。
本の管理と分類については、一家言あるのです。
「あと私、水に濡れてシワシワよれよれになってしまった本とかも、字が滲んで消えてなければある程度は引き伸ばして復元できますけど」
「まことにございますか。焼け跡から残った書も、消火の際に水をかぶってしまいましてな。乾かしはしたのですがこの有様をどうしたものかと対処しかねて、保存しているものが山のようにあります」
うーん、たくさんあるなら、私一人でどうなるものでもないな。
誰かに相談して、人手を貸してもらうとしましょう。
なんて話で盛り上がっていると。
「馬蝋どの。こちらに麗と言うおなごが来ているとのことですが」
いやらしいニヤけた表情が顔面に張り付いて固着したままのような、別の宦官が部屋に入って来た。
司礼総太鑑の馬蝋さんほどではないけれど、上等な服を着ているので、彼に準ずるくらいに地位の高い宦官だろう。
偏見と先入観であることは重々、承知している。
それでもあえて言わせてもらおう。
うわあ、絵にかいたような、話に聞く、宦官らしい宦官だー!
「川久(せんきゅう)奴(やっこ)、なんの用かな。今、麗女史は公務に関わる重要なことを、拙に教えてくれているのだ」
馬蝋さんは、明確に敵愾心を露わにした顔で、冷たく言った。
川久という名のこの宦官と、関係が良くないのは、一目瞭然であった。
変に持ち上げられた言い方をされている私は、気まずくもくすぐったい。
私たち二人の顔を、ねっとりとした視線で交互に眺め、川久宦官がここに来た要件を述べた。
「正妃殿下が、そのおなごに話を聞きたいとおっしゃられている」
ぬぐう、と私は声にならない唸りを、口に溜めた。
危惧していた状況が、ついに目の前にやって来たか。
玉楊(ぎょくよう)さんや椿珠(ちんじゅ)さんの実家である、環家(かんけ)を攻撃している筆頭者。
目下、私たちにとって最大の警戒勢力であるのが正妃殿下と、その実家の素乾(そかん)家だ。
少なくとも私たちが旅の中で、椿珠さんや玉楊さんと関係を深めた事実は、正妃さまたちには知られているはずだから。
この川久という宦官は、おそらく正妃殿下の信任が厚い、悪く言えば腰ぎんちゃくなんだろうかな。
しかし、馬蝋さんは正妃さまの名を出されても、臆することなく毅然と言い返した。
「麗女史に関わる件は、皇太后陛下も調査に慎重を期すようにと、固く百官に言い渡されたばかり。少なくとも今は、そなたの出る幕ではない」
招き猫や福助のように、丸くて大きなマスコットキャラと思っていた馬蝋さん。
いつも穏やかな彼が別人のように威厳たっぷりの切れるような面持ちで、そう言い放ち、私を守ってくれた。
しかし川久宦官は、まるで気にする風でもなく。
「拙が申しておるのではありませぬ。正妃さまが、おっしゃられているのです」
「見え透いたことを言う。麗女史が東庁に来て間もないと言うのに、それを知った正妃殿下がそなたに命じてここまで歩かせるには早すぎる」
うわ、頭いいな馬蝋さん。
要するに「お前、言われてもねえのに自分の手柄が欲しくて、麗を正妃のところに連れて行こうとしているんだろ」って言ってるわけだ。
そこを指摘された川久宦官は、笑顔をピシリと鳴る氷のように冷たく硬化させ。
「今の言葉、後悔なされますぞ」
負け惜しみか脅迫か、判別しにくいセリフを吐いた。
しばし、オッサン宦官の二人が睨み合う。
うう、いかん、いかんぞ。
馬蝋さんはいい人だ。
彼の立場が悪くなるのは、私としても、哀しい。
思い通りに行かずにほぞを噛んだ川久宦官は、きっとあることないことを正妃に吹聴して、馬蝋さんを貶めようとするに違いない。
私のせいでそんなことになるのは、イヤだ。
そのとき麗央那に、電流走る!
「正妃さまとお話と言うのであれば、私、行きますよ、馬蝋さん」
「し、しかし麗女史」
心配してくれる馬蝋さんを掌で制して、私は川久宦官に向き合う。
「でも私、漣さまの夕方のお祈りがあるから、今日は戻らないとです。川久さん、改めて漣さまを通して、私を呼んでください。予定してくれれば、いつでも参ります」
「ぬ……」
そう、私を呼びつけて話をしたいなら、まず主人である漣さまと話を付けてくれ。
でないと、勝手なことはできないし、お部屋の仕事に穴を空けちゃうからね。
漣さまの名前を出した途端、川久宦官の顔から笑みが消えた。
ひょっとすると漣さま、かなり偉い宦官たちからも「付き合いにくい、話がしにくい妃」とか思われてるんだろうか。
私はお辞儀をして、逃げるように庁舎から脱け出す。
「毎日必ず、漣さまがお祈りしているということに今回は助けられたな」
傾きつつある太陽に、私は感謝する。
後宮に戻る途中、中書堂の工事現場をもう一度、見渡す。
想雲(そううん)くんと軽螢(けいけい)は、司午の別邸に帰宅したらしく、もういないけれど。
「あ、麗央那」
先ほど想雲くんに手袋を貰った、神台邑(じんだいむら)出身の少年に声を掛けられる。
「やあ。手袋、似合ってるね」
「う、うん。でもこれ、やっぱり麗央那から、坊ちゃんに返しておいてくれよ。こんないいものもらって、失くしたり盗まれたりしたらって思うと、怖くてさ……」
申し訳なさそうに少年は言った。
もし手袋を返したとしても、この日、冷たい手で過ごさずに済んだという温かな思い出は、彼の心にずっと残り続ける。
物は借りても返せるけれど、恩や気持ちに形はないので、返すのが難しいのだ。
「ったく、司午家の人間ってやつぁ、人たらしよのう」
「は?」
私のボヤきに、少年は怪訝な声を返した。
ポンポンと少年の頭をなでるように叩き、私は諭す。
「きみがいつか偉くなって、同じように困ってる誰かを助けてあげれば、想雲くんも喜ぶよ。世の中、そういう風にできてるんだよ」
「そうかなあ」
偉そうに人生訓を垂れる、数え十七歳の私であった。
そうして漣さまのお部屋に戻り、孤氷さんたちとともに、夕方のお祈りの準備に取り掛かる。
漣さまに突然、質問された。
「司午の貴妃さん、どっか具合悪いん?」
脈絡なく核心に触れられたので、私は心臓が飛び出しそうになった。
「え、いえ、そんなことは。静かにご実家でお休みされています。おなかの赤ちゃんも、すくすくと大きくなって」
私は当たり障りのないことを言って誤魔化す。
姜(きょう)さんの段取りにおいても、漣さまに呪いだのなんだのの詳しいことは伝えていないはずである。
私の返答に納得したのかしていないのか。
漣さまは花瓶から一輪の花を手に取り。
「元気、病気、元気、病気」
花びらをちぎりながら、そう呟いた。
いわゆる、花占いと言うやつだ。
って、ちょいちょいちょい、待てぃ。
四枚しか花びらがねーんだから、元気からスタートしたら、病気で終わるに決まっとるやんけ!
唖然としている私を尻目に、漣さまがお祈りの位置に着く。
「司午の貴妃さんの分も、お祈りしとこっか」
コンビニに行くついでにヨーグルトも買うくらいの気楽さで、そう言ったのだった。
祈って解決するなら。
私だって、いくらでも祈ってるさ。
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