ロストエンブリオ~滅びの世界で魔女生活~

鴻上ヒロ

第一部 魔女の家

一章 プロローグ(ノエル視点)

第一話:悪魔との契約

 ああ、今日も面白くないな。いつもと同じように、机に向かってノートにペンを走らせるだけ。ここのところ毎日、勉強ばかりだ。お父さんに剣の稽古をつけてもらいたいのだけれど、お父さんはまた仕事で数日間帰ってこない。魔法と感情の関係についての研究も、いい加減座学だけでは飽きてきた。


 研究にはフィールドワーク? というのが大事だと、幼馴染のアイコがよく言っている。


「どうして村から出たらいけないのかな」


 昔から、お父さんや村の人に口酸っぱく言われてきた。村の外に一人で出てはいけないと。どうしてダメなのと尋ねても、言葉を濁すだけ。この村は嫌いじゃない。むしろ大好きだ。みんな優しいし、アイコもいるし、おじさんやおばさんもいる。お父さんは……全然帰ってこないけど。


「悪魔、会ったことないんだよなあ」


 魔法は、悪魔の法と書く。悪魔と契約した人間の感情を媒体とし、さまざまな現象を起こすことを総称して魔法と呼ぶ。何度も読んだ本に書いてある。もう暗記してしまったみたいだ。


「やっぱり、引きこもってると限界があるよ」


 私は立ち上がり、ノートをパタリと閉じる。ため息をついて、大きく伸びをした。肩や腕など節々がピキピキと嫌な音を立てる。どれだけの間、勉強していたんだろう。もうずいぶん長いことしていたような気がするけど、日はまだまだ明るい。実は、そんなに経っていないのかもしれない。


 ふと、玄関から音がした。「ただいま」と短く、ぶっきらぼうな声が聞こえる。お父さんの声だ。私は慌てて部屋から出て、階段を駆け下りた。玄関扉で息を整えているお父さんに「おかえり」と、笑顔で声をかける。


 私を見たお父さんも、笑顔になった。


「おお、すまんな。帰りが遅くなった」

「竹下で仕事?」

「いや、今回は博多だ。騎士団からの依頼でな。活発化している魔物の調査をしていたんだ」


 お父さんは、騎士団やギルドなんかには所属せず、傭兵のようなことをしている。頼まれれば駆けつけて戦ったり、人助けをしたりするのが仕事だ。私はお父さんの仕事に誇りを持っているけど、一年の内どれくらいの時間家にいるのかを考えると、素直に応援できない気持ちもある。


 お父さんは剣を玄関に立てかけて、懐から一枚の紙を取り出した。


「これ、手配書だ。タンドの店に貼ってきてくれ」

「手配書?」


 手配書だと言われて渡された紙を開いて見てみる。これが手配書? 顔が描かれていないじゃないか。黒いローブを着て、フードを深く被っている人間が描かれているだけ。男なのか女なのかも、よくわからない。右下にはローブの背面が描かれていた。ローブの背面には金色の十字架が描かれている。


「近頃世間を騒がせている黒教の手配書だ」

「黒教……ああ、最近行商の人が言ってた」

「人さらいとか薬物とか、まあ悪い話ばかり聞く教団だな」

「教団全体の手配書なんだね」


 だから、顔がなく性別すらわからないのか。すると、この金十字の紋章は教団のマークと言ったところだろうか。


「どいつもこいつも背中に紋章のある黒いローブだからな」

「なるほどねえ」


 私は手配書を丸めて、靴を履く。


「おじさんのとこだよね、行ってくる」

「おお、気を付けてな」

「ああ、テーブルの上のパン、今朝焼いたやつだから食べていいよ。あとスープも鍋にあるから」


 私はそれだけ言うと、玄関扉を開けて外に出た。いつもと変わらない村の風景が、目に飛び込んでくる。木々に囲まれた秘境のような場所で、数軒の家々が並んでいるだけの簡素な村だ。私はこの村以外のことをほとんど知らないけれど、アイコが言うには街にはもっと色々なものがあるらしい。


 ここにあるものと言えば、家と自然とおじさんが営む喫茶店兼酒場くらいのものだろう。あそこしか娯楽がないのだから、田舎も田舎だ。


 おじさんの店に入ると、おじさんとおばさんがカウンターの奥から顔を出してくる。カウンターの奥には暖簾がかけられており、そこから居住スペースに繋がっていた。客は、誰もいないようだ。


「ノエルちゃんいらっしゃい」

「おじさん、これ貼ってもいい?」


 私は、手配書をおじさんとおばさんに見せる。二人とも目を見開いて、その手配書を見ていた。


「ああ、黒教かあ……ようやっと手配されたのか」

「物騒よねえ、本当」

「だね。それで、貼っていい?」

「もちろん。そこの壁にでも貼るといいよ」


 おじさんが指したのは、ちょうど私の真後ろにある壁だった。テーブル席に隣接した壁。カウンター席からは見えないけど、嫌に目立つ壁だなあ。テーブル席に座る客からしたら、ここに手配書があるのは威圧感を覚えるに違いない。


 椅子を適当にどかして、壁に手配書を貼ろうとしたが、そう言えばピンがない。


「はい、これ」


 ちょうどいいところに、おばさんがピンを持ってきた。


「ありがとうございます」

「相変わらず、そそっかしい子だねえ」

「へへへ」


 私がピンを持ってきていないだろうことを見越して、すぐに持ってきてくれたんだろう。おばさんは昔から、こういうところがある。これだけ人のことをよく見て動ける人だから、表情が読みづらいおじさんと長年一緒にいられるんだろうな。


 そんなことを思いながらも、手配書を貼り終えた。


「これでよし」


 歪みもなく、丁寧に貼れたと思う。うんうん、きっとそう。なんか右肩上がりになっている気がするけど、遠目で見ればわからないだろう。誤差だよ誤差。


 うんうんと頷いていると、ドタドタと慌ただしい音が聞こえてきた。階段を駆け下りる音だ。すぐに、誰の足音かわかった。


「アイコ、いたんだね」

「もー、来たなら声かけてよ!」


 カウンターの奥から、アイコが息を切らせて出てきた。手にはドライバーという工具が握られている。またオーパーツを弄っていたんだろう。異世界からの漂流物……本当に好きなんだなあ。


「今日もお師匠さん? のとこに行ってるのかと思って」

「今日は休みだって、昨日言ったじゃん」

「そうだっけ?」


 私が言うと、アイコは呆れたように笑う。長年の付き合いからか、アイコの思っていることがなんとなくわかる。相変わらずズボラだなあ、と思っているんだろうな。


「それ、黒教の手配書?」

「そうだよ。お父さんが貼れって」


 アイコが手配書をじっと見て、腕を組んでいる。


「ズレてる」

「え、気のせいだよ気のせい」

「絶対ズレてるって、右肩上がりじゃん」

「誤差だよ誤差」

「もー、ズボラなんだから」


 そう言ってアイコは私を押しのけて、手配書を貼り直す。何度も位置を調整し、ようやく位置を決めてピンを打ち付けた。私はカウンターの近くまで下がってそれを観察しながら、相変わらず几帳面だなあと感心してしまう。アイコが私の隣まで来て、じっと手配書を見つめた後、「よし」と明るい声色で呟いた。


「アルバートさんはまた仕事?」

「さっき帰ってきたとこ」

「相変わらず忙しいんだね」

「なんか、活性化してる魔物の調査らしいよ」

「ああ、なんか最近暴れる魔物多いんだよね」


 魔物というのは、基本的には人を襲わない。もちろん人を襲う種もあるが、そういうのはほとんど絶滅寸前だそうだ。たまに人を襲う魔物がいても、そういうのはだいたい人間が悪い。縄張りに踏み込んだとか、先に手を出したとかそんな感じだ。


 ところが最近は、人間が何もしていないのに魔物に襲われる被害が結構あるらしかった。これも、以前来ていた行商人から聞いた話でしかないけれど。


「ノエルは仕事探さないの?」

「うっ……」

「魔法の研究って言うけど、ずっと座学してるのも限界あるでしょ」

「うっ……」


 面と向かって働けと言われると、胸が苦しくなる。私だって働きたいんだ。フィールドワークとかいうのに、出てみたい。悪魔と実際に会って色々話を聞いてみたいし、あわよくば契約してみたい。そのためには冒険者になるのがいいと思うんだけど、お父さんがそれを許してくれない。


「お父さんがダメって」

「相変わらずの過保護だねえ」

「そうなんだよね」


 もう苦笑するしかなかった。アイコも苦笑している。


「まあ、いつかは村を出ようとは思ってるよ。計画もしてる」

「アルバートさんはどう説得するの?」

「ん-、剣の稽古で一本取れたら許してくれるでしょ」

「あー、ありそう」


 もちろん、それができれば苦労はしない。騎士団の人が以前言っていた。お父さんは、倭大陸一番の剣の使い手だったと。今は一番ではなくなったらしいけど、それでもかなり強い。私はというと剣の才能がないわけじゃないけど、お父さんほどじゃないらしい。お父さんが言うには、亡くなったお母さんによく似ているのだそうだ。私は見たことがないから、よくわからないんだけど。


「まあ、なんか、こう……色々頑張って」

「なんだかなあ、言い方がなんだかなあ」


 ため息をついて、「じゃあまたね」とだけ言って店を出ようとすると、おばさんが「ノエルちゃん」と引き止めてきた。どうしたんだろうと思って振り返ると、手にはかわいらしいリボンが巻かれた小袋が握られている。


「おばさん、どうしたの?」

「何ってわけじゃないんだけどね、はいこれ」


 おばさんが小袋を差し出してきた。リボンの紐を少し緩めて中を見ると、美味しそうなクッキーが入っている。私の大好物は、おばさんの作るクッキーとおじさんの淹れるコーヒーだ。私もおじさんの真似をしてコーヒーを淹れているけれど、おじさんほど美味しくはできない。それにしても、これはすごく嬉しい。


「試作品なんだけどね。お茶っぱを混ぜこんでみたのよ」

「お茶!おしゃれだ……」

「食べたら感想聞かせてちょうだいね」

「それはもちろん」

「助かるよ」

「じゃあ、また」


 手を振りながら言うと、全員が手を振り返してくれた。その様子を見ると、自然と笑顔になる。みんながいるから、この村も捨てたもんじゃないなと思えるんだ。そして、私自身ももしかしたら、捨てたものではないのかもしれないと。


 店を出て家に帰ろうと歩いていると、村の門のほうに人影が見えた。どうしたんだろう。お客さんかな。行商人以外のお客さんは、とても珍しい。お父さんに仕事の用事とかだろうか。ちょっと声をかけてみよう。


 門まで駆け寄って声をかけようとしたところで、私はハッとした。この人、黒いローブを着ている。背中が見えないから紋章があるかはわからないし、フードを被っていないからハッキリと男だとわかるけど、怪しいような気がする。私は念のため、腰の剣の柄に手を当てる。


「何か御用でしょうか」

「ノエルさんですね」


 怪しい男は、なぜか私の名前を呼んだ。どうして、私の名前を知っているんだろう。お父さんの仕事の関係者という風貌ではない。剣の柄にかけた手に、力がこもる。


「そうですけど」

「これは運がいい。我が主にいい報告ができそうです」


 男がそう言った瞬間、視界に空が飛び込んできた。なんだ、どうなったんだ。なんで急に空が……。違う、吹き飛ばされたんだ。音もなく、予備動作もなく、何かの攻撃を食らったらしい。身体が地面にたたきつけられる。背中が痛みをあげた。傷はない。だから剣の斬撃なんかじゃない。なんだ、今の。


 私は立ち上がり、剣を抜く。目の前の男を注視しながら、剣を構えた。


「あんた誰」

「知る必要がありますか?」


 これから死ぬのに、とでも言いたいんだろうか。男が剣を抜いて、構える。やはり、さっきの攻撃は剣ではない。素手にしても、おかしい。身じろぎひとつせず拳を繰り出せるわけがない。とすると精霊術か、魔法か。魔法なら悪魔がいるはずだが、姿を現す様子はない。


「お手並み拝見」


 男が駆けだす。眼前に男の剣の切っ先が迫る。かろうじて受け流すも、速すぎて次の動きが間に合わない。剣を切り返そうとした瞬間、男の手から黒い液体のような霧のようなよくわからないものが飛び出した。それが私の体を吹き飛ばす。さっきのは、これか。


「本で見たことがある……」


 これは、闇魔法だ。絶望の感情と呼応する属性の魔法で、暗黒物質を作り出し自在に操ることができる。確か暗黒操術という名前が付いていたはず。闇属性は、精霊術にはない。つまり、この男は魔法使いだ。夢にまで見た魔法使いとの初対面が、こんな形なんて。


「魔法をご存知でしたか」

「憧れてたからね」

「それはそれは……」


 私は地面を蹴り、思い切り駆けだす。男の懐に入りさえすれば、剣で斬れるはずだ。そう思ったが、男の懐に入りかけた直前、男が消えた。周囲を見渡すも、男の姿はない。頭上かと思って見てみるも、違った。


「どこ行った……」


 考えろ、考えるんだ。そういう魔法はなかったか。姿を一瞬にして消すような……。そうだ、これも闇魔法だ。悪魔の住む影の世界の表層に身を潜めることのできる魔法が、確かあったはず。となると地下だ。


 影の世界は、地上のはるか地下にあると聞いたことがある。悪魔は表層を移動しているとき、地上に影を残すという。不自然に動く影があれば、そこが奴のいる場所だ。とはいえ、こちらから悪魔の住む世界の表層に攻撃することはできない。


 わからないフリをして、攻撃を誘い、出てきたところを叩くしかない。


 私は視線だけを動かし、動く影を探す。一つだけ、丸い影があった。動いてはいないが、不自然な形をしている。丸い影を落とすようなものは、周囲にはない。きっとこれが、奴が潜んでいる影だ。視線だけをその影に集中させながら、周囲を見渡してみる。わかっていないぞ、というフリだ。


 すると、影が動いた。向かってくる。少しずつ近づいている。あと少し、もう少しで、間合いに入る。


 ……入った! あとは出てきたところを叩くだけ。思わず剣を握る手に力が入る。


 影が大きく動いた。出てくる。


 そう思った次の瞬間、私の視界が歪んだ。斜めになっている。


「どうして……」


 私は膝から崩れ落ちていた。見てみると、左足が暗黒物質に刺し貫かれている。影から出ると見せかけて、表層から暗黒物質を伸ばしていたのか。


 男が影から出てきて、私を見下ろす。私に向かって、剣を振り上げている。ここで死ぬのか。まだ何もできていないのに。


 ああ、でも、私は死んだ方がいいのかもしれない。私なんて、生きていないほうが誰かの幸せになるのかもしれない。なぜだか、心の底からそう思えた。


 目を閉じようとした瞬間、甲高い金属音が鳴り響く。お父さんの背中だ。騒ぎを聞きつけて、駆けつけてくれたんだ。


「大丈夫か、ノエル!」

「お父さん!」


 私は叫びながらも、なんとか起き上がる。足が震えて、力が入らない。一緒に戦いたかったけど、ここは退かなきゃ。ゆっくりとした足取りで、距離を取る。その間も、二人の話し声は聞こえていた。


「ほう、あなたがあのアルバートさんですか」

「お前は黒教の人間だな? なぜノエルを殺す」

「我が主の命です。ああ、そういえば、あなたも殺害対象でしたね」


 さっきから、何を言っているんだろう。どうして、お父さんや私が殺されなければならないんだ。私は憤りを感じながらも、敵に向かって行けない自分の不甲斐なさを感じ、頭がおかしくなりそうだった。


「お父さん、そいつ魔法を使うから。気を付けて」


 私にできるのは、戦いの中で得た情報を共有することだけ。お父さんが見ていたのは、おそらく私が剣でとどめを刺されそうになる瞬間だけだろうから。まあ、お父さんなら既に気づいているかもしれないけれど。


「ありがとう。気を付けるよ」


 お父さんはそう言って、剣を握る手に力を込めた。敵の間合いに入る。私の目には、敵のほうからお父さんの間合いに入ったように見えてしまった。振り抜く。剣。


 しかし、剣を振るうまでは確かにそこにあったはずの姿が、どこにも見当たらない。また影に潜んだか。悪魔の住む影の世界の表層に。


 お父さんは一瞬だけあたりを見渡した後、目を閉じた。見えた。影から伸びる手。声をかけようか一瞬迷ったが、私は声をかけられなかった。


 お父さんの足を掴もうとした手。お父さんは逆に掴んでみせた。目を閉じて気配を察知したのだ。お父さんがよくやる特技だ。


 そのまま手を掴み、引っ張り上げる。地上へと引っ張り出される男の体。すかさず、剣。だけど、剣はただローブを突き刺しただけだった。


 私は男の姿を探す。周囲にはいない。影に潜んでいるようにも思えない。答えはすぐにわかった。お父さんの頭上だ。無数の炎弾。お父さんはそれを避け、剣で防ぐ。


 だけど、防ぎきれず当たってしまった。お父さんの体が赤く燃える。


「お父さん!」


 思わず叫んでしまった。炎のなかでたたずむお父さんの顔が、一瞬私を見たような気がする。次の瞬間、お父さんの頭が首から引き剥がされ、吹き飛んだ。ゆっくりとアーチを描き、私のほうへと飛んでくる。やがて地面に落ちて、ゴロゴロと低い砂利の音を立てながら私の足元に転がってきた。


「え……」


 何が起こったんだろう。炎の中のお父さんの首が斬り飛ばされ、私の足元に転がってきた。言語化できているはずなのに、理解が追い付かない。首が飛んだ? 違う、そうじゃない。死んだ。お父さんが。


 殺されたんだ。今しがた地面に着地し、炎のなかで不気味に笑うあの男に。


「うわああああああ!」


 私は気がついたときには、地面を思い切り蹴っていた。体が脳のコントロール下を離れたような感覚がする。男の懐に入り込み、一閃。剣はただ虚しく、空を斬る。頭上から剣が振り下ろされる。私は咄嗟にそれを剣で防ぎ、弾き返していた。


 一体なにをしているんだ、私は。さっきまで足が震えて力が入らなかったのに、なぜ今になってこの体はこんな軽やかに動いているんだ。どうして、この動きがさっきできなかったんだ。お父さんが戦っていたときに。


 男に、追撃。男は暗黒物質で作った盾でそれを受け止めた。


 お父さんが強いから。お父さんの戦いの邪魔をしたくなかったから。じゃあどうして、あのとき叫んでしまったんだ。どうして、あのときお父さんは私の方を見たんだ。私を守ろうとしたのか? 私にまで魔法の攻撃が及んでいると思って? その結果、お父さんは殺された。


 私の体は、剣を打ち付けていた。何度も。何度も。何度も。


 腹が立つ。自分の不甲斐なさに。そして何より、お父さんを殺した目の前の男を、私は殺したい。心からそう願った。だけど、私にはその力がない。きっとこの体も、この男に斬り飛ばされてしまうんだろう。今はただ、どうしようもなく、この男に打ち勝つ力が欲しい。目の前の憎い男を焼き、切り刻む力が。


 誰でもいい。なんでもいい。私に力を貸して……!


 そう思ったとき、どこかから声が聞こえた気がした。私の体は、思わず飛び退いている。


 ――私と契約しろ、ノエル。


 私と契約しろ、確かにそう聞こえた。私の名前まで読んでいる。間違いない。これは紛れもなく、悪魔のささやきというやつだ。願ってもないことだ。力を貸してほしい。悪魔の力なら、魔法の力があれば、私もこの男と対等に戦える。何より、それは私がずっと欲しいと思っていた力だった。あれ、そういえば、どうして、昔から欲していたんだっけ。


 ――何を迷っている、早くしろ!


 ええい、なんでもいい。差し伸べられた手を取らない理由なんて、ないんだから。


「契約する。するよ」


 私が言うと、私の足元から声の主が現れた。


「よく言った! 契約完了だ、ノエル」


 それは、黒い影の塊のようだった。質量はあるようだけど、実体がここにあるようにも思えない。仮面をかぶり、人型をした小さいぬいぐるみのような外見。本で見た悪魔の姿とは、まるで違う姿だった。違う、そんなことは今はどうでもいい。大事なことは別にある。


「お前は既に力が使える。感情を解き放て」

「感情を……」


 魔法の力は、人間の感情に呼応して発現する。人間と契約した悪魔が、その人間の感情を媒体に自らの力を貸し与えていると本で読んだ。心が悪魔の力を通すゲートの役割をしているのだと。そして、感情の大きさがそのまま魔法の強さになる。


 今一番強い感情を、私は思い浮かべた。考えるまでもない。決まっている。殺意と絶望だ。憎い。殺したい。念じるんだ。憎しみを。後悔を。


 こちらの様子をうかがっている男を注視する。胸の内に、どす黒い感情が渦巻くのがわかる。同時に、私の手に暗黒物質が出現していた。私はボロボロになった剣を投げ、暗黒物質を剣の形に変える。そのまま、私は影の世界の表層に入った。


 なるほど、こうなっているのか。影の世界の表層には何もなく、ただ暗闇があるだけ。頭上を見れば、地上の様子がハッキリと見える。もちろん下から見上げる構図になるが、敵がどこにいるのかはよくわかった。木々の影が伸びている。私はそこに入って、ゆっくりと迂回しながら敵の立っている位置まで移動。


 勢いよく飛び出る。剣。男の肌を切り裂いた。真っ赤な血が、肌を破ってあたりにばら撒かれる。当たった。切り裂いたのは頬だ。すんでのところで避けられてしまったらしい。


「気を付けろノエル、強すぎる感情は自分に返ってくるぞ」


 悪魔が、私に淡々と告げた。それも本で読んだことがあった。あまりに強い感情を乗せた魔法を使い過ぎると、使用者の身に返ってくると。怒りに呼応する炎の魔法なら、自分の身が焼かれてしまう。憎悪や殺意に呼応する魔系の魔法なら、周囲にいる人間も動物も見境なく殺そうとする。その後、自分自身をも殺してしまう。


 気を付けろと言われても、どうしたらいいのかわからない。とにかく今は、あいつを殺すことに集中したい。


 敵は手から炎弾を出して牽制してくる。私はお父さんの死を思い出す。泣きたい気持ちを絞り出す。悲しみが水の塊を呼んだ。炎弾をかき消し、走る。もっとはっきりと、イメージしなければだめだ。あいつを殺す自分自身を。もっと大きく、強く、命を刈り取るような魔法を。


 私は相手の間合いに入る寸前で立ち止まる。土埃。両手には、影でできたような巨大な鎌。グッと力をこめ、大地を踏みしめ、鎌を振るう。敵の体が、いとも簡単に真っ二つに切り裂かれた。下半身から切り離された上半身が、ボトッと鈍い音を立てて地面に落ちる。男の臓物から、血管から、ありとあらゆる部位から飛び出た血が地面を濡らした。


「……やった」


 力が抜けていくような感覚がして、手に握っていた暗黒物質の剣が霧散していく。同時に、男の体が砂のように崩れてどこかに消えてしまった。


「な、に?」


 おかしい……。


 人の体は、こんな風に崩れたり消えたりしない。確実に殺したとは思う。だけど、どうして遺体が消えたんだ。そもそも黒教って、一体何なんだ。あいつは「我が主」と、何度も言っていた。その主とかいう奴の命令で、私と私のお父さんを殺しに来たのだと。だとしたら、その主も許してはおけない。仇はまだ、別にいる。


「ノエル」


 気が付くと、悪魔が私の足を小突いていた。私はハッとして、転がっているお父さんの頭を抱きかかえた。そうして遺体のそばまで寄り、頭を首のあたりに安置する。これで、少しは安心して天国に行けるかもしれない。そうだ、みんなを呼ばなきゃ。ああ、でも、なんだか力が……。


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