第5話

「早く、上ってこいよ!」


「無理だって! 木登りなんて、したことないんだから」


「そこの枝に足掛けてさ……って律は本当に何にもしたことないよな」


「そ、そんなことないよ!」


「うそだぁ」


 樹にからかわれながら、やっとの思いでたどりついた枝の上。

 樹が座るのは、僕より一段上の枝。

 一週間前に、下から見上げた大けやきの上では、頭上にあるだけだった空が、目の前に広がっていた。

 樹と一緒に遊べる最終日。

 「俺の好きな場所に案内するよ」そう言って樹が誘ってくれた場所。

 最初に会ったときも、空を見てるうちに雨が降りだしたんだって、そう教えてくれた。


「明日、帰るんだろ?」


「うん。朝、迎えが来るから」


「そっかぁ。律と遊ぶの楽しかったなぁ」


「僕も。誘ってくれて、ありがと」


 樹にとっては、大したことのない一週間。

 僕にとっては、宝物の一週間。


「僕さぁ。逃げてきたんだよね」


「何から?」


「塾」


「塾ぅ? そんなとこ行ってんの?」


「中学受験の為にね。でもさぁ、何の為にやってんのかなって、嫌になって」


「それなら、止めれば?」


 樹の、ごく普通の言葉が、僕にとっては当たり前じゃなくて。


「できないよ。お母さんは、絶対に受験するべき! って頑張ってて。そりゃね、きっとやりたくてやってる子もいるよ。でも、僕はそうじゃない」


 塾に行くことも、受験することも、全部全部お母さんが決めてきた。

 それをここまで反対できなかった僕も悪くて。


「嫌なら、止めればいいのに」


「本当ならね。そうするべきなんだ」


「まぁねー。親の言うことには逆らえねぇよなぁ」


「うん」


 逆らえなくて、押し付けられて、結局逃げ出した。

 自分で道も決められないくせに、決められた道から逃げた。

 嫌で嫌で仕方なくて、塾をさぼって、見かねたお父さんが助け船を出してくれた。

 それに甘えるように家を出た僕を、お母さんはため息をついて見送った。

 帰ったら、何を言われるかな。


 ニゲタ


 樹といるときには聞こえなくなってたノイズが、久しぶりに顔を出した。

 これは、僕がもう一度始めないと直らないのかな。

 動き続けているうちには、聞こえなかったのに。


「樹。一週間、楽しかった」


「俺も」


 僕は、この一週間を忘れない。

 樹が忘れても、僕は忘れないから。


「また来年、遊ぼうぜ」


 来年。

 一年も先の話。

 約束できない未来。


「今度はさ、逃げたとか言わずに、堂々と遊びにこいよ」


 堂々と。

 逃げるんじゃなくて。

 僕の意思で。


「うん」


 田んぼのあぜ道で見た、わたあめみたいな雲は、いつしか姿を消して。

 目の前の空には、イワシの大群が列をなす。

 夏の終わりの雷雨に、何度体を濡らされただろう。

 茜色の空は、これまでよりも少し控えめな太陽を見せる。

 太陽が一番輝いた季節が、もう終わる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る