第18話

「……きて。起きてください」


 少しづつ、瞼の向こうが明るくなっていく。まるで海の底から水面へと引き上げられる魚のよう。

 暗闇の中にいたかったのに、無理やり本来の居場所から引き剝がされたようで、あまり気分はよくない。


「もう少し寝かせて……」


 寝返りをうち、少しでも光と声を遠ざける。

 あとほんの少しだけ、まどろみの中に浸かっていたかった。

 

「気持ちは分かりますがそろそろ……」


「どうせ僕が寝坊したところで、誰も気にしないって……」


「そんなことないですよ」


「あるよ、実際そうなんだし……」


「そんなことないですったら。ほら、いい加減起きないと遅刻しますよ」


 だっていうのに、誰かがずっと話しかけてくる。

 放っておいて欲しいのに、離れていく気配がまるでない。しまいには身体がぐらぐら揺らされ始めるし、安眠妨害もいいとこだ。


「だから、もういいって……寝かせてくれよ……」


「もう。にいさ――」


「天音」


 無意識にその名前を呟くと、身体の揺れがぴたりと止まった。

 ああ、やっぱり天音だったのか。僕の言うことを聞いてくれるなんて、天音は本当に優しいな。僕の家族とは大違いだ。


「ありがとう、天音……」


 ぼんやりとした頭でお礼の言葉を述べながら、僕は再び眠りへと落ちようと――


「私は、あの人ではありません」


 した瞬間、肩に強い痛みが走った。


「いたっ……」


 なにかに掴まれたようなビリっとした感覚を受け、意識が一気に覚醒する。

 眠気が飛び、目が開く。明るくなっている部屋の景色が飛び込んでくる。


「目が覚めましたか、兄さん」


 だけど、そこにあり得ないものが写り込む。

 僕しかいないはずの僕の部屋にある人の気配。そして声。

 ベッドに横たわったまま、僕はゆっくりと顔をあげる。


「あ、れ……?」


「おはようございます、兄さん。随分良く眠っていたみたいですね」


 視線の先。僕を見下ろすアリスがそこにいた。


「アリス、なんで……?」


「今日も兄さんが起きなかったから、直接起こしに来たんですよ」


 明るく輝く銀の髪色と反比例するかのように、その目は何故かひどく冷たい。

 だが、そんなことはどうでもいい。僕が聞きたいのはそんなことじゃないんだ。

 

「そうじゃなくて、なんで僕の部屋にいるのさ。部屋には鍵をかけていて……」


「ああ、その鍵でしたらどうも壊れたみたいですよ」


 入れないはずなのに。そう続けようとした僕の言葉を遮るように、アリスが答えを口にする。


「え……?」


「扉を少し強く押したら、あっさりと開きましたよ」


「……嘘だろ?」


「嘘だったら、ここにいる私は超能力で壁をすり抜けたか、幽霊だってことになりますね。もちろん私はそのどちらでもないですけど」


 アリスは冗談を言っているつもりなのかもしれないが、こっちとしてはまったくもって笑えない。

 強く押しただけで開いたなんて、そんなはずない。それじゃあ鍵の意味なんてないじゃないか。


「引っ越してきたばかりで、そんなこと……」


「取り付けに不備があったのかもしれませんね。まぁそういうこともあるでしょう」


「あるでしょうって……」


 あったら困るんだよ。クソっ! 

 思わず舌打ちしたくなる。


「じゃ、じゃあ大家さんに連絡しないと。新しく鍵を付け替えて……」


「別に、いいじゃないですか」


「え……?」


「別に鍵なんて必要ないですよ。私がこうして兄さんを起こせば、それが一番手っ取り早いんですから」


 髪をかきあげながら、アリスは言った。

 よい提案だとでも言いたげだが、僕としてはそれを受けいれることは出来ない。


「いや、それは」


「それとも」


 だから拒否しようとしたのに、アリスが僕の言葉をまたも遮る。そして、


「他の誰かに起こしてもらうのはいいのに。妹である私に起こされるのは、嫌だとでもいうんですか、兄さん」


 そうなんでもないかのように話すアリスの目が、どこか暗く淀んでいるように見えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る