第3話
午前十一時ごろ。なにやら買い物に出かけていた牡丹が帰宅したようで、がたごとと物音がする。その音で葉太は目を覚ました。誰も起こしてはくれない二人と神出鬼没な一人の四捨五入して三人での生活も、今日で三日目。まだ新しい屋敷の匂いには慣れない。頭を掻きながらスマートフォンの電源を入れる。時刻を確認した後、いつの間にやらかかっていた布団に気がつく。あいつの仕業か。余計なことしやがって。そう悪態をつきながら布団をしまいに廊下へと出る。
「葉太様、おはようございます」
紙袋を持った牡丹が葉太に気がついて駆け寄ってくる。途中で転びかけ、葉太にぶつかった。
「今日もそそっかしいな」
葉太は牡丹を思いきり押し返した。牡丹の目がぱっちりと開かれる。
「私、葉太様に触れられてしまいました……!」
「うるせえ。黙れ」
大きなため息が一つ。外は雪が降っているようだった。牡丹の黒髪に雪がついていた。
「なんで起こさねえんだよ」
「……」
「そこは黙るなよ」
少し上向き気味に葉太を黙って見つめる牡丹の頬を軽くぺちぺちと叩く。葉太は幸せそうな笑顔を腹立たしく思った。
「だって、あまりにも気持ちよさそうに眠っておられたので」
「俺を見る時間があったら家事をしろよ馬鹿。それ以外に存在意義ないんだから」
一昨日、昨日と牡丹に振り回されてばかりの葉太は気が立っている。腰に手を当て、強い口調で説教じみたことをすると、牡丹はニヤリと笑った。
「なんだよ」
「葉太様の真似っこでございます」
「俺、そんな顔したことあったか?」
「たまにしてますよ」
ふふふ、という牡丹の笑い声が葉太の耳を通っていく。その笑顔が忌まわしい。
「……朝飯」
「作ってありますよ」
「……洗濯」
「干しました」
「……掃除」
「昨晩暇だったのでやっておきました」
不機嫌そうな声と上機嫌そうな声が交互に会話する。
「そうだ、ローストビーフは?」
葉太はニヤリと笑った。先ほどの牡丹と似ている。無理難題を押し付ければ牡丹も困るだろうという子供っぽい算段だった。だが、牡丹は写し鏡のように葉太の顔を模倣した。それに気がついた葉太は鬱陶しそうな顔をする。
「じゃーん。お店で買ってきました!」
牡丹は誇らしげに紙袋を突き出した。はじけんばかりの笑顔だ。
「え、行ったの?マジで?」
「マジでございます」
呆れ顔の葉太と、誇らしげな牡丹。なんだか奇怪なシーンである。
「なんで?」
「バスに乗って行ったんですよ」
「交通手段の話じゃねえよ馬鹿」
ぱちぱちと牡丹がまばたきをする。
「なんでって、葉太様が言ったんじゃないですか」
「いや、まあそうなんだけどさ」
なんとなく腑に落ちない様子の葉太に、牡丹は微笑みかけた。
「愛する旦那様のためですから」
「うわ出た。キショいやめろ」
葉太は肘で牡丹を押す。牡丹は嬉しそうだ。
「……なんでお前はさ」
「はい?」
突然葉太の声が低くなる。うつむき気味になったその顔は憂いに似た何かを帯びている。
「そんなに俺のこと好きなの」
牡丹が口を小さく開けて首を傾げる。
「つい最近会ったばっかなのに」
葉太は理解ができない。盲目かのように葉太に尽くし、葉太を愛し、葉太について回る少女を受け入れられないでいる。
「家族とは愛するべきものだと教えられましたから」
牡丹が優しい笑みを浮かべる。
「そりゃあ嘘だね。誰にそんなもん教えられたんだよ」
へらりと葉太の口角が上がる。
「お父さんとお母さんに」
「へえ、素敵だな」
心のこもっていない返事を葉太は返す。
「私も葉太様を愛したいのです。私が両親に愛してもらったように。二人が愛し合っていたように」
「わけわかんねえ。本当に馬鹿だな、お前」
「葉太様は私の運命の人ですから」
牡丹が笑う。葉太が返したのは、嘲笑。そして、いつものため息。
(ああ、こいつは俺とは違うんだ)
牡丹は愛されている。それに比べて、葉太はどうだろう。葉太は自身の家のことを考えた。夏目家のことを考えていたら、反吐が出そうになった。
「そうだ、見てくださいよ」
「なんだよ」
葉太の声色は無関心を表している。
「……何?これ」
「ミニ葉牡丹の寄せ植えです。つい勝手に買っちゃいました」
だめでした?と牡丹が上目遣いで葉太の目を見る。それが葉太にとってはうざったらしい。
「ほら、私たちみたいじゃないですか」
「この草のどこがだよ」
寄せ植えを草呼ばわりする葉太に、先生気取りで牡丹は人差し指を立てて言う。
「ほら、『葉』太様と、『牡丹』。合わせたら葉牡丹じゃないですか」
葉太は微妙な顔をする。
「葉牡丹なんて牡丹の下位互換じゃねえか。ただの草じゃん」
葉太はただの草、もとい寄せ植えを覗き込む。
「私たちにはそれくらいでいいんですよ、きっと」
「どういう意味だよ。デコピンすんぞ」
「ふふ、葉太様のデコピン、あんまり痛くないですよ」
葉太は目を吊り上げた。牡丹は眉を下げる。そして、顔を綻ばせる。
「……俺、葉太って名前、嫌いなんだよね」
「どうしてですか?」
気がつくと外に雪が積もっていた。
「ダサいじゃん」
「そうですかね」
廊下の冷えた床が体温を奪っていく。
「それにさ、俺、兄弟がいるんだけどさ。お前と違って」
雪が溶けて一部湿った牡丹の黒髪が艶めいている。
「みんな花の名前がついてんの。慣わしで。お前もそうだろ?」
「はい。夏目の血を引く者の慣わしだとかなんだとか」
お互い息を吐く。
「でも俺の名前はその慣わしに従っていない。花開かない、ってことかな」
冷笑を自分自身に葉太は向けた。
「違うと思いますよ」
牡丹は葉太の手を握る。石鹸の香りがふわりとする。今度は振りほどかなかった。
「葉太様は、これから花開くんですよ」
笑顔を向けられて、手から温かさが伝わってきて、葉太はどきりとした。けれどもすぐに我に帰った。
「は、はぁ?意味わかんねえし」
「察しが悪いですね」
「なんだと?喧嘩か?喧嘩か?」
葉太が殴る真似をすると、牡丹が口を開けて笑った。
「なんだよ」
「いつもの葉太様に戻りましたね」
葉太は憤慨しながら牡丹を蹴ってみたが、空振りに終わった。今日も、牡丹と別れられなかった。
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