解け落ちた氷のその行方

序/優雅とは言えない高校生活

ほつれる桜

0-1


 それが四月の始まりを告げているのか、それとも三月の終わりを告げているのかはわからない。だが、校舎の中で唯一、細い枝に桜の葉を蓄えた樹木に対して、俺は歓迎されていると思うことができた。


 校舎を囲むようにして設置されている木々にも、それぞれ桃色の彩は存在する。だが、校舎の中にはこの細いだけの樹木しか存在しない。


 ひどく細い樹木だ。幹については俺の体より細い、なんなら幼子と同じくらいの大きさである。その細さに見合うくらい、もしくはその細さなりの桜の葉が、俺にとっては寄り添うような存在にも見えてしまう。


 俺自身が、こんな桜の木のような存在だからだろうか。


 わからない。


 俺はここまで儚い存在というわけでもないだろうし、終末の美を飾るほどの景観を俺は備えていない。


 でも、見ていると落ち着くのだ。


 なんとなく、そんな感じがする。


「見てて楽しい?」


 隣にいる彼女は、俺がそれに物思いを巡らせていると、純粋に不思議そうな口調でそう聞いてきた。


 長い黒髪である、一般的な、それでいて純粋そうな女子高生、と言えばいいのだろうか。最近の女子高生像についてを俺は良く知らない。でも、彼女はどこかの文学少女のような雰囲気さえ持ち合わせている。彼女は実際に文学を嗜んでいるのかは微妙なところだったけれど、俺の書く詩をよく褒めてくれることがあるから、文学少女ということにしておきたい。褒めてくれる存在が高みにいれば、それだけ俺は安心するから。


 俺は彼女の言葉を咀嚼して、反芻する。


 別に、楽しいわけじゃない。


 でも、見ていると落ち着く気分になれるのは確かなのだ。


「それなりに」と俺は答えた。彼女は、そうなんだ、とだけ答えて、俺と同じように目の前の細い樹木を眺めた。


 ここから、きっと始まるのだろう。


 俺たちの、新しい高校生活というものは。





 高校生活というものを俺はよく知らない。でも、だいたいの人間の考えを聞くと、その大半が高校生活はバラ色だと答えてくる。もしくは学生であること自体をバラ色とも表現しているが、一度距離を離した俺には、尚更それがわからない。


 距離を離した期間については一年程度。中学を卒業してから高校という概念から逃げるように働きだした。俺を雇ってくれる会社というのも少なかったが、それでもなんとか就職することがかなって、そうして一年間、高校生活とは無縁の日々を暮らした。


 だから、よく現場で働いていると同じような境遇をした人間が、大人が声をかけてくる。


『本当に、高校に行かなくてよかったのか?』


 そんなことを何度も聞いてくる。


 去年の五月くらいは耳にタコができるくらい聞かれた気がする。その度に、俺はどんな返事をしたんだろう。よく覚えていない。適当な返事しかしていなかっただろう。あー、とか、うん、とか、はい、とか、そうですね、そんな言葉を吐いていたと思う。


 別に、高校生活に興味がなかったわけじゃない。そうする余裕が俺になかっただけで、実際に触れる機会があったなら触れたいとは思っていたものだ。だが、それに触れる機会は確実に俺には存在しなかったからこそ、考えないようにしていた。


 欲というものは、持ってしまえば意識をしてしまう。意識をしてしまえば、手元に入れたくて仕方がない感情が反芻する。例え自らで取りこぼしたものだったとしても、自らで取りこぼしてしまったからこその未練が生まれてくる。だから、意識しないように考えていた。


 そんな時期だった気がする。俺に定時制の高校があることを勧めてきたのは。


「もったいないよ。だって、私たちまだ若いんだよ? 一緒の高校に通おうよ。そしたら、楽しいこともいっぱいだよ」


 そんな台詞が背中を押してくれたのだと思う。一言一句同じなのかはわからないけれど、だいたいそんな感じだ。


 そんな言葉に影響されて、それからはなんとなく受験のために勉強へと励むことにしてみたり(勉強する必要があったのかどうかは、今となってはどうでもいいところではあるが)、きちんと仕事に向き合ったり(働くことの大切さを身にしみて感じなければ、今後の学生生活が無駄になるかもしれないと思ったから)するようになった。


 そうして、今俺はここにいる。


 ここに立つことができている。


 隣には彼女、妹の皐がいる。


 それなら、俺は高校生活というものに励まなければいけない。


 それが、俺のするべきことだから。

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