第5話 甘い囁きの罠
結果は語るまでもなく、もちろん間に合わなかった。
とは言っても結構頑張ったので、時間を過ぎたと言っても数分レベルだ。
案の定というか、やっぱり時間厳守タイプのことではなかったらしく、なんなら荷物を取りに来た業者さんも十三時ぴったりには来ちゃいなかった。
しかしならが当然、椿原部長にはきちんと叱責を受けた。
ただあまりにも予想できたことだったし、覚悟は十分にしていたから、余裕を持って聞き流すことができた。
「大変だったみたいだね。言ってくれたら手伝ったのにぃ」
足りない休憩と肉体労働、そして長時間の叱責を経てへとへとの俺が自分のデスクに戻ると、桃木さんそんな労いの言葉をかけてくれた。
「手伝いを呼べたと思います?」
「だよね、ごめん。言っただけ」
えへっと誤魔化し笑いをする桃木さんの、こういう割り切ったところは好感が持てる。
助けられないなら助けられないなりのコミュニケーションをとってくれるのはありがたい。
助けるつもりはないのに、自分の保身のためにフリだけされるというのはまた違った精神的苦痛になるし。
「でもさ、その調子で間に合う?」
「間に合うとは……?」
「ほら、この間部長から頼まれてた資料作り」
差し出されたチョコをありがたく口に放り込む俺に、桃木さんはそう尋ねてきた。
俺ののんきな対応に、明らかに不安な色を募らせている。
「あれ、今日までじゃなかったけ、確か」
「いや、確か来週末までだったと思うんですけど……」
「でもそれ、来月のイベントの資料でしょ? 確か次の月曜に営業部がその打ち合わせするから、そこで使うと思うんじゃないかなぁ」
言われてだんだんと状況がわかってきた俺は、一気に血の気が引いていくのを感じた。
いや、椿原部長と来週末までという会話をした覚えはあるのだけれど、でもそう理屈を説明されると不安になってくる。
青ざめる俺を見て桃木さんは、「早く確認しにいった方がいいよ」と椿原部長の方をチラリと見やった。
正直これが事実なら確実に怒られるのだけれど、まぁすっぽかした方がもっと怒られるだろう。
俺は椿原部長からのパワハラを、その最中に起こるラッキースケベを楽しむことで自分の中で相殺している。
だからといって自分から怒られにいくほど俺は拗れせてないんだ。
そもそもの話、正直仕事はそこそこできている方だと思うんだ。
ただまぁ、椿原部長がツッコミを入れたくなるような隙をあえて残したりする時はあるけれど。
とにかく、自分のミスで、自分が悪くて素直に怒られるのは嫌なのだ。
最小限に止めるためにも、まずは状況を正確に理解する必要がある。
俺は覚悟を決め、恐る恐る椿原部長のデスクへと向かった。
「あの、椿原部長。今お時間よろしいでしょうか……?」
「…………」
「急ぎ、お伺いしたことがあるのですが……」
「…………」
無視である。まぁこれはいつものことだ。
俺から椿原部長に話しかけて、すぐに応対してもらったことなんてほぼない。
仕方なく俺は、根気強く声をかけつつも、部長が返事をする気になるまでお胸の微かな揺れを観察することにした。
気が急いている状況でも、いやだからこそ、これが案外気が紛れる。
「あの、椿原部長……」
「……なに」
しばらくしてようやく気だるそうな返事をした椿原部長は、あからさまに重たい溜息をつきながら、横目で俺のことを睨み上げた。
正直ビビってしまいそうだったが、ここで折れてはいられない。
「先日ご指示いただいた資料作成の件なのですが……」
「え? なに、もうできてるの?」
「あ、いえ。その、締め切りを来週末だと思っていたんですが、もしかしたら今日までじゃないかと思いまして……。来週末っておっしゃてました、よね……?」
心底以外そうな顔をした椿原部長に対し、居た堪れない気持ちになりながらそうゴニョゴニョと続ける俺。
部長の顔色はドンドン呆れと侮蔑に色塗られていくのが、もう火を見るよりも明らかだった。
先ほどよりも大きく、たっぷりと溜息をつかれる。
「来週末? 私は今週末と言いました。今週末、今週の金曜日。つまり今日。わかる?」
「はい……」
これは粛々と怒られるしかない。俺は普段よりも小さくなって答えた。
自分が悪いのだからこれは仕方ない。流石にちゃんとお叱りを耳に入れて反省すべきことだろう。
と、思ったのだけれど。椿原部長の顔をよく見てみると、なんだかうっすら笑っているのである。
呆れた苦笑いというよりそれは、嘲笑い小馬鹿にしているような、そんなひねた笑みで。
あーこれはハメられたのだと理解した。
そう思ってよくよく思い起こしてみれば、かなりふわっとした指示だったような気がする。
金曜までによろしくと指示されて、俺は今週ですかと確認したはずだ。それに次、とだけ返ってきたからじゃあ来週の金曜ですねと答えて。それに返事はなかった。
確かに俺の確認不足と言われると反論はしにくいけれど。
でも俺が間違った認識をしたのは聞こえていたはずだから、訂正できたはずだ。
つまりはわざと。俺に締め切りを勘違いさせて、間に合わなかったことを責める魂胆か。
「あなた、仕事を任されてる自覚ある? 責任感、持ちなさいよ。ねぇ」
ジクジクと責め立てる言葉を並べながら、俺の脛あたりをガシガシ足蹴にしてくる椿原部長。
これが仕組まれたミスとわかれば、作業を急かさずにネチネチ叱責を続けている理由もわかろうというものだ。
完全に説教を聞く気がなくなった俺は、大人しく俯いていた姿勢のままに、俺の脚を蹴るたびにたぷたぷ揺れる太ももに意識を向けることにした。
決して無駄な肉はついていない。引き締まった美脚の柔らかな筋肉のラインと張り、そこからくる揺らぎが艶かしいのだ。
「────あなたと話していても時間の無駄だわ。今から早く取り掛かりなさい」
しばらく自ら時間を無駄にしてから、椿原部長はようやくそう言った。
「はい。あの、一人だと終わらないと思うので、先輩方に手伝ってもらってもらってもいいでしょうか」
「何を言ってるの。彼女たちは別の業務であなたよりも忙しいのよ。自分の仕事は自分でなんとかしなさい。責任感持ちなさいって言ったわよね、私」
俺は甘かった。どうやら本番はこれかららしい。
仕組んだミスを
量が多めなのもそうだけれど、まだ慣れない作業も挟まるからスピードを出せる自信がない。
まぁそれも織り込み済みなんだろうけれど。
「業務時間内に終わらないようなら、残業でもなんでもして、確実に今日中に終わらせて。あなたのミスなんだから、もちろん残業代なんて出ないけど。でも責任ってそういうものよ?」
そう言って口元を歪める椿原部長は、かなりのサディスティックが入っていた。
言いたいことは色々とあるけれど、今更言い返したところで意味はないし、何よりも早く仕事を終わらせることが最優先だ。
俺は手早く素直に謝罪をし、マッハで自分のデスクに戻って作業に取り掛かることにした。
が、ことはそれでは収まらなかった。
案の定、まだやり慣れていないことや教えられていないことがボコボコ出てきて、全然作業が進まないのだ。
もちろん質問なんてしていい空気ではなく、隣で桃木さんがチラチラ様子を伺ってくれてはくれていたけれど、俺は一人手探りで進めていくしかなかった。
「何をモタモタしてるの。状況わかってる?」
流石に見かねたのか、椿原部長は文句をこぼしながら俺の元にやってきて、背中越しにパソコンの画面を覗きん込んだ。
「これと、これもやり方が違う。それにこれは持ってくるものが違うでしょ」
そう言いながら部長は画面を指差し、一つひとつ間違った箇所を指摘していく。
指摘してくれるのはいいのだけれど、じゃあそれをどう改善したらいいのかとか、そういう明確なことは教えてくれない。ただ指摘するだけだ。
しかし今の俺にはそんなことは全く気にならなかった。
何故って、俺の肩越しに前のめりになって画面を指差す椿原部長の胸が、がっつり俺の肩に乗っかっているからだ。
ネクタイを締められた際の接触や、倉庫でぶつけられた時とはまた感触が違う。
屈み姿勢のせいで体重がかかっている。ずっしりと重さを伴った圧力が乗っかっているのだ。
ただ柔らかさを覚えるのとは違い、まるで巨大な水風船が乗ったようなズンとした感触がある。
しかもそれは部長が腕を動かして身じろぐ度に肩の上でたぷたぷと波打っている。
肩に乗し掛かる柔らかな重圧に思考がドンドン染められていく。
しかも顔の真横に椿原部長の髪があるせいか、なんだかすっごくいい匂いもするし。
今まさにこの人にハメられていじめられているのはわかるんだけれど、男の本能がこの五感を研ぎ澄ませてまくって状況を堪能してしまっいてる。
「ねぇ、草野くん」
そんな時、不意に耳元で椿原部長が囁いた。
温かい吐息と共にそっと放たれた言葉に、思わずゾクゾクとしてしまった。
「せっかく私が間違いを教えてあげてるのに、全然改善できてないじゃない。手、止めてる場合? あなたって本当、役立たずなのね。使えない部下を持って、私が可哀想だと思わない? ねぇ、草野くん。雑草の方がまだ使い道あるわよ?」
つらつらと並び立てられる罵詈雑言と反して、そのウィスパーボイスは妙に甘く色っぽかった。
囁き罵倒なるプレイが世の中にはあるようだけれど、マゾではない俺には今まで全く縁がなかった。
が、実際体験してみるとこれはこれでエロい。いや罵倒自体は嫌だけれど、中身に反した甘やかな声色がなんだか妙にゾクゾクするのだ。
胸とかパンツとか、あからさまに性的な部分をエロく感じるのはそこまで罪悪感を覚えない。
ただ声色とか吐息とか、一見性的な要素がない部分で興奮してしまうのは、なんだかものすごく背徳的な気がした。
「この調子じゃ残業確定ね。御愁傷様」
クツクツとそう囁いた椿原部長は、最後に俺の両肩を掴んでグッと体重をかけてから自分の席へと戻っていった。
もちろん、その際背中には胸が思いっきりぐにゃりと潰れた感触があって、もう残業とかどうでもよくなってしまった。
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