第三章 Runaway

Runaway ①

 二〇〇三年──平成十五年 六月──


 あの日のことは、よくおぼえている。


 しつこく降る霧雨がアスファルトの道路をしめらせる、すこし蒸し暑い夜で、もうすぐ梅雨があけて〝はしゃげる夏がくる〟のを感じさせる季節だった。


 そのころのわたしは、やっとお金を貯めおえて、専門学校への入学申請をしようかっていう、やさきで、バイト先の


──というより、もう本業そのものになりつつあった夜の仕事が、わたしは夜に染まっていく自分がイヤで、早くこんな仕事とこの夜の世界からおさらばしたいと、つくづく思っていた。

 専門学校に行くようになれば、夜も辞めて、わたしをとりまく世界がかわるって、そう信じていた──


夜友達と、いくつかの学校案内のパンフレットと願書を見比みくらべて、つきつけられた金額とにらめっこしているさいちゅうだった。


 年間の学費、入学金の支払いかた。学校に通うための交通費が月々いくらぐらいかかるのか。専門の道具を買うための教材費、そのつど課題にかかる材料費がいくらかかるのか。卒業する三年間までにトータルでかかる費用を、電卓をたたいておおまかに計算した。


 算出された莫大な費用はおよそ四百万~五百万円。わたしは頭をかかえた。

「あきらめなよ」と、夜友達はみな口々に云った。

「二百万円貯めて入学できたとしても、これじゃあせいぜい二年間ぐらいしかかよえないよ? 残りの一年どうするの?」

「おまけに、一人暮らししてるんでしょ? その生活費は?」

「あたし、短大に通わせてもらっているけど、親に感謝しよう。これからはまじめに大学に行って、ちゃんと卒業しよう」

「……ぜひ、そうしてちょうだい」と、わたしはうめきながら云った。「こんなにお金がかかるだなんて、知らなかった」

「だからあきらめて、気晴らしに旅行かなんかに行ったら? それだけのお金があれば、海外旅行に行けるじゃん」


悩み事なんて、これっぽっちもありませんとばかりに、チャラチャラ笑う子に、わたしはしかめづらをかえした。「飛行機はファーストクラスで、泊るホテルはスイートルームとか?」


「ああ! それいいね! そうしなよ! 人生で一度くらいは経験したいよね~」

 わたしは天井を見上げた。「冗談よしてよ。それこそ、汗〝水〟たらして一生懸命働いて貯めたお金なのに、そんなのに使って、なんの意味があるの」

「だから、気晴らしだって。今までの自分にご褒美するんだよ!」この子はルンルンだ。この子がもし犬だったら、まちがいなく今シッポをぶんぶんふっている。


「ご褒美、ね」わたしは噛みしめるように云って、息をついた。この子とわたしとでは、すこし──もしかしたらだいぶ──考えかたが違うのかも。その相違点を、そっと伝えてみよう。自分に云い聞かせるように。

「わたしは人生で一度くらい、とことんがんばってみたいの。たった一度きりの人生でしょう? だから、一度くらいは自分がやれるところまでやってみたい。人生を後悔しないためにも。ご褒美は、きっとその先にあるんじゃないかな?」


 みんなのぺちゃくちゃおしゃべりが、一瞬シンとなった。──また、やってしまったのか、と、ちょっぴり不安になった。

また、場違いで、調子はずれなことを云ってしまったのか、と。けど、そこまでの危機感はない。夜の友達は、こんなわたしをいつも大目に見てくれている。

ここに働きにくるたちが、いろんな事情といろんなクセを持っているのを、みんなはよーくわかっていて、たいがいのことに目をつぶってあげないと、いちいち目くじらをたてていたら、やってらんないっていうのをわかっているから。


「でも、そうは云っても、現実が……」短大に通っている子が気の毒そうに云った。「やりぬきたいんなら応援するけど、でもそうなると夜を辞めれなくない? は夜を辞めたいんでしょう? 一人暮らしの生活費を確保しつつ、こんなにかかる学費を短期間で稼ぐなんて、夜しかないよ? それに、学校に通いながら夜をやるなんて、寝不足になる」


「──そうだよね」わたしはまた頭をかかえた。カッコつけたって、現実はそううまくはいかない。

 短大に通う子は、〝はっちゃけたい夏休み〟にむけて、自由に使えるお小遣いをかせぎにきている子だ。もちろん、親にはキャバクラでバイトしているのを内緒にしている。

 この子は、ここでバイトするようになってから寝不足続きで、あくびの回数が日ごとに増えていくし、最近じゃ、目の下のクマがすごく目立っていて、せっかくのカワイイお人形さんみたいな顔にかげりをみせている。だから、すごく説得力がある。


 けど寝不足になるのは、そう苦痛ではない。──もともと眠れない体質だし。

 問題は、この夜の仕事とまだまだお付き合いしなくちゃならないってことだ。


「……親に、頼めないの?」短大の子が聞きにくそうに、心配そうに云った。「学費の半分は稼いであるわけだし、残りの半分は親に負担してもらうとか……」


「それは無理だと思う」わたしはバッサリと切り捨てるように断言した。「わたし、はっきり云われたの。『そんなに学校に行きたいんだったら、テメェ~のカネで行け!』って」

云いながら、お父さんにいだいたにくしみがよみがえってきた。


「ねえ、どうして親子なのに、そんなに仲が悪いの?」べつの子も心配そうに身をのりだしてきた。


「さあ」わたしはわざとらしく、とぼけた感じに云った。「子供らしからぬ、〝なまいきなガキ〟だから、かわいくないんでしょ」


「でも、ほんとうの子供なんだよね?」継父ままちちに育てられ、性的暴行レイプされてきた子が泣きそうな顔をして声をあげた。……やば。どうしよう。話題をかえなきゃ。



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