あいのぽたーじゅ
楸
第1話
◇
年の離れた姉が私に笑顔で関わってくれた。
寒さの中にある小さな温もり。膨らんでいたお腹がとても印象的で、姉は「触ってみる?」と聞いてくる。別に興味があったわけではない。だから、大丈夫、と断ったけれど、結局姉は私の腕を取って、自身の腹にあてがった。内側から感じる胎動のような感触は確かに伝わった。姉はすごいでしょ、とにこやかにしていた。
正直、何がすごいのかはわからなかった。私がそれだけ幼いというだけかもしれない。もしくは大人ぶって世界を見ていたからだろうか。
目の前にある光景のすべては、単純に姉の身体に生命が宿った、というだけの話であり、そこに律動を感じるのは当たり前だ、とそういう風にしかとらえることはできなかった。
きっと、いつか私も同じことを経験するのかもしれない、そんなことをなんとなく心の片隅で感じていた。
内側で燻っている赤ん坊の存在が外を嫌って蹴ったとしても、それが赤ん坊の生理的な反応だ。だから、何がすごいのかということに理解を示すことはできない。
呆然とするように、私は姉の腹を撫でる。少し硬くなっている感触もあるそれをただ撫でていると、それを見ていた姉の旦那が命のすばらしさについて語り上げていく。
彼は私の手に同調するようにして、姉の腹をさすっていく。内側からそれっぽい反応を感じると、うお、とわざとらしく声を出して、笑顔を振りまいた。
私はそんな手を無意識的に払いのけるようにした。姉には気づかれないように、そっと力を抜くみたいにして、ポケットに手を戻した。彼の手がそれを追いかけてくることはなかった。それに安心感を覚えながら、彼と姉が会話をしている風景を見つめている。
我が物顔、という具合。何も知らない、という表情。時折、ちらと射貫くような冷たい視線を私に向けたかと思うと、すぐに緩和した笑顔のものへと転換して姉を、姉の腹を見つめる。
苛立ちを隠すことはできない。でも、姉が選んだ人なのだから、ここで何か言うことは許されない。姉は何も悪くはないのだから、なにかを考えてはいけない。
ポケットにしまった手を固く握りしめる。内側の布を巻き込んで、それらが皴になる感触を確かめる。
拭いきれない、肌の感触。さするように手の甲を撫でられた温もりが、いつまでも反芻してしまう。
「ちょっと、お手洗い行ってくるね」
かきむしりたい。でも、姉の目の前でそうすることは許されていなくて、私は適当な言葉を吐くことにした。
いってらっしゃい、と特に何も気にしないように声をかける姉の姿。
それを鼻で嘲るようにする彼の姿。
鬱陶しい鬱陶しい鬱陶しい。
きっと、私も姉のようになるのだろうか。そんな浮ついた恐怖を考えながら、私は彼らに宣言した場所に向かった。
◇
暗闇にいることを選びたくはなかった。そうしたくなかったのは、いろいろなことを思い出してしまうから。
病院のトイレは電気が点くまでに時間がかかる。センサーで人がいることを確かめているせいだろうか、背の低い私の動きをとらえることが困難らしく、いつまでも電気が点かない。本当にそれだけが理由なのかはわからない。単純に私の影が薄いだけかもしれない。
私はそんな暗闇が怖くて仕方がない。暗くなればいろいろなことを思い出してしまう。ただでさえ目をつむりたくないほどなのに、暗闇が目の前にやってくるのは嫌でしょうがない。
私は手を伸ばしながら、明るさをトイレの中に閉じ込めるようにする。なんとかその甲斐はあったようで、緩やかに暖色のある明かりが空間に響いた。
ふう、と安堵に息を吐くと、私は洗面台の方に向かう。
かきむしりたい衝動を殺しながら、蛇口を捻り、手に泡立ったハンドソープをくぐらせた。冬の空気に絆された冷たい水を皮膚にあてがいながら、ひたすらにそれをこする。
人に触れられると、指紋が残る感触がするのだ。その指紋を意識したくないから、石鹸で適切に洗い流す。
指紋が消えてくれたかはわからない。まだこびりついているような気はする。結局、洗い流していることに納得をつけることができなくて、排水栓を押しこんで、水の出口をなかったことにする。水面と言えるものが出来上がって、その中に手を浸ける。こびりついた汚れが浮き上がるイメージに心を溶かす。
自分の中で決着をつけて、溜めた水を排水する。泡にまみれた洗面台を洗い流して、もう一度水を溜めるようにした。
波立つ水面は正しく私を映してくれることはない。蛇口から水を零すたびに揺れるすべての景色。もしくは歪んでいるといったほうがいいすべて。忙しいとも感じ取れる反射する光景。でも、これこそがひとつの正しい世界の姿なのかもしれない、と俯瞰で眺めて思う。
正しい形など、どこにも存在しない。鏡の中にいる自分でさえも正しいものなのかはわからない。それなら、目の前の水面のようにすべてがあやふやであるのならば、道理があるような気がする。
うっ、と胃を締める感触。嗚咽を殺しながら、ふう、ふう、とあからさまな呼吸を自分の中に取り戻す。それでも酸味は口内に広がって、とてもじゃない気持ち悪さが身体にまとわりつくのだけれど。
なんで、こうなったんだっけ。
気持ち悪い感覚から目を逸らそうとしながら、おそらく正しく映し出されている鏡の中の私を睨んでみる。
口元を抑えている様子、憎しみをないまぜにしたような瞳、幼さが抜け切れていない細い身体。
呼吸が許されればいいのに。
そんなことに頭を働かせながら、私は自分の身体をさするようにした。そうすれば、落ち着けるような気がしたから。
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