第38話 古傷

 その日のバイトが終わってからコンビニに立ち寄り、缶コーヒを買って栓を開けた。

 

 こういうのが結構好きだ。

 仕事や何かが終ってからコーヒーを片手に、何も考えずにひと息つく。

 誰にも邪魔されない、至高ともいえる時間。


 そう言えば、姫乃を偶然見掛けたのはここだった。

 泣いていて、野郎たちに囲まれていた彼女に声を掛けて――


 あの時からそう時間は経っていないれど、自分の周りの空気は随分と変わった。

 クラスの女の子と友達になって、麗華とたまに会うようになって、KIRATIAなんていう普通なら手が届かないようなグループのメンバーとも話をすることができた。

 久々にサッカーや昔の知り合いとも交わり。

 そして何より、姫乃と一緒に過ごす時間。

 

 ふと考えると、そのきっかけは全部彼女だ。

 人の縁って不思議なんだなと、少し大人びた感傷に耽ってみる。


 そう言えば、電話をくれと彼女に言われていた。

 星が見えない都会の空の下、ぐっとコーヒーを飲み干して、足を駅の方へと向ける。


 家に着いて母さんにただいまを言ってから、自室へと向かい、スマホを取り出した。


 ビデオ電話でコールをして3回目くらいで、姫乃から応答があった。


「もしもし、遅くなってごめん。今帰ったんだ」

「……お疲れ様」


 スマホの画面越しではあるけれど、何だか顔色が優れず、沈んでいるように見える。

 少し心配になり。


「どうしたんだ、姫乃? ちょっと元気がないみたいだけど?」

「うん。あのね……」


 伏し目がちになりながら、彼女は口を開いた。


「今日、駅でね、陣の知り合いの二人と会って、少し話したの」

「知り合い…… 巧に寛人か?」

「うん。ねえ陣…… 事故にあって、サッカーをやめたって本当?」


 ………… そのことか。

 あまり話題にしたくないことだった。


 既に昔のこととはいえ、ある意味俺にとっての古傷である。

 それに、そんな話を聞いても、面白いと思う奴はいないだろう。


 それにしてもあいつら、余計なことを姫乃に話してくれたものだ。


「……あいつらから聞いたのか?」

「ごめん。なんで陣がサッカーをやめたのかが気になってて、ちょっと訊いてみたの。そしたら……」


 一旦言葉を切ってから、なおも姫乃が話し続ける。


「今日家に帰ってから、サッカーチームのHPを見てみたんだ。そしたら昔の記事や記録なんかも残ってて。 ……陣、レギュラーだったの?」

「……それほどのものでもないけど、たまに試合には出ていたよ」

「『神宮寺杯決勝、東京アークナイツU15快勝。快速FW畑中のゴールが決勝点』ってあったけど、これって陣のことよね?」


 一瞬、瞼の裏に、その当時の景色が浮かんだ。

 右足を思いっきり振り抜いて、相手ゴールにボールを突き刺した情景が蘇る。


「……そうかな……確かに畑中って、俺しかいなかったしな」

「顔写真も載ってたわよ」

「そっか……」


 それは中学二年の時、ジュニアユース世代のサッカー全国大会での記事だろう。

 その時の優勝メンバーとして、俺も名を連ねていた。


「すごかったのね、陣。もしかして、その事故で走れなくなったの?」


 まいったな……

 話すつもりは全く無かったけれど、誤魔化しは通じなさそうだ。


「うん、それもある。けど、それはきっかけでさ。やめるのを決めたのは、自分自身だからさ」

「元には戻らないくらいの、怪我だったの?」

「……リハビリとかをちゃんとやってればどうにかなったかもだけど、ちょっと厳しかったかな。それに、高校ではゆっくり過ごすのも、いいんじゃないかって思ったよ」

「ごめんなさい。私、そんなこと知らなかったから…… 酷いこと言ったよね? 運動音痴だとか……」


 申し訳無さげに、画面の向こう側で、姫乃が首を下に向ける。


「ま、今はそれが事実だから仕方ないし、気にしてないよ」

「でも、なんでそんな大事なこと、教えてくれなかったのよ! 倉本さんや、麗華さんとかは、知ってたんでしょ? 多分、お店のおかみさんとかだって……」


 姫乃は語気を強めて、画面越しに強い視線を送ってくる。

 画面越しだとよく分からないけれど、目尻がうっすらと滲んでいるようにも見える。


「ごめん、隠すつもりでもなかったけど。でも姫乃、俺の方からも、一つ訊きたいことがあるんだ」

「なによ?」

「姫乃も昔、事故にあったことがあるんでしょ?」

「……」


 彼女は一瞬口を噤んでから、


「誰に聞いたのよ、それ?」

「葵が話してくれたんだよ。お前のことを心配してね」

「そう…… ごめん、私も黙ってた。一年ほど前に、トラックに轢かれかけてね」

「体は大丈夫だったのか?」

「うん、寸前のとこで、助けてくれた人がいて」

「そうか………… それなら、良かったよ…………」


 その言葉を本人から直接聞けて、心の底から安心した。

 元気な姫乃が傍にはいるけれど、でも心の中のどこかで、不安なものがあったんだ。


「姫乃を助けてくれた人って、今の元気な姫乃を見ると、きっと喜ぶと思うよ」

「そう……かな?」

「うん。きっとそうだよ」

「なんか、自分で見てきたみたいに言うわね?」

「いや…… 何となく、そうかなってさ」

「そうね。だから、一回会ってお礼が言いたいだけど、どこの誰かも分からないんだ」

「そっか…… いつか会えるといいな」

「うん」


 姫乃は目を閉じて、ゆっくりと頷いた。


「ねえ、陣は、どんな事故だったの?」

「えっと……俺も車だよ。当たり所が悪かったみたいでさ、足だけやっちゃってな」

「どこで?」

「確か、どっかの交差点だったかな。ふらふらとっ出てしまってバーン、だ。ごめん、あんまり思い出したくなくってさ」

「そう……陣にとっての、古傷のようなものだものね」


 哀れみと慈しみとの両方を滲ませた瞳を向けてくる姫乃。


「でも陣、これからは隠し事はなしだからね? なにかあったら、ちゃんと話すように!」

「はい、分かりました……」


 そっちこそと思わなくはなかったけれど、言葉を飲み込んだ。

 その事故が姫乃にとってトラウマになっているんじゃないかって葵が話していたことが気になったけれど、それは置いておこう。

 今は、姫乃が俺の事を心配してくれているのだし。

 デリケートなところに、そう簡単に突っ込んでいいものかどうかも、よく分からない。


「ねえ、陣、夏休みももう終わるし、最後にどっか行かない? ちょっとお詫びもしたいしさ」

「お詫び……て。別に気にしなくてもいいよ、そんなの。姫乃には勉強を手伝ってもらったり、料理も作ってもらったり、KIRATIAのイベントにも連れて行ってもらったし」

「いいから、そういうのは、素直になってよ……」


 眉根を歪めながら、困ったような表情を送ってくる。


「はい…… でも本当に、別に特別なものはいらないよ。姫乃と一緒に喋っているだけで、俺は十分だからさ」

「……そうなの?」

「うん。だって俺は姫乃推しだから、これ以上幸せなことって、ないじゃないか?」

「そ、か…… じゃあ今度また、ご飯でも作りに行ってあげようか?」

「うん。それで頼むよ」

「分かった」


 だんだん当たり前のようになってはいるけれど、自分が推し…… 気になる女の子と二人で部屋にいて、一緒に勉強したり、ご飯を食べたり、同じ趣味に興じたり。

 幸せだ。

 変なスパイスも特別なこともいらない。

 ただ、一緒にいられる時間が俺にとって特別なのだと、あらためて気づかされる。


 けど、姫乃の方は、それで退屈ではないのだろうか。


 そう言えば、麗華は横浜に行きたかったと話していたよな。


「でもさあ」

「ん?」

「姫乃の方で、なにかしたいこととかがあるんだったら、付き合うよ? 別に、ずっと家の中にいないといけない訳でもないし。お詫びとかそんなのじゃなくてさ」

「えっと…… ありがとう。すぐには決められないから、考えとくね?」

「うん。そうしてよ」


 それからしばらくの間雑談を楽しんでから、じゃあまたねと言い合って切電した。


 今日一日の汗を流すために、風呂場に行ってバスタブに湯を張り、体を浸した。

 じんわりとした温かみを感じながら、自分の右足に目を落とす。

 縫い目が盛り上がった手術の傷跡が、大きく残っている。

 少し薄らいだとはいえ、まだかなり目立つだろう。


 あれは俺にとっては大きな出来事だったし、重大な決断もあった。

 

 けれど、それも自分の足跡の中での一ページ。

 あの事故がなかったら、麗華とはまだ続いていたかもしれないし、あの時コンビニで姫野と会って、店に連れて行くこともなかったのかもしれない。


 傷跡を指でなぞりながら、不思議と、気持ちが穏やかになっていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る