第17話 試験勉強
「コーヒー持ってきたよ」
「ありがとう」
窓がない六畳間にベッドとタンス、それに自分が普段使う勉強机と本棚だけが置かれた簡素な部屋のカーペットの上に、姫乃が腰を下していた。
今は彼女の前に、折り畳み式のテーブルもあって、その上にお盆を置いた。
クリームを入れてスプーンでくるくると掻き混ぜて、マグカップに口を付けてから、姫乃は、
「はあ、なんか落ち着いた」
と静かに囁いた。
「結構騒がしかったもんね、さっきまで」
「そうね。それに、外にいるよりも、お部屋の中の方が、やっぱり落ち着くわ」
純菜や葵もいる時間は何も考えずに楽しくて嫌いではないが、こうして姫乃と二人だと、また違った時間の流れ方がある。
このままのんびりと過ごしたいが、そうも言っていられない。
今は勉強のために、ここにいるのだ。
姫乃はぐるっと一通り部屋を眺めてから、
「結構綺麗に片付いてるじゃない? 男の子の部屋って、もっとごちゃごちゃしてるイメージだったけど」
「まあ、ほとんど帰ってきて寝るだけの部屋だしね。あんま散らかりようがないのかもね」
「ねえ、あの写真なに?」
姫乃は机の上に飾ってある、額に入った写真を指さした。
そこには、オーシャンブルーのユニフォームを着た面々が、黄金色のトロフィーを持った選手を真ん中にして、集まって映っている。
「ああ、あれは中学の時、サッカーの大会で優勝した時のだよ」
「へえ。あなた本当にサッカーやってたのね。でも運動オンチのあなたが、よくやれてたね?」
「まあね。昔はもっとましだったんだよ」
「ねえ、陣はどこに映ってるの?」
俺は写真を手元に持ってきて、最前列の真ん中あたりを指さした。
他のチームメイト達に交じって、満面の笑みを浮かべる自分の顔がそこにある。
「え……」
「ん? どした?」
「結構、格好いいじゃん」
「そうか? 姫乃にそう言ってもらえると、昔の俺は跳び上がって喜ぶと思うよ」
そう言いながら、今はその片鱗もないのだとしたら、やはり凹んではしまうけど、まあ仕方がない。
コーヒーを半分程飲み終えてから、姫乃が威勢よく声を上げた。
「さて、やりますか!?」
「はい」
二人しておもむろに同じ教科書とノートを広げて、試験範囲の英語の勉強を始めた。
「ねえ、ここを教えてくれ給えよ」
「あ、ここはねえ。熟語を覚えておいた方がいいよ。えっと……」
姫乃からの質問に1つ1つ答えながら、自分の理解も深めていく。
自分一人で集中してやるのもいいけれど、こうして話をしながらだと、飽きずに続けられる気がする。
「なんか思った以上に英語得意だね、陣」
「昔は結構勉強したからね。外国の人と喋りたかったし」
「へえ、外国にでも行きたかったの?」
「いや、近くにそういう人がいたからさ。普通に喋れるようになれたらいいなって思ったんだよ」
「そっかあ。私も頑張んないとなあ」
教科書に顔をくっつけるようにして、姫乃はまたうんうんと唸り出した。
「そうだ、姫乃は数学が得意なんだっけ?」
「得意ってほどじゃないけど、中間試験は平均点は超えてたよ」
「すごいじゃん、それ。オーディション受けながらだったんだよな?」
「まあね。合宿の時なんか、学生のみんなは教科書持ち込みだったけどさ。でも仲間の手前、なかなか勉強の時間がなかったからね」
姫乃は当時を振り返って、懐かし気に語る。
「それできっちり試験受けて、練習やステージをこなして、あそこまでいったんだから、やっぱ凄いよ、姫乃は!」
「そ、そうかな……」
「そうだよ。だからこんな英語なんか、姫乃ならすぐにものにできるよ」
「それ、逆にプレッシャーがきついんだけど?」
「あ、そう? ごめん」
時々脱線しながらも何とか消化していると、ドアがコンコンとノックされた。
ドアが少し開いてそこから母さんが顔を覗かせ。
「夕飯できたけど、どうする?」
「こんなもんにしとこうか、今日?」
「うん、そうしよ」
キッチンに移動すると、テーブルの上に、色とりどりの料理が並べられていた。
普段母さんが作る料理よりも、皿の数が倍近い。
はりきったな、今日……
「はい、どうぞ。たくさん食べてね」
「ありがとうございます。頂きまあす!」
姫乃は黄金色の唐揚げを箸でつまんで口に入れ、幸せそうに表情を崩す。
俺は赤や緑が鮮やかな野菜炒めを口に入れ、野菜の旨味を堪能する。
「ほんと、どれも美味しいです」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
母さんは微笑まし気に、俺達に視線を送る。
いつもある食卓が、なんだか違うもののように感じる。
もっと暖かでまろやかで、軽やかな空間。
姫乃の存在感は、やっぱり俺にとっては格別だ。
不安定で未完成、咲き誇る前の花のような魅力。
それがこれからどんな風に変わっていくのか、ずっと見ていたいと思う。
「どうしたのよ、陣。ぼーっとしちゃって?」
「あ、いや、なんでもないよ。お代わり」
「あ、じゃあ私も。あ、私がご飯よそいますね?」
「あら、ありがとう、一条さん」
食べ終えてから満腹感に浸りながら、そろそろ姫乃は帰る時間に。
「どうも、お邪魔しました」
「いいえ。また来てね、一条さん」
「じゃあ俺、送ってくるから」
駅へ向かう夜道を、白色の街燈に照らされながら、二人で並んで歩く。
「美味しかったし楽しかった。ありがとね、陣」
「いいえ、こっちこそ、わざわざ来てくれてありがとう。母さんも喜んでたみたいだし」
「え、そう?」
「うん。うち、いつもは一人飯が多いから、今日は特別な感じだな」
「それ、うちも似たような感じだなあ」
姫乃が少し寂し気に言葉をつないだ。
「そうなのか?」
「うん。両方の親ともあんまり家にいないからさ」
「姫乃って、兄弟とかいるの?」
「お姉ちゃんが一人。でも家から出て行って、あんまり帰ってこないからなあ」
「そっか……」
「うん。だから、オーディション受けてた時って、気が紛れて良かったってのはあるんだよ」
そう言いながら、姫乃はやはり寂しそうに笑った。
俺にはそんな時、洋食屋Tanyがあって、ずいぶんと救われた。
けれど姫乃は…… どうだったんだろな……?
友達はいたのだろうけど、家の中にいると、やっぱり家族の存在って、小さくはないように思えて。
駅の改札の前に辿り着いて、
「ありがとう。ここでいいよ」
「うん。じゃあ、気をつけて」
「ねえ、陣?」
「ん?」
「また、お家行ってもいい?」
「もちろん。今度は、数学を教えてよ」
「うむ、任せなさい」
ほんの少しでも、姫乃の寂しさが薄らいだのなら、良かったな。
何度か振り返りながら手を振る姫乃を、姿が見えなくなるまで、ずっと見送った。
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