どれみふぁ荘のおかしな住人達。

山本田口

第1話 私の居場所。

 私の名前は、春野二葉、21歳の社会人一年生です。

田舎から上京して、この春から東京で一人暮らしをしながら、働いています。

 仕事は、いわゆるペットショップの店員です。

動物が好きで、将来は、動物園の飼育係になりたくて、家から電車で二時間かけて

専門学校に通っていました。卒業して、念願の動物園の飼育係を希望したけど

その夢は、叶いませんでした。でも、先生の推薦で、ペットショップに内定し

この春に、正社員として、就職することができたのです。

夢はかなわなかったけど、動物にまつわる仕事に就くことができて、

私は、満足でした。

 私の家族は、両親と三歳上の兄の四人家族です。

実家は、農家をしていて、兄は、高校を卒業すると同時に、父の跡を継ぐことになり

今も両親と農家として頑張っています。

 そんな私も、地元に残り、そこで就職して、結婚するんだろうと漠然と考えていました。でも、私は、自分の夢を諦めることができませんでした。

上京して、一人暮らしなんて、両親は大反対でした。

それでも私は、自分の人生だからと、説得して、反対を押し切って、

上京したのです。

 お店は、都心から少し離れた商店街の中にある、小さなお店です。

東京は、ペットブームで、犬や猫を扱うお店は多いけど、小鳥や小動物などを

扱うお店は少ないらしく、いわゆるそこは、総合ペットショップでした。

犬や猫だけでなく、うさぎやハムスターなどの小動物から、インコや文鳥などの小鳥、トカゲやカメなどの両生類や爬虫類から、金魚やメダカなど熱帯魚まで、

いろいろ扱うので、それなりに忙しく、常連お客さんもついていました。

 オーナーの御主人と店長の奥さんと夫婦でやっている小さなお店です。

店員は、先輩社員でトリマーをやっている女性と、学生アルバイトの男の子と女の子の二人で、私が一番の新人です。

 お店は、11時から夜の20時までで、休みは定休日の水曜日だけです。

私の勤務時間は、10時に出勤して、開店準備とペットたちのエサをあげて、

ケージなどの掃除です。

11時に開店したら、接客したり、品出しをしたり忙しい毎日でした。

まだ新人で、社会人一年生なので、お給料は少ないけど、毎日、好きな動物たちに囲まれてお世話ができるので、私は、充実した日々を送っています。


 そんな時、住んでいるアパートの大家さんから、いきなり立ち退きを言われました。やっと慣れてきたところなのに、再開発という理由で、アパートが取り壊されることになりました。

私以外の住人は、みんな出て行ってしまって、残りは私一人でした。

一週間以内に、退去するように言われて、途方にくれました。

 初めて上京するときも、都内で一人暮らしをするための部屋を借りるのも大変でした。二十歳そこそこの若い女で、社会人一年生だと、給料も安いので、なかなか部屋が見つかりませんでした。

部屋探しも引っ越しするのも、苦労したことを思い出すと、ため息しか出ません。

しかし、一週間以内に、新しい部屋を見つけないことには、住所不定になってしまいます。こんなことを親に知られたら、怒られるどころか、田舎に連れ戻されます。

 親切なお店のオーナーは、ウチに下宿してもいいと言ってくれるけど、やっぱり、一人暮らしがしたい。

一人で独立してやっていきたい。そう思って、毎日、仕事帰りに不動産屋に行ってるけど断られてばかりで、正直言って、心が折れました。

 今日も、仕事帰りに不動産に行ったけど、二件続けて断られて、凹んだ帰りでした。ウチに帰っても、住人は、私一人です。そんな寂しいところに帰るのも足が重くなります。すぐに帰る気にもなれず、アパート近くの公園に行くと、誰もいないブランコに座って揺らしながら夜空を見ると、情けなくて涙が出てきそうでした。

「あぁ~ぁ、どうしようかな・・・」

 今日、何度ため息を漏らしたかわかりません。自然と口にしていました。

東京には、知り合いも友達もいません。上京して、半年になっても、頼りにできる友だちや相談できる知り合いは、誰もいません。一人ぼっちというのが、こんなに寂しいのかと現実を思い知らされました。

 仕事には、不満はありません。毎日、好きな動物たちに囲まれて、オーナーや店長、先輩社員やアルバイトさんたちも、みんな優しくて、親切な人たちばかりです。

職場的には、恵まれているのに、肝心の自分の部屋がなくなるのです。

ホッとする場所がないというのは、帰る家がないということです。

早く次の部屋を探さないといけないのはわかっているけど、断られてばかりだと心が折れそうでした。

「お嬢さん、そんなところで、何をしておるんじゃ?」

 突然、話しかけられて、顔を上げると、そこに小さな白い何かがいました。

「こんな遅くに一人でいるのは、危ないぞ」

 それは、おばあさんでした。辺りが暗かったので、ハッキリ顔は見えません。

でも、長くて白い髪、白い着物、しわくちゃな顔は、わかりました。

知らない人に声をかけられたのは、初めてだったので、なんて言ったらいいかわかりませんでした。

「お前さん、部屋を探しているのかね?」

「えっ?」

「その顔じゃ、困っているようだな」

 私の今の悩みを、初対面の知らないおばあさんに言い当てられて、思わず声を上げてしまいました。

それが、後の私の居場所となる、不思議なアパートの大家さんとの初めての出会いでした。

「なんで、わかるんですか?」

「なんとなくじゃ。わしくらいの年になると、若い者の考えていることは、わかるようになるんじゃ」

 そんなおばあさんは、皴だらけの顔で、少し笑いました。

私は、部屋を探しているけど、全然見つからないということを正直に話しました。

すると、おばあさんは、優しそうな声で言いました。

「向こうに店があるのが見えるか?」

 私は、おばあさんが言われるままに、顔を上げてみました。

公園の前が道路になっていて、道を挟んだところに、明かりが見えました。

「そこに行ってみるがいい。そこは、不動産屋じゃ。きっと、いい部屋が見つかるぞ」

 ブランコに座ったまま顔だけ向けても、そこが不動産屋だというのは、わかりませんでした。それに、歩きなれた道なのに、あんなところに不動産屋なんてあったのか、覚えがありません。

「行くか行かないかは、自分で決めるがいい。だがな、世の中捨てたもんじゃないぞ。捨てる神があれば、拾う神があるというじゃろ。きっと、いい部屋が見つかると思うぞ」

 そう言うと、おばあさんは、何も言わずに立ち去っていきました。

私は、おばあさんの小さな後姿を見送り、ブランコから立つと、言われた不動産屋に向かって歩き出していました。

 横断歩道を渡った目の前に、確かに不動産屋さんがありました。

周りは、すっかり暗くなっているので、そこだけが明かりが灯っています。

古そうなお店で、窓に『そらしど不動産』と書かれていました。

「こんなお店、あったかしら?」

 私は、首を傾げながら周りを見ました。

断られてばかりの私は、ダメ元で、この店にも期待しないで、聞いてみることにしました。ガタガタするドアを開けて中に入りました。


「すみません、失礼します」

 声をかけると、奥から人が出てきました。

「いらっしゃい」

「あの、お部屋を探しているんですけど、どこかないでしょうか?」

 そういうと、ハゲた頭で小太りのおじさんが、メガネをかけながら言いました。

「あるよ。だって、ウチは、不動産屋だからね」

 当たり前の返事でした。だけど、それは、今の私には、全く信用できない。

「とにかく、立ち話もなんだから、そこに座ってくださいな」

 おじさんに言われて、私は、机を挟んで古そうな椅子に腰を下ろしました。

「えーと、アンタ一人暮らし? それとも結婚して、二人暮らし?」

「いえ、私一人です」

「一人暮らしか。若いお嬢さんが一人暮らしとは、大丈夫かね?」

「大丈夫です。そこは、心配しないでください」

 そこは、誰にでも言われる不安だった。お金があれば、若い女性が一人で住んでも

安全なセキュリティー万全なマンションなどが一番だ。

でも、社会人一年生の新人の私には、とても無理です。そんな高い家賃など払えない。自分の身は、自分で守るという気持ちで臨むしかないのだ。

「それで、どんな部屋がいいの? 家賃とか、間取りとか・・・」

「あの、出来れば、家賃は安い方がいいです。私、上京したばかりで、余りお金がないので・・・」

 もう、格好つけたり、見栄を張っても意味がない。私は、正直に言いました。

「う~ん・・・ちょっと待ってね」

 おじさんは、立ち上がると、後ろの棚からファイルを探していると、一冊の書類を出してきました。

「これこれ、いいのがあったよ。アンタ、運がいいね。ここは、掘り出し物だよ」

 そう言って、見せてもらった書類には、おかしなことが書いてありました。

「ちょうど、一部屋空いてね。大家さんに住人を頼まれてたんだよ。アンタ、ホントに運がいいよ」

 おじさんは、人のいい笑みを浮かべながらその物件を進めてきました。

「場所は、駅から徒歩10分。アンタみたいな若い人の足なら、6~7分で着くよ。

間取りは、6畳一間だけど、なんと、光熱費も混みで、たったの2万円。

しかも、三食賄い付き。こんな物件、二度と出ないよ。どうかな?」

 私は、腰が抜けるかと思いました。こんなにいい部屋が、あっさり見つかるなんて、夢かと思いました。

ここにする。ここしかない。私は、おじさんの顔を穴が空くほど見ながら

『ここにします』と喉まで出かかりました。しかし、そこで、何かが引っ掛かりました。こんなにいい条件で、家賃も安くて、しかも、賄い付きなんて、こんなにうまい話があるわけありません。

きっと、何かあるはずです。浮きそうになった腰をもう一度、椅子に降ろすと、

書類をじっと見つめました。

「あの、これって、もしかして、事故物件とかですか?」

 テレビのニュースなどでも聞く、殺人事件があったり、自殺者が出た部屋は、

事故物件と言って、格安で借りることができる。

「イヤイヤ、そんなんじゃないから、安心して」

「それじゃ、幽霊とか、オバケが出るとか・・・」

 借りたはいいけど、毎晩、枕元に地縛霊とか出て、呪われたら落ち着いて寝られない。そもそも、そういう、オバケとか幽霊は、苦手なので、子供のころから、遊園地のお化け屋敷には足を踏み入れたことがない。

「大丈夫、大丈夫。そんなの出ないから。ただ、ちょっと・・・」

「ちょっとなんですか?」

「住人が、ちょっと変わってる人がいるんでね」

「変わった人? まさか、犯罪者とか、ストーカーとか、変質者とか」

「そんなんじゃないよ。みんな、いい人なんだけど、ちょっと変わってる人ばかりでね」

 おじさんの言い方は、限りなく不安だった。その言い方は、ものすごく奥歯に物が挟まったような言いにくそうな言い方だ。やっぱり、やめておいた方がいいかも・・・

「返事は、今じゃなくていいよ。これは、契約書ね。一晩考えて、借りるならここに名前を書いて、判を押して、明日くらいに持ってきて。ダメなら、違う人を探さなきゃいけないからさ。だけど、ここは、いいとこだよ。おじさんのお薦めだよ。ここに入って、損はないと思うけどな」

 そう言われて、私は、契約書だけをもらって、この日は、不動産屋を後にしました。お店の外に出ても、おじさんは、手を振りながら『待ってるよぉ』と言って見送ってくれました。

 私は、元来た道を歩きながら、今のアパートに歩きだしました。

公園に入って、何気なく振り向くと、不動産屋の明かりが消えていました。

最初は、閉店時間だから電気を消したのかと思ったけど、よく見たら、そこにお店そのものがありませんでした。

「そんなバカな!」

 私は、そう言いながら、何度も見ました。でも、そこには、お店らしいものはなく、ただの更地になってました。

私は、夢を見てるのかなとか、目を疑いました。でも、バッグの中には、もらった契約書が入っていました。

首を傾げながら、その日は、そのまま何も考えずに、帰宅しました。

 その晩は、なかなか寝付けなかったので、明日になったら、ペットショップのオーナーや店長に相談してみようと思いました。


「おはようございます」

「おはよう、二葉ちゃん」

 いつものように、ペットショップに出勤すると、オーナーの御主人に挨拶して、

更衣室で着替えてエプロンを付けて、肩まで伸びた髪を一つにまとめて、ポニーテール風にして鏡を見て、自分のほっぺたを軽く両手で叩いて、自分に気合を入れて、お店に出ました。これが、私のルーティーンでした。

「アレ? なんか、元気ないけど、なんかあった?」

 勘のいい、店長の奥さんが声をかけてきました。

「わかります?」

「二葉ちゃんは、すぐに顔に出るから、誰でもわかるわよ」

 そんなに自分は、わかりやすいのかなと思っていると、オーナーの御主人が心配そうに言ってきました。

「どうしたの? なんか困ったことがあったら、何でも相談してよ」

「ありがとうございます」

「もしかして、新しい引っ越し先が、まだ、見つかってないとかじゃないの?」

 奥さんにズバリに言い当てられて、返事ができませんでした。

「だから言ったじゃないの。ウチに下宿しなさいって。ウチは、子供もいないし、部屋も空いてるから」

 それは、確かにうれしい話です。でも、そこまで、店長夫婦に世話になるわけにもいかない。親にも、一人でやっていくと言って家を出ただけに、人の世話になるわけにもいきません。私の意地というか、変なプライドなのかもしれないことは、わかっているけど、そこは、一線を引きたいと思っています。

ありがたい話だけど、それは、どうしても見つからなかった時に

お願いするつもりで、今は、断りました。

「二葉ちゃんも若いんだし、彼氏ができたときに、俺たちといたんじゃ、会いずらいだろ。どうしても、見つからなかったときは、ウチに来るといいよ。もし、何かあったら、キミの御両親に会わす顔がないからね」

 そう言ってくれるオーナーの御主人には、頭が上がりません。

それでも、昨日、一晩考えて、私は、そのアパートに入居することを決めていました。

おかしな人がいても、家賃と職場に近いというには、代えられませんでした。

もし、おかしな人がいても、自分が我慢すればいいと思いました。

「どうしてもってときには、お世話になります。それじゃ、仕事に戻ります」

 私は、そう言って、開店準備を始めました。

まずは、動物たちにエサをあげて、トイレの掃除です。

 いつかは売られていくペットたちでも、今は、私が飼い主になったつもりで、

それぞれに名前を付けて呼ぶようにしています。それは、私だけのヒミツでした。

「マメちゃん、おはよう。今日もよろしくね」

「ワンワン」

 私を見ると、シッポを振りながらジャレついてくるのは、豆柴の男の子です。

全身が茶色でとっても可愛い元気なワンコです。

「マルちゃん、ハイ、ご飯よ」

 次は、マルチーズの女の子です。この子は、クールで人間を見ても、寄ってきません。

それだけに、余りお客さんたちにも人気がなくて、なかなか買い手がつきません。

「ミーくん、チャーちゃん、おはよう」

 今度は、アメリカンショートヘアーの男の子とマンチカンの女の子の猫です。

猫好きならたまらない可愛さで、お店の人気者です。

 その後も、うさぎやハムスターにエサをあげたり、インコや文鳥の水を変えたり

熱帯魚や金魚たちもエサをあげます。

 店内を掃除して、ゴミを片付けて、看板を外に出して、開店準備も完了です。

商品の品出しをしたり、棚を掃除しながら並び替えたりして、お昼になると

トリマーの先輩社員のお姉さんが出勤します。

「おはよう、二葉ちゃん」

「おはようございます」

「今日もよろしくね」

「ハイ、こちらこそ」

 トリマーさんは、白衣に着替えると、本日の予定を見ながら、美容室に入っていきます。今日は、猫と犬のカットの予約が入っていました。

 お昼ごろになると、少しずつお客さんがエサなどを買いに来ます。

お客さんは、だいたいが常連の人ばかりで、顔と名前を覚えるのが大変でした。

 お昼の1時になると、お昼休みをもらって、昼食に行きます。

だいたいが近くの定食屋とかラーメン屋で済ませます。

最近は、日替わり定食がおいしい、定食屋さんが定番でした。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

 半年近く通ったおかげで、顔と名前を憶えてもらって、店員のおばちゃんに明るく迎えられます。

「カウンターにどうぞ。今日は何にする? 今日の日替わりは、煮魚定食よ」

「それじゃ、それでお願いします」

「ハイよ。二葉ちゃん、ちゃんとご飯食べてる?」

「えへへ・・・」

「ちゃんと食べなきゃダメよ。二葉ちゃんは、まだまだ若いんだからね」

 そう言って、おばちゃんは厨房に入っていきました。

一人暮らしをするようになってから、食事は、ほとんど自炊していません。

家にいたときは、母が作ってくれるので、料理は、まったくできません。

一人で暮らすようになって、料理を習っておけばよかったと、何度後悔したことか・・・

 なので、食事と言えば、コンビニ弁当か総菜パンとカップラーメンで、ウチでご飯すら炊いたことがありません。

ウチには、料理道具はもちろん、電化製品もなくて、質素な暮らしでした。

テレビもなく、持っているのは、パソコンだけで、家具やエアコンは元からアパートに合ったものでした。

 しばらくして、定食が運ばれてきました。温かいご飯。湯気が立ってるお味噌汁。

おいしい煮魚にお漬物など、まともな食事は、お昼ご飯だけなのが日常でした。

 そして、昼食を終えると、午後の仕事に戻ります。

私は、お店に来たお客さんの対応など接客をしながら、時間が空くと、サークルを作って、お店の犬を放して軽い運動をさせます。

 午後4時近くなると、交代の時間です。アルバイトの男の子と女の子が交代で入ってきます。今日は、男の子の番でした。

「二葉さん、お疲れ様。交代しますよ」

「お願いします」

 私より年下の男の子なんて、弟がいない私には、最初は、どう接していいかわからなかったけど、明るくて元気な人で、大学ではサッカーをしながら、将来は、弁護士を目指して勉強をしていました。

「二葉ちゃん、上がっていいよ」

「ハイ、それじゃ、失礼します」

 オーナーの御主人と店長の奥さんに言われて、私は、着替えに行きました。

「それじゃ、お先に失礼します」

「ハイ、お疲れ」

 みんなに挨拶して、私は、お店を後にしました。

これから私が向かうのは、昨日の不動産屋です。


 昨日、歩いたとおりの道を行くと、公園の向こうに不動産屋がありました。

「やっぱり、あるじゃない」

 昨日の夜に見たときは、なかったけど、アレは、私の見間違いだったんだと、

自分に納得いきました。

 そして、ガタガタするドアを開けて中に入ります。

「失礼します」

 中に声をかけると、昨日のおじさんが出てきました。

「いらっしゃい。あっ、昨日のお嬢さん」

「あの、ここに決めました。よろしくお願いします」 

 そう言って、バッグから、名前とハンコを押した契約書を出して見せました。

おじさんは、眼鏡をはずしながら、それを見ると、椅子を進めてくれました。

「あっそぅ、そりゃ、よかった。アンタ、運がいいよ。それじゃ、行こうか」

「えっ? どこに行くんですか?」

「決まってるでしょ。アパートだよ。場所がわからないと、行けないでしょ。下見だよ、下見。今、車を取ってくるから、ちょっと待ってて」

 そう言うと、おじさんは、眼鏡をはずすと、引き出しから車のカギを取って、お店を出て行きました。

私は、おじさんの後について、お店の外に出て待っていると、どこからか、ものすごい音が聞こえてきました。

すると、今にも壊れそうな車が私の前に止まりました。

「乗って」

 車の窓からおじさんが顔を出して言いました。

これに乗るの? ホントに走るの? ウチの実家で使っている車より、ボロくて壊れそうだ。おじさんには、失礼だけど、これに乗るのは、ものすごく勇気がいる。

「なにしてるの? 早く乗って」

 そう言われて、私は、助手席に乗りました。

その車は、昔懐かしの、今じゃテレビでしか見たことがない、ワーゲンとかいう昭和の車だ。私も実物は、初めて見た。ホントに動くのかしら? 

私の心配をよそに、車は、爆音を響かせて、走り出しました。

「あの、どこまで行くんですか?」

「えっ?」

「あの、どこまで、行くんですか?」

 騒音が大きくて、私の声も聞こえないのか、おじさんは、聞き返してきました。

「すぐだから。15分くらいで着くよ。それより、しゃべると舌噛むよ」

 確かにそうです。ものすごく揺れるので、舌を噛みそうです。

私は、必死に捕まって、歯を食いしばりました。

 走ること、数分。車は、無事に止まりました。私は、ホッとして息をついていると

おじさんがドアを開けてくれました。

「着いたよ。ここが、アパートだよ」

 まだ、体が微妙に揺れているような感じの私は、車を降りると、目の前に木造の洋館のような古そうな建物がありました。

「ここですか?」

「そうだよ。案内するから入って」

 まるで、昔のお屋敷という感じの建物で、外観はとてもアパートには見えませんでした。入り口の門扉の横には、アパートの名前が書いてありました。

「どれみふぁ荘?」

 私は、声に出して言いました。なんていう、ふざけた名前だ。それが、第一印象でした。

「こっち、こっち」

 おじさんが手招きするので、立ち尽くしている私は、急ぎ足で後について行きました。門扉からほんの数メートル歩くと、アパートの玄関があります。

 木製の扉でガラス窓にも、どれみふぁ荘と書かれています。

唖然としていると、私の足元に何かフワフワしたものが触りました。

ビックリして、下を見ると、そこに白い何かが動いていました。

「な、なに・・・」

「ワン」

「い、犬?」

 見ると、真っ白い大きな犬がハァハァと舌を出しながら、私を見上げていました。

大きなシッポが、ブンブン振っているのを見て、動物好きの血が騒ぎました。

「可愛い!」

 私は、思わずそう言うと、その場にしゃがんで大きな白い犬を触りました。

モフモフした触り心地は、とても気持ちがよく、犬好きにはたまりません。

「その犬は、ケンイチロウって言って、大家さんの相方ね」

「相方?」

 その言い方が、なんか引っ掛かりました。でも、今は、その犬の可愛さのが勝ちました。

「ケンイチロウくんていうの。よろしくね」

 私は、そう言って、頭を撫でると、なんとなく笑ったような気がしました。

「入って、入って」

 おじさんに言われて、後ろ髪を引かれながら、ケンイチロウという犬から離れました。

「ウワァン、ウッシッシッ・・・」

「えっ、今、笑った? 犬が、笑った?」

 私には、笑ったように聞こえたのです。いやいや、そんなはずはない。

犬が笑うわけがない。私は、思い直して、前を向いて、おじさんの後について行きました。 観音開きのドアを開けると、そこが玄関でした。

「ここが下駄箱ね」

 右側に下駄箱がありました。それぞれ、1から6までの数字が書いてあります。

「この2が、アンタのとこね。つまり、アンタは、2号室ってことだから」

 そう言うことか。私は、納得しました。

「今日は、下見だけだから、そこで靴を脱いで、部屋を確認して」

 そう言って、おじさんと同じように、靴を脱いで段差を上がりました。

中も木造で、いかにも昔のアパートという感じでした。

 中に上がって、右に行くと、すぐにドアに2と書いてあるドアがありました。

「ここね。それと、これが、鍵だから」

 そう言って、鍵を渡され、鍵を開けて中に入りました。

「うわぁ、広い」

 中は、六畳の畳敷きの和室でした。家具も何もないので、広く感じます。

私一人なら、十分の広さでした。畳のイグサのニオイがして、気持ちが落ち着きます。

「ここは、角部屋じゃないから、窓は、ここだけね」

 おじさんは、窓を開けました。そこから外を見ると、ちょっとした裏庭という感じがしました。

「ここから向こうに、中庭に続いているからね。どう、気にいった?」

「ハイ、気にいりました」

「そう、そりゃ、よかった」

「静かでいいですね」

「今の時間は、みんな仕事とか学校に行ってるから、留守なんだよ。今、大家さんを呼んでくるから」

 そう言って、おじさんは、一度部屋を出て行きました。

そして、少しすると、おじさんは大家さんを連れて戻ってきました。

「大家さんだよ」

「あの、初めまして。ここを紹介されて、今度、越してくることになった、春野二葉と申します。これから、よろしくお願いします」

 私は、そう言って、深く頭を下げました。

「やっぱり、来たな。だから、わしの言ったとおりになったじゃろ」

 私は、どっかで聞いたことがある声を思い出して、顔を上げると

そこにいたのは、あの時、公園で会った、おばあさんでした。

「えっ、あなたが、ここの大家さん・・・」

「そうじゃよ」

 私は、言葉を失っていると、大家さんは、おじさんと話を始めました。

「今回は、いい子を紹介してくれて、すまんな」

「イヤイヤ、大家さんには、世話になってるんだから、お互い様だよ」

 私は、軽いパニックになりながら立ち尽くしていると、おじさんが言いました。

「それで、いつ、引っ越してくるのかな?」

「あっ、その、えっと・・・」

 私は、すぐに返事ができなくて、必死で自分の予定を思い出しました。

「そうだ。明後日は、お休みなので、明後日、越してきます」

「だそうです。大丈夫ですか?」

「わしは、いつでも構わんよ」

「だそうだ。それで、引っ越しの荷物運びとか、よかったら手伝うよ」

 なんか、張本人の私ではなく、おじさんは、大家さんと話をしながら、私に聞いてきた。

「それは、大丈夫です。荷物は、ありませんから」

 もちろん、これは、嘘ではない。事実、荷物は、着替えとパソコンくらいで、ボストンバッグ一つしかないので私一人でも十分だ。

「それじゃ、今日は、これで、失礼します」

 おじさんは、大家さんに挨拶すると、部屋を出て行きました。

私も後を追うようにして、部屋を出ます。

「あの、これから、お世話になります。よろしくお願いします」

「ハイよ。それじゃ、またな」

 私は、大家さんにもう一度、丁寧に挨拶しました。

大きな白い犬の、確かケンイチロウと言った犬は、そばにある犬小屋に入って寝てました。

「それじゃ、アンタ、どうする? 店までなら送って行くよ」

 と、おじさんは言ってくれたけど、あの車には、二度と乗りたくないので、

最寄り駅までの道を教えてもらって、その場で別れました。

 私は、教えもらったとおりに駅まで歩くことにしました。

実際、駅までは、私の足なら5分程度でした。駅からも近くて便利です。

途中には、商店街みたいなところもあって、買い物にも便利そうです。

 駅前の大型ショッピングセンターやスーパーなどはなく、昔ながらのお肉屋さん、

八百屋さん、魚屋さん、雑貨屋さん、総菜屋さん、薬屋さんなど、小さな商店がたくさんあって夕方などは、とても賑やかで、雰囲気もよさそうでした。

 私は、駅まで歩きながら、心が弾んでいました。

これから、私は、ここで暮らすんだ。楽しくなりそうな予感しかしなかった。

街は、明るくて活気があって、何でもあるし、人もよさそうだ。

後は、どんな住人がいるのか? おじさんは、おかしな人たちと言ってたけど

どんな人なのか、この時は、想像もつきませんでした。

 そんな人たちと、仲良くできるか? これから一つ屋根の下で暮らす人たちだ。

仲良くなって、友達にもなりたい。早く明後日にならないかなと、ワクワクしながら

自然と頬が緩んでいる自分がいました。

 しかし、この時は、まさか、思いもよらないことに巻き込まれるとは、思いませんでした。


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