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紫陽花 雨希

第1話 雨を降らせる魔法

 温かい夜だった。雨上がりの、水のにおいのする穏やかな風が吹いていて、星も月も見えない空の下、濡れたままの街が白く光っていた。

 水たまりを踏んでぐっしょりと濡れた靴の感触を味わいながら、私はゆっくりと、うつむきがちに道の端を歩いていた。触れそうなほどすぐ傍を車が走り抜けるたびに、背中が少しだけぞわりとした。赤いテールランプが、ぼやけては揺れた。

 それは大学からの帰り道で、行き先はきちんと決まっていたはずだ、なぞる道筋も。なのに、不安だった。物陰から恐ろしい生き物が現れて、食べられてしまうような気がした。自分のものであるはずの足音が、やけに大きく耳慣れない音に聴こえた。

 角で曲がって、ふと顔を上げたとき、美しい姿が目に飛び込んで来た。女の子が、古く歪んだガードレールにもたれかかっていた。肩甲骨の下端辺りまである長い髪が、街灯に青く照らされて、人間のものではないようだった。

 思わずその場に立ちすくんだ私の方に、彼女はそっと首を傾けた。美しい切れ長の三白眼でこちらを見遣り、そして、高く透き通るような声で言った。

「こんな夜に出歩くなんて、あなたは魔法使いなのかしら?」


 単身用の、そう広くないマンションの部屋に住んでいる私は、最近、とんでもないお荷物を抱えることになってしまった。ゆっくり寛げないし、片付けもできないし、ホントに困っている。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 アルバイトから帰って来た日曜日の午後。お荷物……いや、水色の髪の少女は、いつもどおりに部屋の真ん中に寝転がってテレビゲームをしていた。ゲームは私のものではなく、彼女が持参したものだ。可愛い女の子やマッチョな男が殴り合っている画面をちらりと見て、私は溜息をついた。

「美羽(みはね)ちゃん、ちょっとは外に出た方が良いんじゃないかな? 目も悪くなるし」

「大丈夫、さっきまでお買い物に行ってたから」

 美羽ちゃんは、私の顔を見上げてニヤリと笑った。


 ある夜、郊外の狭い道路で偶然出会った彼女は、一目で私を「魔法使い」であると見破った。そして、ばらされたくなければ部屋に泊めてくれと要求して来たのだ。別に、魔法使いだと言いふらされようが困らないのだけれど、彼女が可愛かったから、深く考えずに連れ帰って来た。……まさか、二か月も居座られるとは思わなかった。

 初めて彼女を見たとき、青色の街灯に照らされているから髪が青く見えるのだと思った。本当に水色に染めていると知ったときは、驚いた。名前は鈴木美羽、十六歳の高校生らしい。「不良なの?」と訊くと、美羽ちゃんはニヤリと笑うだけだった。


 立ててあったちゃぶ台をセッティングし、その上にコンビニの袋をのせる。中に入っているのは、唐揚げ弁当が二つ。

「はい、四百円」

 私に小銭をわたして、美羽ちゃんは弁当の蓋を開けた。好き嫌いがないらしく、彼女は何でもおいしそうに食べる。自分で買い物に行けるのに、私が買って来たものを食べるのは、「二人で一緒に食べるのが好きだから」だそうだ。


「なーんか、今日のユウキはいつもより機嫌が良いね」

 腕を胸の前で組み、美羽ちゃんはこちらを上目遣いで見た。とても楽しそうな顔をしている。

「まあね。魔法使いを見つけたの」

 私もきっと、楽しくてたまらない、というような顔をしているのだろう。

「今夜、行くよ」


 街をゆく車もほとんどない、深夜三時。私と美羽ちゃんは、とある一軒家に向かった。玄関のインターホンを鳴らすと、しばらくして若い男がドアを開けてくれた。

「こんばんは。夜に住む私たちが、いつか光を生み出せるようになるために……」

「早く入れよ」

 お決まりの口上を遮って、男は私たちを招き入れた。美羽ちゃんが、「つまんない男ね」と、私に耳打ちする。


 低いテーブルの置かれた、畳の間に通される。客室らしい。壁の屏風には、何だかよく分からない豪奢な鳥が描かれている。オレンジ色の電灯が、柔らかい。

「こーんな広い家なのに、一人で住んでるの?」

 座布団にぽすんと正座した美羽ちゃんが、ニヤニヤしながらからかうように両手を広げてみせる。

「両親と妹が行方不明なんだ。一年前、海外旅行中に連絡がつかなくなった」

 男は眉間に皺を寄せ、固い表情で私を見る。黒い瞳に籠っているのは、怒りなのか悲しみなのか。

「ノワールマブのせいだ、恐らく」

 魔法使いの素養がある人間……それはつまり、現役の魔法使いの血縁者であることが多いのだけれど……を、誘拐し続けている奴らは、自分たちのことを「ノワールマブ」と呼ぶ。何を目的としているのか、どの程度の規模の集団なのか、実態はほぼ不明。私たち魔法使いの敵であることは間違いない。

「お前は、『夢を本当にする魔法』を持っているんだったな」

「そうです。あなたは、『雨を降らせる魔法』を持っているんですね」

 私たちはうなずき合い、それぞれ両手にはめていた手袋を外した。ぱあっと、白い光広がった。私たちの手の甲の中心には、小さな宝石がはまり込んでいる。右手は一色……私は青、彼はピンク……で、左手は、様々な色がモザイク状になっている。

 机から身を乗り出して、二人の両手を合わせる。彼の手は冷たくて、固かった。

 ぼそぼそと、意味の分からない呪文を彼が呟く。光が、どんどん大きく強くなってゆく。手を突き破られるような痛み! 思わず目をぎゅっと瞑る。視界が、真っ白に染まる。

「あっ!」

 次の瞬間、部屋は元のオレンジ色に戻り、私たちの左手の甲には、新しい色が増えた。

 男はあまり慣れていないらしく、苦しそうに肩を上下させている。

「ありがとうございました」

 私が言うと、彼は少しだけ頬を緩めた。


「魔法を使ったら、お腹すくでしょ? これ、食べよー」

 コンビニの袋から、美羽ちゃんが、チョコレートの大袋を出す。

「おにーさん、お茶、用意してよー」

「あっ、すまない。忘れていた」

 彼が淹れてくれたのは、温かいほうじ茶だった。美羽ちゃんは猫舌らしく、ふうふう息を吹きかけている。丸い茶碗を両手で包んで、私は、魔法を交換した人すべてに訊いている質問を口に出した。

「魔法使いになったことを、後悔していないんですか?」


 自分の部屋に帰り、ベランダで煙草を吸っていると、美羽ちゃんが隣にやって来た。

「さっきの人の魔法の光、とても綺麗だったわね」

「そうだね、私も好き」

 それだけじゃなくて、彼は本当に良い人だと思った。だから、とても悲しかった。

「私が、後悔していないのかと訊いたら、あの人、家族を守ることだけが俺の全てだ、って言ってたね」

「そうね」

「色々思うこと、良くない感情もあるけれど、やっぱり私は――」

 苦い煙を吸って、吐いた。

「ねえ、美羽ちゃん。あの人の魔法は、あの人は、本当に優しいね」

 私の震える声を訝しんだのか、こちらを見上げた美羽ちゃんは、びっくりしたような顔をした。

「あなたの涙を見るの、初めてだわ」


「家族を守るために、魔法使いになったんだ」

 彼は、そう言った。

「小学生のころ、妹はいじめられっ子だった。俺は喧嘩も強くなかったし頭も悪かったから、どうすれば妹を助けられるのか分からなかった。偶然、自分に魔法使いの素養があることを知って、近所に住んでいた老人に弟子入りしたんだ。子どもながらに、上手く使ったよ。妹の遠足の日に雨を降らせたり、いじめた奴を水たまりに落としたり。中学に入ってからは、いじめもなくなって、穏やかに過ごせていたのに。まさか、あんなことには……」

 苦しそうに俯いて、それからまた顔を上げて、彼は歪んだ笑みを浮かべた。

「この魔法の一番の使い道は、泣きたいときに涙を流すことだ」


 美羽ちゃんはベッドで、私はフローリングの床の上に直接、布団を敷いて眠る。出掛ける予定のない日も、私たちが横になるのはかなり遅い時刻だ。美羽ちゃんは深夜に放送するアニメをリアルタイムで見て感想をSNSに投稿してから寝たいらしい。そして、私は勉強をしている。もちろん、大学の宿題なんかではなく、魔法についての勉強である。


 魔法使いの素養のある者が特殊な訓練をして、「その人が生まれ持った、ただ一つの魔法」を見つけ出し、行使し始めると、右手の甲に少しずつ宝石が結晶し始める。それは、その人の「魔力分泌細胞」が産生した物質である。私たち魔法使いは、それを他人と交換することで、自分が生まれ持ったもの以外の魔法も使えるようになる。私が今までに他者からいただいたのは、五つ。左手の甲で、輝いている。左手の甲の、他人の魔法は、宝石がなくなると使えなくなるので、大切にしなければならない。

 昔読んだバトル漫画で、「魔法使い同士はひかれ合う」みたいな台詞があったけれど、そんなことはない。多くの魔法使いは街ではずっと手袋をはめているから、それでなんとなく察するだけだ。昔は、魔法を交換する行為はとても神聖なことだったらしくて、何時にしなくちゃならないとか、前口上が決まっていたりした。私はそれをなんとなく守っているけれど、「雨を降らせる魔法」の男みたいに、そういうことを気にしない若者も多い。


 午前四時ごろ。美羽がテレビを消してベッドに入ったので、私も寝ようと思った。けれど、どうにも目が冴えてしまって眠れない。寝転んだまま、窓から外を眺める。ふと思い立って右手を月の光に向けてみた。月の白い光が、青く染められて布団におちる。私は、自分の魔法を「夢を本当にする魔法」だと周りに言っているけれど、本当はどういう魔法なのかよく分かっていない。たまに、夢に見たことと全く同じことが昼間起こるという事実があるだけなので、もしかしたら予知夢を見る魔法なのかもしれないとも思う。今まで魔法を交換して来た人たちとは連絡を取り合っていないから、彼らがどのように使っているのか(使えたのか)を知ることはできない。一応、全員、生きているようだけれど。


 無意識のうちに、泣くために使ってしまったせいで、男からもらったピンク色の石は心なしか小さくなったように見える。この分だと、小さな街に一時間、雨を降らせ続けるぐらいのことしかできないだろう。用心しなければ。


 魔法使いは、滅多に魔法を使わない。だから、普段の私たちは、「手袋をつけている普通の人」である。


 私は、甘ったるい飲み物が好きだ。イチゴ・オレとか、ミルクティーとか。大学構内のラウンジで、紙パックのカフェオレを飲みながらぼんやりしていると、目の前を見覚えのある男が通った。

「あっ」

 向こうも気付いたようで、私に笑顔を向ける。「雨を降らせる魔法」の男だった。


「ここの学生だったのか」

「私も、びっくりしました」

 彼は、私の向かいにある丸椅子に座った。

「そう言えば、名前も知らないんだな、俺たち」

「魔法使い同士の関係なんて、そんなものでしょう。でも、今は同じ大学の学生同士なので……。私は、生命科学科の二回生の結城です」

「俺は、建築学科の三回生。山根、って呼んでくれ」


 山根先輩は、家族が行方不明になってから、バイト代と奨学金でなんとかやりくりしているのだ、と言った。

「大変なんですね……。私なんか、親から仕送りしてもらってるくせに、出席日数が足りなくて単位をいくつも落としました。趣味に走ってしまって……」

「そういう奴、珍しくないよ。俺の友だちも、何人か留年してる。お前はまだ、学校に来てるだけマシなんじゃないか」

「だったら良いんですが」


 あの夜に出逢ったときの印象と、大学で見る印象は全然違った。バイタリティのある、真面目そうな大学生。暗い影も、悲しみの気配も滲ませず、明るく振る舞っている。「恵の雨」がぴったりだ、と思った。


「ねえ、美羽ちゃん。私の通っている大学って、何人ぐらい魔法使いがいるの?」

 自室の、台所。カップ麺のためのお湯が沸くのを立ったまま待ちながら、訊いてみる。ちゃぶ台に頬杖をついてバラエティ番組を見ている彼女は、テレビ画面から目を離さずに言った。

「教えるから、今日の夕飯、奢ってね」

「カップ麺ぐらい、良いよ」

「親のお金で食べてるくせに、生意気よねー。まー、いーや。教えてあげましょう。二十人よ、学生に教員ほか、日常的に出入りしている全員を含めてね。素養があるだけの人間は、その何倍もいるけれど」

 湯沸かし器が、ぴー、と鳴った。蓋を開けておいたカップ麺にお湯を注ぎ、お箸を重りにして蓋を再び閉め、タイマーをセットする。

「やっぱり、美羽ちゃんは魔法使いなんじゃないの?」

 彼女は、黙って右手の甲を私に向けた。

「だったら、悪魔とか宇宙人とか、天使とか……」

「何よ、それー」

 美羽ちゃんはわざとらしく頬を膨らませたけれど、目は笑っていた。その中には、正解がないらしかった。

 手袋をはめている人を、半ばストーカーのように観察して、「多分、魔法使いだろうな」と思えたら、私たちの間だけで通じるジェスチャーを送ってみる。そんな地道でリスキーなことを繰り返すのは、正直、嫌だ。

「美羽ちゃん、誰が魔法使いなのか、教えてよ」

「高くつくわよ。あなたには、きっと払えないでしょうね」

「ぶー」

「あなた、ブタ?」

「ブーイングだよ」

「下品ね」

 タイマーが鳴った。鍋掴みを付けて、カップ麺を二つ一気に運ぶ。

 美羽ちゃんは、特に珍しい味付けでもない王道のカップ麺でさえ、とても美味しそうに食べる。その表情を見ながら、自分はいつまでこの子と同居するつもりなのだろう、とぼんやりと思った。


 バラエティ番組が終わり、ニュースが始まった。トップニュースは、隣の街で大洪水が起こったというものだった。ゲリラ豪雨、原因不明の異常気象。少なくない数の死者や行方不明者が出た、と伝えられていた。

『このゲリラ豪雨は人為的なものであると考えられており、数人の魔法使いが事情聴取をうけています』

アナウンサーの言葉に、私は耳を疑う。

「もしかして、山根先輩、捕まったんじゃ……」

 そんな大量の雨を降らすことのできる魔法を持っている人は、多くないはずだ。

「そうかもしれないわね。案外、本当に犯人なのかもよ」

「山根先輩は、そんなことしないと思う」

 美羽ちゃんは、肩をすくめて、麺をすすった。

 番組のコメンテーターが、神妙な顔で、

『魔法使いに関する法律はまだきちんと整っていないんですよねー。何しろ、魔法には再現性がありませんから。その魔法使いの犯行だと、誰にも証明できないのです』

と言った。私は心の中で、「当たり前でしょ」と呟いた。魔法の交換が行われていることは、一部の魔法使い以外は知らないのだから。


「ユウキ、あの男に惚れたの?」

「違うよ。ただ、良い人だな、って思ってるだけ」

「ふうん。それにしては、泣いたり怒ったり、騒がしいわね」

 美羽ちゃんは、私にじっとりとした目を向けて、口元だけはニヤリと笑っている。

「そもそも、別に私が山根先輩を好きになっても、何の問題もないよね」

「まーねー」

 口ではそう言いながらも、彼女の変な目つきは変わらない。

 この子は一体、私にどうして欲しいのだろうか。ホントに、困る。


 雨の降る中を、ずっと歩いてゆく。前髪から目にしたたり落ちる雫で、前が見えなくて、それでも歩き続けてゆく。

 家を目指していた。そのはずだった。けれど、どうやってもたどり着けないような気がする。

僕は、悪くない。妹を階段で突き落としたあいつが悪いんだ。もしあいつが命を落としてしまったって、それは自業自得なんだ。だから、僕は――

――もう、妹の前では笑えない。


 ここ一週間、ずっと雨だ。梅雨の季節でもないのに。桜は散ってしまうし、バイク通学の私には不便極まりない。乾かす間もなく裏までベショベショになってしまったレインコートを、日曜日にやっと風呂場に干すことができた。

「今日は、どこにも行かないからね! 美羽ちゃん、三食カップ麺だけど、良い?」

「ダメ、って言ってもそうするんでしょ。呆れた。わざわざ言わなくても――」

 美羽ちゃんは、ブツブツ言いながら、ゲーム機の用意を始める。私は窓の下に座り込んで、文庫本を開いた。けれど、集中できない。脳裏に、山根先輩の顔が何度も浮かんで来る。どうしているのだろう、彼は。

「ああっ、もう」

 本を放り出し、ショートヘアの頭を掻きむしる。そんな私を、美羽ちゃんはまた、じっとりと見るのだった。

「この雨、あの男が降らせてるんじゃないか、って思ってるんでしょ」

「そうだよ、その通り」

「その上、この前の洪水を起こしたゲリラ豪雨も、あの男のせいだと思ってるのよね」

「……それは、ない……と思いたい」

 美羽ちゃんは、大きくため息を吐いた。

「そんなに気になるのなら、あの男の家に行ってみなさいよ」

「ううっ」

 自分がそうしたいことは、気付いていた。でも、できなかった。怖いのかもしれない。不安なのかもしれない。自分でもわけが分からなくて、もやもやして、居ても立っても居られないのに、躊躇ってしまう。

「ふぅん、ユウキの意気地なし」

 彼女はそう言って、テレビの方にくるりと顔を戻した。


 久しぶりに傘を差して街に出た。ずいぶん前、コンビニで買ったビニール傘だ。私はこれしか持っていない。意外に丈夫で、長持ちしている。

 山根先輩の家に来るのは、魔法を交換した夜以来で。あの日と何も変わっていなかった。静かで、広すぎて、寂しげだった。

 私を客間にとおしてくれた先輩は、やっぱりお茶を出すことはなく、正座する私の向かいであぐらをかいた。

 予想していたよりも、先輩は明るく見えた。「警察に捕まったんじゃないか、って心配していたんだろ」と、軽い口調で自分から話を切り出すほどに。

「そうです。一週間、降り続いている雨も……」

「そんなこと、するわけがないだろ。何の得にもならないし」

「ですよね……」

 山根先輩は苦笑し、革製のグローブに包まれた右手を、そっとなでた。

「お前の前にも、魔法を交換した奴がいるんだ。なんだか怪しい雰囲気だったし、あいつなんじゃないかと思う」

「そうですか……」

 なぜだか、素直に納得できなかった。笑っている先輩の顔をじっとながめて、そして、気付いてしまった。自分の心のわだかまりの正体に。

「あの、先輩。前に、仰ってましたよね、いじめを止めるために魔法を使ったって。すごいなぁ、と思って、先輩はすごく良い人なんだなぁ、と思って。それなのに、なぜかもやもやして。ずっと考えていて、気付いてしまったんです。先輩は、脅威から家族を守るためだけじゃなくて、相手に危害を加えるために、魔法を使って来たんだ、って。今も、ノワールマブに対して、そういう気持ちを持っているんだ、って」

「何が言いたい」

 彼の声は、低く固かった。私は彼の顔を見ることができなくて、俯いた。

「先輩は優しくて、悲しいです。この雨が、あなたのせいじゃなくて、本当に良かった」

 目頭が熱くなって、何かが頬を流れた。あぁ、私、また彼の魔法を使ってしまった。

「……そんな顔をさせるのは、何回目だろう」

「えっ」

 思わず顔を上げる。先輩は、苦しそうに顔を歪めていた。

「妹も、そうだった。あいつは優しくて、俺があいつのために何かするたびに、泣いていた」

 はっ、と息を呑む音がした。

「それでも俺は……何としてでも、家族を取り戻すんだ」


「失恋ね」

 マンションのベランダで煙草を吸っていると、美羽ちゃんが話しかけて来た。私たちは並んで街を見下ろす。久しぶりの、晴れた空。乾いた街。

「失恋、って……そもそも、恋もしてないんですが」

「えー、あれはどう見ても、恋する女の目だったのになー」

 私は、煙草を灰皿で潰した。

「山根先輩のことなら、別に、嫌いになんてなってないよ。ただ、悲しい人だなあ、って思うだけ」

「ふぅん。まあ、ユウキには似合わない人よね。彼が無実だって、信じきれなかったんでしょ」

「うぅっ」

 心の弱い所を突かれて、情けない声を出す。

「安心しなさい、あの男は犯人じゃないわ。もっとも、そちらの方がまだ良かったのかもしれないわね」

「えっ?」

 美羽ちゃんは、意味深に笑った。

「泣けない魔法使いが、涙を流す魔法を手に入れたのよ。もう、あなたは無敵ね」

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