第3話 路上のメフィスト

 荻窪の天沼あたりの公園でよく仕事をサボって居眠りをしたものだ。私は相変わらず営業の仕事で外を歩きまわり、荻窪や阿佐ヶ谷、高円寺を徘徊している。


 あれは20年ほど昔の話だ。この公園をねじろにしている浮浪者がいた。彼は決まってメタセコイヤの木の下に寝転がって、本を読んでいた。ところがたまたま入ったラーメン屋のテレビに彼が映っていた。


『へえ、俳優なんだ。変わり者なんだな』

知り合いの店で聞いて見れば、脇役の俳優で昔からテレビに出ていると言う。


 そうなれば、公園では自然と彼を目で追っていた。公園に人の気配がなくなると、彼はダンスを披露してくれた。観客は私ひとり、なんて贅沢なんだ。彼が舞台と見立てている砂山の下でポーズをとれば、両手を上に広げて、風をかき回し、花びらを舞わせ、軽やかにジャンプする。


 ある日は黒のタキシード姿だった。フォーマルプリムに少しばかり角度をつけた姿は海外の一流俳優にも勝るカッコ良さだ。


 演目はファウストだった。スケッチブックに手書きで一幕と書かれていた。

彼はおそらくメフィストという悪魔に扮している。ありがたい偶然というか、無類の本好きが功を奏したのか、本で読んだ記憶がある。


 悪魔メフィストフェレスが現れ、欲しいのは金か名誉かと聞く。学問の無意味さを嘆いたファウストが毒を飲むシーンだ。メフィストはファウストに、失った青春の快楽の代償に死後の魂を渡すように迫る。


 取り巻く空気が重くなり、心臓が跳ね出しそうになる。空は晴れていたんじゃなかろか。華やかな祭りのシーンで悪魔だとバレて退散するこのシーン、舞台が手に取るように見える。私はメフィストの魔法に取り込まれた。


『金の子牛のロンド』を歌う場面で二幕に入ったことを知った。ふいに彼が舞台からおりて私に近づいてきた。私はすでに魂を抜かれたような状態になっていて、近づく姿を見ていた。こぶしほどもあるにぎり飯が差し出され、並んで昼食を食べた。


 しばらくすると、彼は素早い動作で舞台に駆け上がる。

雷鳴が轟き、メフィストは雨に打たれ、メフィストとマルグリートの闘いのシーンだ。鋭い閃光が走り、メタセコイヤの木に落雷した。


 彼は被っていた帽子を差出した。私財布の全財産、2万円をその中に入れた。それだけしか持ち合わせがないことが残念だった。雨だろうか、泣いているのかわからなかった。帽子を持つ手が震えていた。


 翌日電車の釣り広告でファウストの舞台告知がされていた。彼の通し稽古だったのだろうか。配役に彼の名前はなかった。


 あの日を最後に公園で彼を見かけなくなった。


 母親の葬儀で田舎に帰ったと聞かされた。それから10年ほど過ぎた頃に、テレビの時代劇でその姿を見た。すっかり年老いていた。公園の街の噂では、彼は新宿の地下道に寝泊まりしていると聞いた。


 私にはメフィスト姿しか浮かばない。新宿の地下道にメフィストが寝ていたら、それだけで映画になりそうだ。

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