一
南部晴政は津軽為信にとってまさに憧れであり、忠義を尽くしたいと心から思える人物だった。
元服前にお福に出会わなければ彼とその息子である晴継のために忠誠を誓っていただろう。
それだけ心を揺れ動かされた。
戦に優れ、慈悲深く、時に応じて苛烈な行動も辞さない。正に時を見ることに優れた主だった。
いくつにも別れている南部氏を一応の頭目である三戸南部の主としてまとめ上げ、名家である安東家にさえも影響力を及ぼすほどだった。
何よりも晴政は為信を信用して石川家の勢力拡大の牽制役を密命してもらい、自身の野心を知ってか知らずか分からないが、見定める時も任せてくれた。
一方の為信も晴政に忠義を示し、つながりを深めるために有力家臣である石川家に妹を側室として送ったことがある。
だが、東北の大名にとって縁戚関係などあって無いようなもの。
晴政の養子となった信直は石川家出身のため、先程の婚姻関係が形骸化してしまった。
そのため、晴継が家督を継ぐことになった時もお福との計画を先延ばしにして彼がどのような人物なのか見極めようとした。
だが、晴継は早くに死んでしまい、信直が結果として当主になる。そして、実家である石川家の勢力が増すことは他の南部支族にとって面白いものではなかった。
その内紛に付け込み、為信は石川家を駆逐して勢力を拡大し、後醍醐天皇の時から奥州に影響力を持ち続けた浪岡北畠氏を攻略した。
当然ながら、名門とされる浪岡北畠氏の滅亡した後の反動はかなり大きかった。
安東がまず動き、大浦に対して抗議の書状を寄越してきた。
浪岡の正室が安東の出であり、親族の仇と銘打って領土を拡大するのはよくあること。
しかし、東北は昔から縁戚関係が複雑になっている。たとえ永続的でも一時的でも一度和睦が成り立てば女性を送るという形を取っていた。
東北ではこれまでの間、どこかの勢力が台頭するようなことがなかった。元々勢力が大きかった伊達や蘆名、最上以外は彼らのご機嫌を伺うしか出来なかった。
また大名たちも勢力拡大のために小勢力を滅ぼすのではなく、併合していかなければ抵抗に遭い、一度弱味を暴けば泥の壁のようにすぐに崩れてしまった。
それを壊したのが伊達政宗だった。彼は徹底的に敵勢力を滅ぼそうと動いている。ある時は投降した城内の者を将兵だけでなく、女子供も殺した。そして降伏の条件を徹底的に変えずに勢力を削いだ。これまでなら妥協されていたことを全て否定し、音に聞く中央のやり方を実践した。
その影響で父を死なせる運命を辿ったが、為信たちにとって好都合だった。
浪岡に対して戦をけしかけて、滅亡に追い込めた。怨恨は互いに残ったが、浪岡が再び対抗できる力を戻せなくなった。
その行いが当事者だけの間で広まり、伊達のような様々な大勢力を巻き込んでの大事にならなかった。
だが、大浦自体もまだ小勢力の一つでしかない。彼らを押し返して大浦の勢力を確固たるものにしなければならない。
劣勢とはいえ為信の心は踊っていた。ここで勝ち抜くことが出来れば日ノ本まではいかずとも、関東や北陸辺りならば名を知らしめることも出来るだろう。乱世では実力ある者がのし上がれる。しかし、大いなる飛躍を遂げるにはそれなりの名声と箔がいる。
天下人になれるのは世の中でただ一人だけであり、それは実力と共に運もある者だけが選ばれる。その点で為信は天から見放された。選ばれた者がこんな陸奥の最北端で生を受けるはずがない。しかも周りの家とは縁戚関係があるため、うわべだけは良い顔をしなければならなかった。
群雄割拠とは名ばかりの牽制し合うつまらない間柄。そんな腐ったものと別れるために実力を磨き、身を堕としてでも野望を叶えるために動いてきた。
そしていよいよ叶えるべき時が来た。伊達に遅れてはならぬと南部の家中に揺さぶりをかけ、隙を突いて挙兵出来る状態を作った。南部に従うふりをして得た石川城は南部晴政の叔父、石川高信の居城だった。
自害した彼の表情はあの世から為信を祟ってやると言わんばかりだったと聞いた時、これ以上に無いほどの昂りを覚えた。それから様々な豪族を討ってきたが、大家である石川を落とした時ほどのそれを得ることは無かった。
しかし今、その時のことなど記憶の中から消し去りそうになるほどの興奮を覚えていた。四面楚歌の状態を乗り切った英雄として、安東や南部といった名家を倒したという名声を得ることが出来る。
為信は地図を前にどうするか考えている。もし抑えるとしたら南部が先か安東が先か。
とりあえず、未だに南部とは表向きまだ主従関係がある。石川への急襲は元より南部が主の叔父という立場を利用して家中で権力を拡大させていたため、晴政も危険視していた。とはいえ何ら関係の無い家臣も去年倒しているため、既に険悪な関係になっていることに変わりはない。
現に為信の下には何度も詰問の使者がやってきており、時には南部の家臣が討伐軍の差し向けてきている。これまで晴政自ら来ていないのは数年前から続いている後継者問題を解決しなければならないからだろう。もしくは大浦との争いで共に潰れてこれまで自身で築いてきた南部の最盛期を潰すような真似をしたくないだけかもしれない。いずれにせよ、南部は理由を付けて精鋭を出兵させることは無いかもしれない。
「とにもかくにも、さっさと安東らを返り討ちにさせるべきね」
心躍る為信とは対照的にお福は苛々が募っているのか扇子を開いたり閉じたりを繰り返している。
安東という家は鎌倉時代から東北地方を治める名門である。戦乱の世では下剋上が当たり前とはいえ箔は侮れるものではない。足利義昭が織田信長を滅ぼすために包囲網を作らんとしていたように。
「既に防ぐための策は考えているのでしょうね」
「無論だ」
「どうするの? 安東は本気よ」
安東にとって浪岡は古来から縁のある家同士。
さらに安東の当主である愛季は上杉や織田と対等の誼を結べるほどの勇将として知られている。とはいえ東北の家はどこでも問題を抱えている。安東は所有している水運の問題を巡って分家と揉め事を起こしている。幸いなことに津軽では目立った問題は無い。
「先に動く他あるまい」
「それは駄目」
「何故」
「簡単に動いたりしたらまるで私たちが悪いようになってしまうわ」
「……分かった。草を呼んでおく」
「それも駄目」
分かっていないとお福は溜め息を吐く。為信の背筋に何か走った。そして嫌な予感はすぐに当たった。お福の持っていた扇子の先が頭をかすめた。
怒りを寸でのところで抑えたといったところか。扇子を振り出した時の目は加虐心を剥き出しにしていた。もし彼女の心が変わらないままであったら今頃為信はのたうち回っていただろう。
「敵はこちらが先に動かなければならないことぐらい分かっている。わざわざ行儀良くこちらから本当に動く意味なんてない」
「ならば、如何にして対処しろと」
「安東の主、愛季は即断で動くと聞いたことがある。おそらくそのための足がかりを掴もうとしているはずよ」
為信は納得したと頷く。お福の冷たい目から逃れるのも兼ねて。
「こちらが動くと見て、網を張っているか」
お福は静かに頷く。扇子を持っていた腕がだらりと下がった。安堵の吐息を心でつく。いつになくお福の感情の起伏が激しい。自身が下した判断で動いたにもかかわらず、上手くいかなかったのが原因だろう。
為信は口の中に唇に入れて噛んだ。こういう時のお福は一番対処に困る。話し掛けようものなら「黙りなさい」と冷徹な目を向けられ、逆に言葉を待てば「何かあるなら言いなさい」と怒りで見開かれた目を向けられる。
一瞬の間で為信は十数の対処とその先に起こる事象を想定した。黙るにしても言葉を発するにしても様々な態度を示す。それによって癪に障れば何かしらの仕置きを受ける。上手くいけば何もされずに不遜な態度を取られるだけだ。
天秤がどちらに落ちるか分からない。しかし、助言を請える者がいない以上、選択は為信次第だ。
「城外各所の見回りを多くしよう。少しでも怪しい動きがあれば……」
「躊躇わず吐かせなさい。ただし、慎重にね」
意を決して口を開いた。尋ねるような素振りを為信は見せなかったが、我慢ならないと口を挟んできた。だいぶ苛々しているのか指を床に叩いている。
為信は静かに部屋を辞した。これ以上関わると自身の身に恐ろしいことが起こる。気が済むまで容赦なく扇子で叩きのめされて翌日に誤魔化すのが面倒になるならまだ良い。墨を投げ付けられたり虫を踏み付けられるように顔をやられることなど人のような扱いを受けられない時もある。
それのおかげでお福の機嫌が少し晴れる時もある。しかし、今回の彼女はそれで収まることの無い怒りを抱いている。それでも為信の他には決してそのような素振りを見せないのは嬉しいことでもある。
自身にだけ晒してくれる本当の姿を見せてくれる。為信以外の者が知らないという事実に込み上げてくるものがある。それはある種の優越感に浸れる一方で大きな代償を伴う恐れもある非常に危険なものだ。それでも為信にとって自らが選んだ道であり、野望を果たすために必要なことである。そう割り切れば苦など無い。むしろ悦びを得られる。
為信は髭面が緩めようとしたが、すぐに堪えようと頬に力を入れた。角から人影が視線に入ってきたからだ。角から距離を取って影の方を向く。右手をいつでも刀に添えられるようにしていたが、影の正体を見てすぐに脱力した。
「殿」
「十郎左(森岡信元)か」
普段、要領の良い彼が執務で城に泊まることは滅多に無い。それだけ忙しくなっている理由は為信もお福と共に城に残っている理由とも同じだ。
「遅くまですまぬな。家族もいるというのに」
「いえ、それは殿も同じこと。某の働きなど殿の苦心を思えば軽うございます」
「何を言う。お主のおかげでこれまでも大浦を大きくしてきたのだ」
「痛み入り申す。されど、夜は冷えます。お休みになられては」
「案ずるな。今から寝るつもりであった」
安心したと森岡は微笑む。味方になった者には表裏無く接する彼の性分は主である為信自身も心を穏やかにさせてくれる。他人には真似できない特有のものと言うべきだろうか。羨ましいと為信は思ってしまう。しかし、それで嫉妬心を抱くことはない。
一度生を受けて持っている才能はあらかじめ天が決めている。努力して得ることも出来れば出来ないものもある。自ずと人が集まるような容貌と性格をしている森岡のそれも天より授けられたのだ。
一方で為信にそのような才能は無い。風貌は上に立つべき男が見れば羨むような威圧感のあるものだ。だが、根元がどこにあるのか分からないぐらいに生えている髭やお世辞にも綺麗とは言えない肌質はとても万人受けするものではない。
だから努力することで得た愛嬌を感じられる言動は家臣の心を掴んだ。森岡もその一人であり、身を削って働いてくれている。
「時に十郎左、何か動きは?」
「今のところは何も……されど、いずれ分かることかと」
「後手に回るべきと申すか」
「あくまでも表では」
裏では先手を打っておくべきだと言うことか。先程のお福との会話が脳裏に浮かぶ。たしかにこの状況下で不利を有利に変えるには巧遅よりも拙速が良い。そして誰もが考えるということは相手もそうくると思っている。
「安東がこの機を逃すはずがない。いつでも兵を起こせるよう支度しておくのだ。されど、隠密にな」
「御意。それから、城下の民に無闇に夜に外に出ぬよう知らせておくべきかと」
「いや、そこまでせずとも良い。民たちには普段通りに過ごしてもらう」
暗い中でも森岡の顔のしわが動いたのがよく分かる。
「殿、安東は既に我らが城下に草を放っているはず。怪しき者は直ちに追って捕らえるべきかと」
夜に外出を控えるよう民たちに言えば何か起きたと察して巻き込まれたくない者は皆、動かなくなる。動くのは巻き込まれたい阿呆か、どうしても動かなければならない者だ。だからこそ森岡の言わんとしていることは分かる。しかし、為信もお福の言を聞いて納得してしまった。
「いや、今は捨ておけ」
「こちらのことが筒抜けになりまするぞ」
森岡の表情が険しくなる。相手にとって最も欲しいのは情報であり、それが多ければ多いほどありがたいものは無い。
「構わぬ。変わらずに過ごせい」
「何故に。このままでは安東らの思うがままになり申す」
「故に何かあると敵は探ることが増えよう」
「よもや、敵に余裕を見せ、警戒させると」
「左様」
「それほどまでの余裕が我らにあるので」
「うむ」
一瞬、答えに窮しそうになった。
「如何にして」
「あくまでも見せつけよ」
「策が無ければ意味など無いかと」
「構わぬ。かような状況下では、一つ一つの動きが賭けよ。先の戦の如くな」
森岡は苦笑を浮かべている。浪岡城を落とした戦術は正に外道と言われてもおかしくないものだった。故に反対する者も多かったが、それ以上に浪岡が落ちたことが周囲の勢力には衝撃だったようで、あまり取り上げられずに済んだ。
「この状況下で安東が負けると思うている者は我らの他にはいるまい」
「されど、安東が主である愛季は勇将にございます。浪岡を落とした我らのことを如何に思うか」
「故によ。手強いと思いし者がすべきことをしていないと知れば、お主とて先の勝利は偶然と思うだろ」
「それは……その通りにございまする」
「ならばこの話は終わりだ。良いか。また明日にも皆に伝える故、頼む」
為信は暗に他の家臣に反対された時のために森岡にこちらに正当性があると主張しろと伝える。命令だと察したのか森岡も諦めたと息を吐く。
「御意。それほどまでに殿が仰るのであれば」
髭の中にある為信の唇が少し動く。森岡の言葉に何か含みがあった。まるで為信自身が命令を出していないと思っているようだ。しかし、そのような証拠など無い。
「殿、我ら家臣は殿が思いを叶えんとしているのでございます。それだけは皆の総意であります」
黙っていると森岡から切り出してきた。為信は黙ったまま次の言葉を待つ。
「某もまた同じこと。そのために敵を倒さんとしているのでございます」
「当然のこと。俺もまた皆に報いるために精を尽くしておる」
「それを聞いて安心致しました。では、某はこれにて」
頭を下げると森岡は家臣が泊まる部屋がある場所へと歩いて行った。影も見えなくなるまで見送るとさっさと部屋に戻る。蝋燭に火を灯すと布団の上に座る。とても眠る気になれない。先程まであくびを噛み締めていたのが嘘のようだ。
お福は森岡を疑っている。また森岡も為信とお福の間柄を怪しんでいる。穏やかな容姿と温厚な性格をしていて普段は皆から慕われている彼だが、頭は冷たい刃先のように切れ、御家や主のためなら冷徹な判断も辞さない。
そもそも先の乱暴者を使う策に皆が難色を示す中で実行することが出来たのは森岡の賛同があったからこそだ。筆頭格である彼の言が無ければ為信はお福と家臣たちに泣き寝入りする予定だった。その時に森岡が反対すると思っていた他の家臣たちの表情は今でも少し笑える。
もしかしたらお福はその時から森岡のことを疑い始めたのかもしれない。幾度となく為信とお福が立てた冷徹な策を諌めてきた森岡が急に賛同し始めたのがきっかけだろう。
「俺からすれば必然なのだがな……」
森岡が時折見せる冷酷な目を近くで見てきたためによく知っている。情けをかける必要の無い者に対する動物の糞を見るような眼をもしかしたら他の者には見せないようにしているのかもしれない。
現に浪岡城攻めの時、森岡は率先して無頼者に戦後に恩賞ではなく死を与えるべきだと密かに進言してきた。あわよくば戦の邪魔だと理由を付けて最中に殺せとも言っていた。
だからこそ、戦前にもしかしたら賛同してくれるかもしれないという期待が現実になった時の喜びを為信は忘れられない。おかげで本意では無かった家臣たちが上手く働いてくれた。
彼にとって為信の野心を支えるのは生き甲斐であり、合理的に動いてくれている。
為信は思わず鼻で笑ってしまう。実に滑稽だ。自身のために動いてくれているのはお福のために動いているのと同じである。
そして森岡が為信とお福の間を知ろうとして、疑いをかけているのであれば当然、お福を始末しようとする。もしそれが叶えば床に手を叩いて彼は喜ぶに違いない。間違った考えを持つ悪女を倒して敬愛する主を救ったと。
為信を救うために動かんとしている思いが逆に森岡自身の首を絞めようとしているのは何とも面白くない茶番だろうか。
いずれ崩れる森岡との主従関係はいつ終わるのか。お福はおそらくそれを心待ちにしている。それは二人の関係を暴かれるのを恐れているのではなく、昔から助け合い、支えてきた主から突然処断される森岡の絶望を見る楽しみとして。
扇子で口元を隠しつつ当世に伝わる悪女らも恐れるような狂った笑みを浮かべる彼女の様が容易に想像できる。背筋に走るものがある。しかし、恐れではない。仮面を被らずに生き生きとしている彼女の姿を思うと喜びで体が震えてしまう。
「いずれ裏切ることとなるのに、哀れなことだ」
為信にとって幸せとはお福と共に野望を叶えることだ。それの過程を含めても上手くいけば良いのだ。そのために為信は彼女と共に策略を練り、実行している。そこに家臣のためや民のためという前置きなど無い。全てお福のためである。
それが為信にとっての生き甲斐なのだ。
翌朝、朝議の場で為信は早速昨日決めたことを家臣たちに告げた。案の定、反対する家臣が多くいたが、森岡が賛同したおかげでどうにか案がそのまま通った。
この図を端から見ればまるで森岡が権力を欲して為信に寄り添う佞臣のようだ。為信も時折思うことがある。どうして彼があのように他の者が決してやらないようなものにも賛同するのか。
為信はもう少し探りを入れたいと森岡を広間に残してこのやり方に対する本当の思いを聞いた。
「殿。某はあくまでも反対にございます」
森岡は強い意志を持った目でこちらを見てくる。
「ならば何故にあの場で賛同した」
「反対していたところで殿はその策を取り下げておりましたか」
「それ以上に良いものがあれば」
疑いの目が為信の体全身に注がれる。それが為信と共にお福にも向けられているのか、独断専行を気にしているのかは分からない。だから為信はあえてありきたりな返答をした。家臣たちのことを信頼していると意味を込めた言葉をもって。
「他の者も申しておりましたが、昨夜、某が申し上げたことの他にはございませぬ」
このような物言いをする時、森岡はさらに自身の言を聞いて欲しいと思っている。何度ももったいぶるなと叱責したくなったが性格故か、なかなか直してくれそうにない。
「ならば昨夜よりも良いものがあると」
「ございます」
「申せ」
森岡は小さく頷いた。表情は先程より鬱積したものでは無くなっている。よく見ると目つきが鋭く、下には隈がある。
「安東は見捨てて良いかと」
「……滝本か」
「御意」
為信の表情が少し暗くなる。
かつて滝本重行という武将が大光寺城にいた。南部の将として陸奥では名が通っている。為信も手を焼き、一度目の大光寺城攻めの際、彼の奮戦によって敗北を喫した。その後、元旦という不意を突いてどうにか落城させたが、為信にとって苦い思い出のある相手に変わりは無い。
何せ滝本の頭には策というものはない。不利な状況でもとにかく敵本陣へ突撃してかかる。最初の大光寺城攻めも為信が包囲を完成させて攻城に移ろうとした途端に突撃を喰らい守りが薄くなった本陣を急襲されて撤退した。
猪武者は一度手のひらに乗ってしまえば容易く扱える。だが、時として予想だにしない行動を取るから厄介なのだ。
先の戦で勝てたのも正月に攻める者はいないだろうと思っていた滝本が緩みきっていたおかげで、まともに戦って勝てるかは分からない。
そもそも彼のまともとは何なのかというところさえ疑問になってしまう。しかし、いずれにせよ為信の野望がために倒さなければならない相手である。森岡もこれを好機と思い進言した。強い確信を持ち、誰もいないところを狙って。
「昨日と朝議にて申さなかったのは間者を疑ったか」
「はっ、申し訳ございませぬ」
「よい。お前らしい故、免じよう。して、いかに滝本を叩く」
「滝本は今、南部に身を寄せております。安東を討たんと我らが動けば滝本も動くでしょう」
「……なるほど、挟撃か」
「御意」
挟み撃ちをされる側は兵を二つに分けるという兵法の悪手をしなければならない。自ずと二人の顔が暗くなる。こうなることは知っていたが、直面するとかなり絶望的に感じられた。森岡も頭の中ではいくつもの打開策を練っているだろう。
「動かずに時を見ることも出来まい」
「安東が浪岡の滅亡により我らに牙を向けるは明らか」
「こちらより動かずも来るか」
大浦は浪岡を滅ぼして間もなく、南部との間の緊張感が続いている。兵を酷使すれば政にも影響が出る。東北では土民の抵抗が平然と行われている。兵は農民である以上、無理な出兵によって敵と同調するかもしれない。
「安東自ら出兵するであろうか」
「おそらく、出ないでしょう」
「……湊か」
左様と森岡が少し口元を緩めて頭を下げる。
安東の領地には十三湊がある。彼の地は鎌倉幕府の頃から蝦夷と交流をする地として莫大な利益を生んできた。最近その利益を巡って親族でのいざこざが絶えない。
「義理を通すために出兵するでしょう。されど、安東の頭からすでに勝敗の善し悪しは無いはず」
「だが、義理立ては義理立てぞ。それ相応の兵を動かすに違いない」
「それは否と申せませぬ」
不利であることに変わりない。為信は評定の間を越え、廊下に響くほどの大きな溜め息を吐いた。
「数では我らが不利になる。最上や葛西に援軍を頼むか」
「おそらく無理でしょう。最上も葛西も今は伊達のことがございます故」
「ならば如何する」
森岡は辺りを確認する。為信の感覚では間者の気配が無い。彼も同じように感じたのか近くに寄ってきた。
「この戦、もはや戦略では太刀打ち出来ませぬ。戦術が勝敗を決すると思い下され」
小声の進言は為信の背中に大きな重石を乗せた。森岡は良いように言っているが、実際には行き当たりばったりである。
忠誠心のある家臣ならそれでも良い。しかし、為信に仕えたばかりの者や戦に勝って褒美にあやかりたい下々の兵は鞍替えを簡単にやってしまう。
「お主は戦術で我らが勝ると思うておるのか」
無言で頷かれた。確固たる自信があるのだろう。しかし、為信にとってはあまりに不安材料が多すぎる。
「お耳を……」
森岡が一言だけ囁いた瞬間、為信の目が大きく見開かれた。耳元から離れた滝本を見下ろす様は獲物を睨む熊のようだ。
「それが、最善か」
「某の中では」
固い決意を感じる目を見て駄目だとは言えない。為信は辺りを見回し、誰もいないことを確認する。
「して……」
「ここは某に。すでに決めております」
いつ決めたのか尋ねようとして止められた。聞いたところで為信の得にならない。減っていく味方を知り、返答によっては森岡への警戒心が強まるだけだ。
「お主、いつになく酷いのう」
「この乱世にて我々が昇らんがため、正義など必要ありませぬ。こたびの戦は味方をも駒とお思い下され」
大きく肩を揺らす。心中もまた揺れていた。いくら野望のためとはいえ危険過ぎる策を講じれば味方から疑われる。
為信の理想は敵から策略家として恐れられ、味方からは慈悲深い者として思われること。それを考えれば決断を下すのは難しい。領土も拡大している中で真の忠誠心のある者はごく僅か。
しかし、甘くなってしまったが故に戦で負ければ本末転倒も良いところ。今一度森岡のことを見る。相変わらず決意を固めた毅然とした表情をしている。
「十郎左衛門、今一度問う。勝つためにはそれしかないか」
「某が考えた精一杯の策にて」
「……分かった」
為信の決断は早かった。一日待つことも出来たが、敵に猶予を与える。
「十郎左衛門、委細はお前に任せる。良いな」
「御意。これも殿のことを思うてのこと。ただ殿のため、それだけのことにございます」
森岡の表情が緩んでいくのを見ると為信もこれで良かったのだと思えた。
話は済んだと森岡を下げると姿勢を崩して目を瞑る。この策で成功すれば良い。いざ失敗した時にどうすれば良いか。今は森岡を生かす時、死なせば為信は片腕どころか両腕をもがれたも同然。
内外に難しい状況があるとつくづく思わされる。一つ決断した以上、冷徹に目的に向かい行動しなければならないが。
「俺も戻るか」
城を出て屋敷へと戻る。どこか足取りが重く感じられたが、誰からも心配されることはなかった。
「良いと思うけど」
事情を聞いたお福から返ってきた言葉に為信は軽く目を開く。味方には出来るだけ温厚に接して評判を高めるように言ったのは彼女自身だからだ。
彼の内心をよそにお福は場所を変える。彼女好みの書院造風の部屋の窓からは晩春の穏やかな風が流れてくる。
「良い機会じゃない。あなたがどれだけ慕われているかを知る」
座りながら平然と言ってくる。これでお福の表情が少しでもあくどい笑みを浮かべているならまだ良かった。真顔のままではまるで為信がどうなっても良いと思っているも同じである。
「駄目だったらどうする」
「大丈夫よ。手は打つし……そもそも、あなたも考えなさい」
変わりは誰でもいるということか。そう考え、有り得ないと心中で頭を振る。そうでなければここまで付いてきてくれるはずがない。
これまで何度も窮地に追い込まれても助言を与えてくれ、陰で皆を支えてくれていた。
ましてや自分は大浦の主。そしてその妻に収まっている彼女に何が出来る。
「もういい。この話は止めにしよう」
「そうね。確かに意味の無いことだわ」
お福は扇子を開き、首元をあおぐ。じんわりと滲む汗が夏の陽射しに当たる。滴を手で拭うとお福は唇を微かに動かして何か言葉を発したようだった。
「何か」
「何でもない。それより今あなたは外のことを考えなさい。中のことはまだ先でいいわ」
つまり滝本や安東との決戦を終えたらすぐに森岡のことをどうにかしろと言っている。だが、本当に今はその時だろうか。為信はまだこの先、南部との戦いで森岡は必ず必要な存在になってくると思っている。
事は慎重に進めなければならない。人望の厚い森岡は切れ者故に自分の身を守る段取りも怠っていない。当分は待たなければ。それがいつになるかは分からないが。
「本当に仲良くなれると思ってるの」
いつの間にか顔が俯いていた。為信の思っていることと全く違う何かを考えていたと勘違いしているお福の視線が痛い。
「まさか」
簡単に口をついて出てきた。お福よりも前からの付き合いをこうも簡単に捨てきれる自分がおかしく思えてしまう。口答えすれば扇子が飛んでくると思った恐怖心も相まっていたのだが。
「いずれにせよ、今は安東らのことだ。後は任せてほしい」
「分かったわ。必ず勝てるのね」
「無論」
勝算は確かにある。僅かでもあれば為信は必ずお福にそう返してきた。それが為信の負担となり、勝利へ導くための智略が研ぎ澄まされる。
「期待してるわよ」
お福は扇子を手のひらに叩きながら外へ出て行った。
一人になった為信は息を吐きながらおもむろに体を後ろに反らす。
「やるしかない……か」
いずれ死ぬのならこれぐらいの窮地も一つの定めだろう。織田信長が今川に攻められた時のように。かったるそうに立ち上がって暑さの汗か冷や汗のせいか分からないが、痒くなった頭をかく。
「十郎左とは逐一会わねばな」
書状は残るが、言葉は残りにくい。為信もまた外に出た。森岡の屋敷に向かうと下僕たちを何人か集める。為信の姿勢が表しているのか緊張感のある表情を皆している。
「行くぞ」
いつもなら肩の力が抜けるようなことを一つ言う時だが、その余裕は無い。
御家の存亡がかかっている以上、皆に危機感を持ってもらう必要がある。耐えきれないなら斬れば良い。それだけ事態は切迫している。
森岡の屋敷に着くと為信は皆への挨拶の返事もそこそこに人払いを済ませ、森岡の待つ部屋へと飛び込んだ。
「駒となる者が見つかり申した」
森岡は余裕のある表情だった。開口一番にそう言うとその者の名を述べ、為信に一族の身を守る約束を願い出た。そこで何もしなければただの鬼畜である。無論だと頷く。
「この戦に光が見えてきたかと」
「信ずるに値するのか」
「必ずや。いざとなれば……」
そこまで言いかけて森岡は何でもないと首を振る。何を言おうとしたのか為信にはすぐに分かった。口の動きが次に「そ」と言おうとしていた。
「己が身をおいそれと亡くしてもらっては困る」
黙って頭を下げる森岡を見て間違いなかったと確信しながらもどこか安堵しきれないところがあった。ここで戦に勝利して森岡が死ねばこれほどお福が喜ぶことはない。
「十郎左」
「はい」
「この戦、この策で必ず勝てるのか」
「断言は出来ませぬ」
「……そうか」
二人の間に並々ならぬ緊張感が走る。負けた時に森岡の存在は欠かせない。必ず勝てるのなら戦略を立て直すことが出来る。
奪われた心はお福から逃れられない。
「時に十郎左、その者は今いずこに」
「我が配下の者として屋敷や鍛錬場にいるかと」
「分かった」
為信はここまでと外へと向かう。
「逐一報告してくれ」
「御意」
後ろから緊張感がさらに高まった声が返ってくる。為信は静かにほくそ笑んだ。
裏切りの絶えない東北の大名の一人として生きてきて知ったことがある。真の忠臣はごく一部しかいない。森岡もその中の一人である。大黒柱を支える支柱のような存在が消えれば土台が揺らぐ危険性がある。しかし、大浦にはもう一本見えない支柱がある。
「さて、後は頼むぞ」
「はっ」
お前に言ったのではない。声を上げられないのが心を昂らせる。手のひらに乗せているような扱いがなかなかに刺激的で良い。
森岡の屋敷を出るとそのまま真っ直ぐ帰らずに辺りを散策する。兵たちにこのような所で何をしているのか問われたが、気晴らしとごまかしてのんびりと歩く。辺りは家臣たちの屋敷が建っていて兵が右往左往している。
「あれか……」
しばらくする教えてもらった容姿と似ている兵が一人で座っているのを見つけた。
「さて……」
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