ニレの木の下で
ノランは再び森を迂回し町へと歩き出した。今日のエルセトラの青空も、変わらずゆったりとした時間を感じさせてくれる。フランクがとても喜んでいたのを早くアマルに知らせてやりたい。そんなことを思いながらノランが再び町に帰って来たのはお昼少し前だった。
町の東口から町に入ると最初に目に飛び込んでくるのは、突き当たりにある町長の屋敷だ。町の歴史を感じさせる古いこの屋敷を、歴代の町長が守ってきた。屋敷の建つこの場所は、町のすべての悩みや喜び、出来事を知るのにふさわしい。今はドナテラが住む。ドナテラとは幼馴染の関係だ。
そしてノランはもう一人の友、アルベロを思い出していた。
――アルベロ……。
子どもの頃からいつも三人一緒だった。町長の屋敷の古めかしい木の空間で、三人は時間を忘れて笑い合った。いつまでもそんな賑やかな毎日が続くと思っていた。
ある日アルベロは病にかかり、若くして死んだ。
大人たちに制止されるのを振りほどきながら、ドナテラがアルベロにしがみついて嫌だと泣きわめいていた姿を今でも思い出す。まだ幼なかったドナテラは、ノランにも詰め寄り、いったいどうしてと、食い入るようにノランの目を見つめた。ノランは答えられず、ただ両手を握りしめていた。もちろんノランにどうにかできるとはドナテラも思っていなかった。ただ、どこにも誰にもぶつけられない行き場のない思いを抱えて苦しんだ。とにかく残されたドナテラとノランにとって、二人でいることは三人でいないことを思わせた。
時計職人となったノランは、いつからか町を離れることが多くなり、辺境の地に移り住んだ。ドナテラとの仲もしだいに疎遠となっていった。
町長の屋敷は昔から引き継がれている。ドナテラがブルネラの長となることを引き受け、思い出深い町長の屋敷に移ったことを風の便りに聞いたとき、ノランは少なからず驚いた。疎遠という言葉は相応しくないかもしれない。とにかくドナテラに会うのは本当に久しぶりだ。
コンコン。
少しだけ緊張して、ノランがドナテラの屋敷の扉をノックした。扉が開いてドナテラが迎える。顔を見るとお互いに自然と笑みがこぼれる。元気そうだ。ドナテラは確かに歳をとっていたが、その若々しい視線は時間の浸食を感じさせない。ああ、やはり何時までも変わらないものだ。ノランは安堵した。
「やっと来てくれたのね。待っていたわ」
とドナテラが憎らしそうに笑ってノランを招き入れる。
「久しぶりね。相変わらず辺境の地で工房を続けているの?」
「ああ、そうだよ。君は元気でやっているかい?」
「ええ。もちろんよ」
二人は屋敷の奥へと入っていく。居間に続く飾り扉はいつも開かれていた。居間は屋敷の中央にあり、真ん中には大きな振り子を持つ柱時計があった。
その柱時計は、屋敷を支える太い柱といったいになって彫られており、振り子の空間は子どもが入り込めそうなほどに大きい。高い天井まで続く柱に埋め込まれた時計。上方には彫り込まれた鳥や植物が飾られるように広がっている。
木を扱う職人となったノランがいま見ると、その柱は楡の亜種で、どちらかというと欅に近いが、町の人はなぜか古くから、その柱をニレの木と呼んでいた。
ニレの木。ニレの柱時計。
ニレの柱時計の前で立ち留まると、ドナテラがノランに言った。
「いつからか、時間が狂うようになってしまったのよ。ほんの少しだから、ずっと手で直していたのだけど。最近振り子の音が少しだけ変な気がするのよ」
「懐かしいな……」
子どもの頃から見ているが、町や人が変わっても、この時計はあの頃のままだ。
「そうね……」
あの日、ノランはひとりでこのニレの木の下で泣いた。自分が時計職人になったのはこのニレの木に守られて育ったからなのかもしれない。
「診てみよう」
ドナテラに渡された踏み台を使って、ノランは時計のレンズ部を開いた。
長針短針の針を外し、文字盤を止めている木ねじを慎重に外すと、中から機械仕掛けの心臓部が露わになる。この機械部も土台から外して、振り子を慎重に取り出すと、手動で振ってみて様子をみた。
「さすがに歯車が傷んでいるな……。りゅうずの部分も緩んでいるようだ。いくつかは分解して磨いてみよう。取り替えられる部品は交換してみた方がいいかもしれない」
「直ると良いのだけど……」ドナテラが不安そうにつぶやく。
「直すさ」力強くノランは答えた。「いくつか修理材料を取りに戻らなければ」
「そう。その前に食事をしていく?」
「いや、お茶だけでいいよ」
わかったわ、と微笑んで、ドナテラが先に立った。
二人は窓際のテーブルに腰を下した。時刻は昼を少し過ぎている。
古い木枠の窓から差す、輝いた金色の日差しが、ノランの持つティーカップのお茶に差し込みその色を深める。
お茶の表面には、新鮮なハーブの葉から出た白い産毛が浮かんでいた。
ノランはそれが陽の光を受けチラチラと小さく輝くのを楽しむように、カップを微かに傾けながら一口すすって言った。
「……美味いな」
「そうね……。私も久しぶりだわ……」そう言いながら、庭に茂っているハーブを眺めた。「また淹れなくちゃね」
「ところで昨日から異種族が町に現れたと騒いでいるが」ノランが切り出す。
「まだ捕まってはいないわ。本当、どういうつもりかしら?彼らときたら他人の土地にズケズケと」
それまでのんびりしていたドナテラの喋るスピードが速まる。ノランはゆっくり続けた。
「彼らだって好きで入ったわけではないかも知れないよ。もし捕まえたとしても、彼らの言い分も聞かなくては」
「あなたは自由気ままに町を出たり入ったりしてる身だからそんな悠長なことが言えるのよ。私はこの町の長としての責任があるの! 勝手なこと言わないでちょうだい」
ドナテラは酷くご立腹だ。仕方なくノランは話題を変えた。
お茶を飲み終わるとノランは立ち上がり、修理のための材料を取りに自宅に戻ることを告げた。
「すぐに戻るよ」
そうドナテラに優しく告げるとノランは自宅へと歩き出した。
自宅前に着いたノランは郵便受けの蓋につけてあるダイヤル錠を外して、中から鍵を取り出した。玄関扉の前に立ち、鍵口に鍵を差し込みガチャリと回す。扉を開けて中に入ろうとして、鍵がまだ開いてないのに気づいた。
――鍵をかけ忘れたのかな?
もう一度鍵をガチャリと回す。今度は扉が開いた。
家の中に入る。今までしばらく帰ってなかった割には、部屋は埃っぽくもなく、小綺麗に掃除されているようだ。
きっと、アマルがちょくちょく顔を出し、掃除してくれていたのだろうと思った矢先、三角巾にマスク姿でバケツに水を張り、雑巾で床を磨くマッシュの姿が飛び込んで来た。
「マ……マッシュ!? いったいここで何を?」
ノランは思いも寄らないその唐突な光景に愕然とした。
しかし驚いているのはノランだけではなかった。
「アァアァ!?」
マッシュなど、まさか滅多に帰らないと言われた家主が、早くも翌日帰って来て、しかもその人物が知り合いだったことも重なって、言葉になっていなかった。
ノランは、そのマッシュの風貌とあまりの驚きぶりに大笑いをした。
マスクを外したマッシュが取り繕って言う。
「まさか、あなたの家だったとは。確かに部屋にはやたらと時計が多かったから、まさかとは思っていたが」
気取ったように話すマッシュだったが、内心とても恥ずかしそうだった。
ノランは声を上げて笑いながらもマッシュの無事を喜んだ。
「しかし鍵が掛かっていたはずだが、よく解除できたものだね?」
笑いのために滲んだ涙を軽く拭きながら言う。
マッシュが町に逃げ込んでからの経緯を簡単にノランに説明すると「なるほど。グランドのとこのおてんばパールだな」と微笑んだ。
「しかし君が無事で、会えてよかった。皆心配している。真珠とクルックスも私の娘の家で無事だ。今頃のんびりしていることだろう。森の外にいるフランクにも、今朝方会ってきたところだ」
皆が無事なことを知って、マッシュは安堵のため息をついた。
「こんなボロ家の掃除をさせてすまなかったね。君に掃除の才能があったとは。素晴らしくピカピカじゃないか。さぁ、二人の待つ娘の家へ行こう。今日は安心してゆっくり休むといい」
「感謝する。では行こうか!」
マッシュがすっかり調子を取り戻して、脇の机に置いていたシルクハットを取り上げて澄ますと、ノランが堪えられないといったように笑った。
「その前に三角巾を取った方がいい」
♰
ノランは工具箱を取り出して、鋏や刷毛を確認した。さらに戸棚から整備用の布やオイルを取り出して、鞄に入れる。マッシュとともに辺りを警戒しつつ家を出た。
アマルの店に向かう途中、マッシュがパールにお礼を言いたいのだが、と申し出た。
「そうだね。……だが君を連れ歩くわけにはいかない。そうだな、後でパールを娘の店まで連れていこう。頼まれている修理を終わらせてからになるから少し遅くなるが」
二人がアマルの店にたどり着きドアを開けると、ドアベルがカランコロンと音を立てて鳴った。店内の奥から元気な女性の声が迎える。
「いらっしゃーい!」
「やあアマル、お疲れさま。マッシュ君を見つけたよ。私はまだ用事があるので行くが、寛いでもらってくれ」
ノランはそう言うとマッシュを店内に残し、ドナテラの屋敷へと向かった。
「あんたがマッシュだね、話は聞いてるよ!」
なんとも元気の良い人だとマッシュは感じた。
マッシュが見つかりほっとしたノランは、再びドナテラの屋敷へと足を急がせていた。
修理を終わらせたら、パールを連れてアマルの店に戻らなければ。歩きながらノランは考えを巡らす。フランクを残しているのも気掛かりだが、彼らも疲れているだろうし、できるだけ休ませてあげたい。しかし今日はよく歩いた。
ドナテラの屋敷に到着すると、コンコンと扉をノックした。疲れを感じながらもノランはどことなくほっとする。すぐにドナテラがノランを迎える。
「遅くなってすまなかったね」暑くなり上着を脱いだノランが笑って言う。
「あら、来たのね。直せないから逃げたのかと思ったわ」
ドナテラは意地悪そうに笑って、中へとノランを通した。
「さあ、時計を直してしまおう」
ノランはドナテラの脇を通り過ぎ、まっすぐにニレの柱時計の元へ向かった。早速機械部を取り出して大掛かりに分解し始める。
ドナテラがトレイに何かを載せてやってきて、ノランの後ろから声をかけた。
「クニッシュを焼いておいたわ。まだ温かいから」
作業を始めたノランはすでに集中している。返事はなかった。
ドナテラは、ただそっと焼きたてのクニッシュと温かいスープを窓際のテーブルに置いた。まだほんのりと湯気が立っている。おそらく昼食をまだとっていないノランのために、彼がいなくなったほんの少しの時間で作ったのに違いなかった。
クニッシュは、芋を潰した生地で、野菜や穀物・豆類を煮たものを包み込んで軽く焼き上げた軽食だ。ここブルネラでは伝統的に食べられていたが、中身として包まれるフィリングの部分や、芋の生地の材料など、すべて家庭の味が異なる。
ノランは一通りの整備を終えると、振り子の振り具合や歯車の動き具合を丁寧に確認した。
「……よし! いいだろう」
汗を拭いて、腰を伸ばす。窓際のテーブルの上にドナテラのクニッシュが置いてあるのに気づいた。歩いていき手に取り一口食べた。冷めているが旨い。
その時ドナテラが温かいお茶を持ってやってきた。口をもごもごしているノランを見て、修理が終わったことを知る。
「どうだった?」
「もう大丈夫だ。これで、君が生きている間はあの時計は動き続けるよ」
「まあ、ひどい」
ノランは新しく淹れてもらった温かいお茶で残りのクニッシュを飲み込みながら満足そうにつけ足した。
「ところでこのクニッシュ、温かければもっと旨いのにな」
ドナテラは黙って笑った。
修理を済ませたノランが立ち去るため屋敷の玄関まで進む。
「またこうして時々は町に戻って来なさいよ。アマルだってあなたのこと心配しているわ」
「そうだね。また時々寄らせてもらうよ」
玄関の扉を開き外へ出ると、体格の良い男が緊迫した表情をして速足でこちらに向かってくる。町の男を取りまとめているグランドだ。パールの父親でもある。後ろには二人男を従えている。何かあったのか。
「おお。グランドじゃないか、ちょうどよかった。今から君の家に向かおうと思っていたところだ。パールは元気かね?」
「お久しぶりですノランさん。いつ町にお戻りに?」
「つい先日だよ」
「そうですか、パールは昨日から熱を出してしまって家で寝込んでいますよ」
「そうか、見舞いがてら覗いてみるよ」
「それじゃあどうも」
グランドは急ぎそう言って、ドナテラが出てくるのも待たずに屋敷の中に入っていった。
ノランは再び歩き出し、パールの家へ向かった。
パールの家は噴水広場のすぐ向こう側のブロックにあったはずだ。ノランは記憶を頼りにパールの家を目指した。そう遠くない。パールの家に着きドアをノックする。返事がない。もう一度ノックをすると、モアナが今にも泣き出しそうな顔で現れた。
「こんにちはモアナ。パールの具合は悪いのかい?」
モアナの表情からパールの状態があまり良くないのだということはすぐにわかった。
「グランドに聞いて伺ったのだが」
ノランがそう言うと、モアナは言葉少なに「とにかく入って下さい」とノランを家に入れた。
パールの部屋に通された。ベッドの横で頭を抱えていた医者が振り返る。ベッドにはぐったりとして動かないパールがいた。顔を焼けた鉄のように真っ赤にして、意識虚ろに苦しんでいる。
ノランは息が止まりそうになる感覚を覚えた。医師に訊ねる。
「悪いのか?」
「何をしても熱が上がる一方で……。あっ! 何をされるんです」
ノランは医者を押しのけて、パールのシーツをめくった。パールの全身が真っ赤になり熱を帯びている。
――こ、これは! あぁ! まさか! そんな!
ノランが立ち尽くした。恐ろしい予測が駆け巡る。
――パールは森へ行ったのか?
言葉にするのを躊躇う。おてんばのパール。森から町に逃げ込んだマッシュたち。留守にしていた私の家でマッシュを匿っていたパール。まさか、まさか、まさか……!
ノランはパールの部屋のあちこちを慌てて見定めた。尋常じゃない様子のノランに、医者がおどおどと戸惑っている。モアナは涙を浮かべて怯えていた。ベッド脇のテーブルに畳まれたパールの服が目に入る。ノランはその服を荒々しく手に取ると、ポケットというポケットを探った。上着のポケットから――木の実や鳥の羽と一緒に――オレンジ色の小粒な果実がパラパラと床に数粒落ちた。
――やはりか!
「すぐグランドとドナテラを呼びにいけ! 二人とも町長の屋敷だ!」
指図された医者が「でも、私は」とオドオドしている。
「いいから行け!」そう言ってからモアナに向き直って「とにかく今は冷やすんだ!」と叫んだ。ノランのあまりの気迫に驚き、医者はドナテラの屋敷に向かって家を飛び出していった。モアナは崩れそうになる気持ちを必死で堪えて、冷たい水を汲みに下へ降りた。
ほどなくドナテラが医者とともに駆け込んできた。
「いったい何事なの?」
モアナはパールの汗を拭きながら泣き続けている。
ノランは静かにドナテラの耳元で「パールを見てくれ」と言った。
ドナテラがパールの顔を覗き込む。ドナテラもまたショックで口を覆い、ノランと同じような反応を見せた。
「これは、アルベロの……?」
「ああ。同じだよ。陽橙樹の実だ……」
「ああ……、ああ! ……なんてこと……」
「ヒダイジュって?」モアナが振り返り、震える声で二人に訊ねた。
「……私たちも詳しくは知らないの。ただ、森の中にある木で、オレンジ色のお日様のような実をつけることからそう呼ばれているの。その実を誤って口に含んでしまうと……このようになってしまうってことだけしかわからないの」
「治るんですか!?」
モアナは精一杯の勇気を振り絞って訊いた。ドナテラもノランも何も言わなかった。モアナはパールを覆いかぶさるように抱きしめて、声をあげて泣き崩れた。
「グランドはどうした?」
「グランドなら、町の若い衆と一緒に異種族の一味を捕まえにいったわ」
「何だって!?」
「森の側で白クジラの子を見つけたと報告があったので、捕らえて連れて来るよう私が指示を出したの。きっと彼らが町に陽橙樹の実を持ち込んだのよ!」
グランドが緊迫した表情でドナテラの屋敷を訪れていたその理由に初めて気づく。熱を出したパールを置いて……。
「違うんだドナテラ! 彼らはそんな者たちではない」
「なぜ、あなたが彼らの存在を知っているの? 家で異種族の話をし始めた時、怪しいと思ったわ! あなたには失望したわ、さあ! 出ていってちょうだい!」
町の長としてのドナテラが、ノランをはっきりと部外者だとでも言うように部屋から追い立てた。
ノランは食い下がったが、家を追い出されてしまった。しかし手をこまねいている余裕も時間もない。陽橙樹の熱は一刻も争うのだ。
――彼らならなんとかできるかもしれない!
ノランはアマルの店へと走った。
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