マザーのリンゴに舌鼓

「ところでマザーツリー。ご挨拶が遅れて申し訳ない。よければ我々に果実を少し分けてもらえないだろうか」


 マッシュがマザーツリーへ一歩近づいて、視線を上げる。


 広い草原に一筋の風が吹く。クルックスと名づけられた木彫りのカッコウを含む一行の心に、柔らかい声が響いた。


「よいでしょう、旅人たちよ。満ち足りるまで食べ、疲れの癒えるまで休んでいきなさい」

「感謝する、マザーツリー。ではここで休ませてもらうとしよう。丁度食事時だ」


 マッシュの礼に応えるように、マザーツリーは大きく体を揺らした。


 繁々と重なる葉がさざ波のように音を立てる。波の内側から生まれるようにして木の実が盛り上がり、ポタポタと落ちてきたかと思うと一行の目の前に積みあがっていった。


「さあ我々は、フランクの背中に戻ってピクニックセットとハーブティーを持って来よう!」


 真珠は唖然としていた。


「ありがとう!」


 慌ててマザーにお礼を言うと、マッシュを追いかける。


「わたくしもお手伝いいたします」クルックスもついてくる。


「彼女が与えてくれるリンゴは絶品ですよ! あれを食べたらもう他のリンゴは食べられなくなるくらいに!」

「リンゴ?」


 真珠は早歩きしながら後ろを振り返り、黄色とも金色とも言いがたい、わずかに緑がかった小粒な果実を眺めた。マッシュが言う。


「早熟れのマザーアップルなんてそうそうお目にかかれないぞ。命の生まれたてさ! マザーツリーは恵みの木であり、それを与える木でもあるからね」


 草原の風はマザーツリーから吹いているようだ。駆ける真珠の足元を優しく支えて送り出すように思えた。短い草が風に応えるように揺れ、真珠の行く先を歓迎している。そんな感覚に襲われる。


 ふと真珠は、病室の白いカーテンを思い出していた。


 揺れる白いカーテン、灰色の壁。気が狂いそうになって真珠は空色のカーテンに替えてもらった。あれからずっと入退院を繰り返す度に、必ずあのカーテンだけは持っていってつけてもらった。青い、空色のカーテン。


 マッシュが手際よく、組み立て式のテーブルと椅子を設置していく。真珠とクルックスも手伝う。テーブルの上に、ハーブティーを淹れた三脚のティーカップが揃った。


「フランクはお茶はいいの?」

「ぼくは果実だけでいいよ!」

「わたくしお茶を飲むなんて初めてでございます!」

「さて準備は整った! では皆、マザーツリーに感謝して」


「いただきます!」


 一行は声を揃えた。


 マザーツリーのすぐ足元で守られるように食事をしながら、銘々がその美味しさを口にした。クルックスは興奮して、マザーのリンゴを何度も落としそうになっている。


 ぎゅっと詰まった実は、口に入れるとしっかりと固く瑞々しい。噛めば噛むほど元気が出るようだった。ふと思い出したように、真珠がクルックスに訊ねた。


「ところでさっき、十二時をお報せしていたのよね?」

「ハイ!」

「そのー、クルックス? あなたの時計はどこにあるの?」

「話せば長くなるのですが」


 そう前置いてからクルックスは続けた。


「ある老紳士が、わたくしを息子夫婦の赤ちゃんのために贈り物として選んでくださったのです。そのおじいさんは、ステッキに美味しそうなリンゴの飾りがついていまして、わたくしも気に入りまして、ついていきました」


 クルックスの話ではこうだ。


 ――クルックスのカッコウ時計は、とても腕の良い職人の物でかなりの大きさだった。店の一番目立つ場所に飾られていたが、多くの客は見向きもせず、新しい小ぶりの時計を求めていった。きっとあまりに精密で立派だったので気遅れしたのかもしれない。


 そんなわけでクルックスは長年店の看板として飾られたままで、店が閉まっている間は一人ぼっちでずっと寂しい時間を過ごしていたと語った。


 そんな中、自分を選んでくれた紳士の思い。

 初孫誕生記念というお祝いの責任感。初仕事のプレッシャー。


「お孫さんのために、オルゴールメリーではなく! からくりの美しいわたくしを選んでくださったあの方々に喜んでいただこうと、わたくしは今か今かとその日を待ちわびました。お孫さんの退院の当日! ええ! わたくしはそのお屋敷の一番大きな柱に立派に設置されていました。お祝いの席の準備のため家人は不在。リハーサルのつもりでわたくしは正午を告げるため気合を入れました。でも、わたくし……気合を入れすぎて、勢いをつけすぎてそのまま時計の外へ飛び出してしまったのです! 運悪く家の窓も開いていて、前日からの寝不足のせいで地面に落ちたままなんと爆睡してしまうとは!」


 そんな「悪条件」が重なり、クルックスは誰にも見つけられることなくそのまま行方不明になったという。クルックスは思い出してさめざめと泣きだした。


 地面に山のように積みあがっていた果実は、いつの間にかほとんど無くなっている。途中まで同情して聞いていたマッシュが、足を組んで喉を膨らまし始めた。


 真珠はそれを見て、クルックスに慰めの言葉をかけた。


「本当に大変だったのね。そのお家へ戻りたい?」

「真珠さん! もちろんです! わたくしいまだにあの日のことが悔やまれまして。あぁ、わたくしは皆さんが楽しみにしていたお祝いの席をすっぽかしてしまった」


 クルックスはさらに泣く。


 マッシュが立ち上がって、飲み終わったティーカップを赤いハンカチーフで拭きながら言った。


「ならば丁度良い。我々もフランクの仲間を探す旅の途中。君も加わろうではないか! 旅の途中できっと君の時計も見つかるさ」

「ああ! それはありがたい話です。わたくしも一人ぼっちでとても不安でした。是非とも皆様方とご一緒させてください」


「また仲間が増えたね!」

「歓迎するわ! クルックス」


 こうして一行に、木彫りのカッコウが加わった。


 マザーが分けてくれた最後の果実をフランクが平らげる。


「もうぼくお腹いっぱい!」


 マザーのリンゴは素晴らしく美味しかった。


「一人ぼっちでない食事が、うう、こんなにも楽しいものだとは」


 クルックスは感動が止まらない。


「ごちそうさま!」


 皆が感謝の声を重ねて、恵みに感謝した。

 マッシュが改めてマザーに向き直り訊ねる。


「実は我々は白クジラの群れを探しているんだが、あなたは何か見なかっただろうか」

「旅人たちよ。西へ向かいなさい。数日前、白クジラの群れが青空の中、西に流れていくのを見ました。少し急いでいるようでしたが」

「ありがとう! マザーツリー!」

「礼には及びません。……異世界の少女よ。元気そうですね」


 マザーツリーは真珠にそう言葉をかけた。

 感謝を返すかのような優しい声だ。なんと答えてよいかわからないまま真珠が立っていると、マザーは優しい風を起こして、さあ行きなさいと告げた。


「あなた方の旅に森の恵みがありますように」

「……ええ。あなたも」


 木彫りのカッコウを新たに迎え、一行は青空を西へ進む。

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