あれを『恋』とは名付けられない。(仮)

saku

プロローグ・当時、彼は27歳、私は14歳だった。


 仕事を終えて帰宅。左肩には、駅からの帰り道に立ち寄ったコンビニで購入した品物が入ったエコバッグ、右肩には仕事で使うノートパソコンと財布、化粧ポーチなどが入ったトートバッグをしょったまま、冷蔵庫へ向かう。


 床にトートバッグを降ろし、エコバッグから本日の夕飯になる、おにぎり、きゅうりの漬物、レンジで温める豚汁を取り出し、冷蔵庫脇にある折り畳み式の収納棚の上に置く。続けて冷蔵庫の扉をあけて、エコバッグからお茶、プリン、アイスクリームなどを所定の場所に配置した。


「疲れた。」


 冷蔵庫の扉をあけっぱなしのまま、必要最低限のものが入った冷蔵室をぼんやりみながらつぶやく。

 

 本日は12月30日。まもなく新年を迎えるというのに、わびしい冷蔵室だ。半年ほど前に購入したコロナビールと、会社の暑気払いか何かでいただいたご当地の缶ビールが数本、冷えていた。


 家ではほとんどお酒は飲まない。外でもお付き合い程度の乾杯の一杯だけ。でもときおり、気が向くと手を伸ばすのがビールだった。


 瓶に入ったコロナビールを取り出し、キッチンに備え付けられた引き出しから栓抜きを出し、瓶ビールの栓を抜く。こくりと、一口、口にビールを含んだ。


「ライム、買ってくればよかったな。」


 コロナビールにライムを加えると爽やかな味わいになる。コロナビールが好きになったきっかけもライムのアクセントが気に入ったからだ。「レモンも無いか・・・。」ぶつぶつ、独り言を言いながら、コートを脱ぎ、ソファの端にかけた。クッションを背もたれに、ソファの上に膝をかかえた状態でしゃがむ。


 「さむっ。」ビールでさっそく体が一気に冷めたのか、身震いが起こる。ソファの上に置かれたヒーターのリモコンを手に取りスイッチを入れた。


 瓶ビールは片手に持ったまま、もう片方の手でスマートフォンを取り出し、適当にニュース記事を探す。読んでいるようで、眺めているのに近い。コンビニで購入したきゅうりの漬物を思い出し、収納棚の上面に置かれた割りばしに手を伸ばそうとしたところで、メールが入った。


 『ナナ、久しぶり。聞いているかな・・・不二先生が亡くなったって。お葬式は年明け3日みたい。行く?』  


 ナナとは、わたくし、桜井奈々子の中学時代のニックネーム。高校・大学では奈々子と呼ばれることが大半で、社会人になってからは、桜井と名字で呼ばれることが多くなった。メールの相手は毎度参加しない私に、ご丁寧にも年に一度、同窓会の知らせをくれる中学時代の同級生、佐藤美咲からだった。


(不二が死んだ・・・? 不二祐介ふじ ゆうすけが?)


 手がゆるみ、あやうく落としそうになった瓶ビールを床に置き、スマホに映し出された文字を食い入るようにもう一度、読む。


 美咲とは中学2年生から同じクラスで、同じ合唱部だった。昼休みは一緒に弁当を食べ、よく行動をともにする1人だった。不二祐介と私の関係についても、何となく知っていたひとり。

 

「不二祐介。不二・・・。」

 久しぶりに自分の声で彼の名を呼んだ。


 ほの暗い記憶の塊に対して、何重にも鎖で縛り上げ、心の奥底にしまい込んだ記憶が、ジクジクした痛みとともに浮上する。


 不二は中学2年の3学期、産休に入った先生の代わりに入ってきた、美術の臨時教師だった。

 

 授業中、一番覚えている彼の様子は、生徒に課題を与えた後、窓際で椅子に座り、左手で頬杖をつき、外を眺めている姿だった。

 それは同じ教室にいるのに、彼だけが異なる世界にいるようにも感じた。


 すらっと背が高く、広い背中を持ちながらも華奢に見えるのは、アイボリーのような透明感ある肌のせいだったかもしれない。長い前髪の隙間から、ときおり覗く瞳の色は、少し青みがかっているようにも見え、その瞳孔に捉えられると、そのまま目をそらすことができなくなる不思議な引力があった。


 シャープな輪郭とバランスの取れた高い鼻梁と冷たそうな唇。

 とても美しい人だった。初めて、美しいと思ったひとだった。


 当時は青二才の中学生だったが、大人になった今でも、不二祐介を超える美しい顔立ちとは出会っていない。

 

「紅茶・・・。」

 まだ半分ほど残っている床に置かれたコロナビールをキッチンのシンクに置き、やかんに水を入れ、お湯を沸かした。紅茶を飲もう。低い食器棚の扉を開けるためにしゃがむと、棚に置かれた電子レンジに自分の顔が映った。


 ぞっとするくらい、無表情の顔。

 その表情のまま、すーっと、右目から涙が流れた。

 しばらくして左目からも涙がこぼれた。


 すーっ、すーっと頬をつたっていたものは、そのうちぽろぽろ、ぽろぽろと、粒になってこぼれ落ちた。


(こんな泣き方があるんだ・・・。)

 はじめて対面する自分の表情を客観的に観察していた。やかんがピーと鳴り、お湯が沸いたことを知らせる。火を止めた。


 彼と出会った日。不二祐介は27歳だった。彼と私はひとまわりの年齢差だった。そして今。桜井奈々子こと、私は27歳となっていた。





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