別れ
通された部屋の大きな窓に向かって立つその人は、私達が部屋に入ってからしばらく、身動きもせずに窓の外を眺めていた。そして、思ったよりも穏やかな声を出す。
「久しぶりだね。あそこでの出来事が、もう何年も前に感じるよ」
アデルバード伯爵は振り返ると、私達の方に歩いてきた。下女が入ってきてお茶を並べ、伯爵に椅子を勧められる。カティアスも私も挨拶の礼をしただけで、何も言葉を発していない。
「ジェルマナ、首の傷は大丈夫だったのか?」
私は首筋に軽く手を触れた。
「はい、すっかり治りました」
「そうか、美しい首に傷跡が残らなくて良かった」
私は視線を落として軽く会釈をした。覚悟を決めて視線を上げる。伯爵の美しい薄緑の瞳が私を見つめていた。でもそこには、想像していたような暗さは無い。憑きものが落ちたような穏やかな瞳。
立ち上がって深く謝罪の礼をする。
「閣下を騙して申し訳ありませんでした」
「聞いたよ。ランヒルド王子に言わされていたんだろう? まさか、君を諜報に使うとは思わなかったな。明らかに向いていないだろう」
「向いていない自覚はあります」
「⋯⋯違うな。あの王子は強かだから、その可能性も考えはしたんだ。でも、信じたかったんだ。君が私に心を寄せてくれて、一緒に過ごす未来を想像すると心が躍った。君の言葉が真実だと思いたかったんだ」
私は何も言うことが出来ない。伯爵は最初から最後まで、私には嘘をつかなかった。真摯に向き合ってもらった。その想いを私は利用して踏みにじった。
「ご自身の立場を危うくしてまで、私の身を案じて頂いてありがとうございました。私はあんなにひどい事をしたのに。何と言ってお詫びをすればいいのか思いつけません」
あの時の伯爵は恐らく素手でも王子を無力化して剣を奪うことが出来た。それを使えばエゼキアス様にも勝てただろう。もしかすると、妃殿下も無力化できたかもしれないとカティアスから聞いている。彼は仕事の気分転換にと、何度か伯爵と剣の稽古をした事があるそうだ。
「兄弟達に負けないよう、父親に騎士の道を示されても応えられるよう、俺には想像もつかない程の鍛錬を続けて来たんだろうな。俺も努力してきたつもりだが、足下にも及ばない」
それほどの腕前だったらしい。
その腕であの状況を自分達に有利に導かなかったのは、人質となった私の身の安全を優先してくれたから。私がいなければ、サーレス国との取引は成功し、ミントン侯爵は国王陛下の後ろ盾を得て、アニス公爵家をも凌ぐ力を得ていたかもしれない。
「君が無事で本当に良かった。謝るのはもういいから」
私は言われるままに、また椅子に腰を掛けた。
「しかし一つだけ、私の名誉に賭けて理解しておいて欲しい事がある」
「はい」
「私はランヒルド殿下には負けていない。最後のあれは勝負を放棄しただけだ」
「え?」
こっそりカティアスの顔を見ると、反応に困っているようだった。最後のあれとは、王子が伯爵を取り押さえた事だろうか。
「書類が妃殿下の手に渡り、外に兵も控えているようだった。妃殿下と王子、それにピレスも加わったら歩が悪すぎる。父に危害を加えられても困る。だから、大人しく王子に下った」
「はい」
どうやら、ランヒルド王子は何度かの面会の度に、自分の方が強かったと伯爵本人に自慢したらしい。どうにもそれが我慢ならず、更に、事情を知る私達にも同じように言い触れているのでは無いかと腹が立っていたそうだ。
(王子は帰りの馬車でも、何度も自慢してた⋯⋯)
でもそれは黙っておく事にした。カティアスが代わりに、その場を取りなしてくれる。
「閣下が本気で立ち会っていない事は、恐らくランヒルド王子ご本人も承知しているのでしょう。だから敢えて、自分が優位だと主張している。周囲も皆それに気がついています」
「そうだといいが」
伯爵が笑い、場の空気が少しだけ明るくなる。笑顔のまま、お茶を一口飲み、静かに息をついた。
「聞いているかもしれないが、私は領地に移る。ここから馬車で一ヶ月もかかる僻地だし、一度も行った事がない土地だ。この事件に関わる事は全て頭から追いやりたい父は、私と領地には今後一切関わるつもりが無いらしい。爵位もそのまま留め置かれたから、領地運営に力を注いで平和に暮らせるよ」
「そうですか」
伯爵の表情を見る限り、悲観してはいないようだ。むしろ期待に満ちた喜びすら見える。
「華やかでは無いけれど海もあるし、農業も畜産も盛んで良い土地だよ。だからジェルマナ、私と一緒に行かないか?」
「え?」
隣でカティアスが身を固くしたのが分かる。
「王都にいれば、派閥だの何だの面倒な事が多いけれど、完全に権力の世界から身を引いた私と僻地に行くのなら、それほど大事にはならないよ。父だって、そのくらいの我が儘は最後に叶えてくれるだろう」
穏やかに向けられる瞳を見て分かった。伯爵は、実現しないと分かっている。私は緊張を解いて息をついた。
「閣下。身に余るお誘いを頂いてありがとうございます。でも、私は行きません」
「行けないじゃなく、行かないか。⋯⋯いつの間にか、ピレスとも打ち解けたようだね。私は、もっとどうにか出来たんじゃないかって、何度も考えてしまう」
伯爵は立ち上がって、少し悪戯めいた笑顔になった。
「一度だけ君を抱きしめてもいいだろうか。生涯の思い出に」
「え?」
「本当に私に悪いと思っているなら、一度くらいいいだろう?」
一度くらいなら。そう思って隣のカティアスを見上げると、彼はため息をついた。
「君が承諾するのなら、何も言うつもりはない。⋯⋯閣下の上質な上着を燃やしたし、俺にも申し訳なかったという気持ちは少しある」
「そうだったな、あれは特別に取り寄せた高価な生地だったんだ。よく燃えただろう?」
私が立ち上がると、移動した伯爵の向かいに立った。そして、優しく抱きしめられる。
「ずっと、こうしたかったんだ。これ以上、父の期待に応えられない事も、王都を払われる事も、見知らぬ土地に一人で行く事も怖くない。でも、君と二度と会えないことは怖い。一度見てしまった幸せな夢を失うことは、たまらなく怖い」
私の肩に額を付け、伯爵は少し震えている。
(泣いている?)
そのまましばらく伯爵は体を震わせていた。時折、風が窓枠を鳴らすだけで、静かな時が流れる。
しばらくすると、カティアスが咳払いをして「長い」とつぶやいた。伯爵は一度強く力を込めると私から離れた。
「何も言わないって言ったじゃないか」
今まで見た中で一番、自然なくつろいだ笑顔だった。カティアスも表情を少し緩めると、伯爵に穏やかな声をかけた。
「政治的な信条は折り合いませんでしたが、閣下の事は尊敬していました。御父上の意向という制約がある中で、閣下なりにこの国の発展を考えて真摯に仕事に取り組んでいた事は分かりました。仕事でのその思いは引き継がせて頂きます」
「頼んだ」
恐らくもう二度と会う事はないだろう。私は心を込めて丁寧に礼をして、伯爵にお別れをした。
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