全てが夢だったら
「カティアス、やめて! 私はいいから、それをランヒルド殿下に渡して!」
「ピレス殿、さっさと侯爵と伯爵を連れて、この場から立ち去るんだ。書類が王子の手に渡れば、ミントン侯爵と共謀したと罪に問われるはずだ。婚約者の命に興味がなくとも、投獄されるのは本意ではないだろう?」
「カティアス、それを寄越せ! ヴィオラ、離れろ! 君も切り捨てるぞ!」
王子が足下のヴィオラを引き剥がそうとする。ヴィオラは泣きながら必死で抵抗する。
「お願い、カティアス! あなたは巻き込まれただけだって、ちゃんと殿下は分かってくれてるから! それをランヒルド殿下に渡して!」
「嫌だ」
私の叫びに、カティアス不愉快そうに顔をしかめた。真っ直ぐな視線が私を射貫く。
「どうして皆、俺が君を嫌っているとか、興味無いとか勝手に言うんだろうな」
「え?」
カティアスはエゼキアス様に向かって、木筒を見せた。
「書類はこの中だ」
カティアスは真剣な顔して書類が入った木筒を持ったまま伯爵の上着に手を掛けた。
「失礼」
戸惑った顔をした伯爵はなすがままに脱がされている。皆が動きを止めてカティアスに注目する。
「お借りします」
続いて侯爵の上着も同じように剥ぐと、二枚を目の前に掲げてエゼキアス様に見せつけた。エゼキアス様の体に緊張したように力が入る。
カティアスはエゼキアス様に視線を向けたまま、王子に向かい合う位置に移動した。ちょうどエゼキアス様と侯爵の中間。意図が分からないのは私だけではないようだ。部屋中の人間が固唾を飲んで見守る。
カティアスは上着を二枚広げた。
「協力しているんだから、教えてくれないか」
この行動はエゼキアス様への協力なのか。恐らく疑問に思っただろう誰もが口を開かない。カティアスは広げた上着を丁寧に床に敷く。
「近衛兵なんだから、君の方が王子より強いんだろう。人質なんて取らないで、さっさと王子を始末すればいいじゃないか。そうすれば、侯爵は邪魔されずに書類を持って国に帰れるだろう」
「侯爵と伯爵は、妃殿下を始末しようとするだろう。それは困るんだ。伯爵は王子よりも腕が立ちそうだから、自分で王子と妃殿下を始末するかもしれない。でも彼は、愛するジェルマナを見捨てられないんだろう? 彼女の命がここにあれば、妃殿下の始末は諦めて書類だけ持って帰る」
エゼキアス様は緊張を少し解いて笑う。伯爵と視線が交わる。その切羽つまった強い視線から、改めて伯爵の想いを受け取る。
(私は騙していたのに)
自らの振る舞いを心から後悔する。でも戦争が起こる事を見過ごすことは出来ない。間違った行動ではなかったのか。やるべき事、人の想い、私には難しすぎる。
カティアスは床に広げた上着二枚を丁寧に重ねる。
「では、戦争を起こす理由は何だ。近衛兵として武勲を上げたいのか?」
「武勲? そんなもの何になる」
腕に力が入り呼吸が苦しい。思わずエゼキアス様の腕をつかんだけれど、びくともしない。
「戦火の中であの方が女王になるんだ。解き放たれた輝きを放つあの方のお姿を見たことがあるか? 王宮で着飾るあの人なんて本当の姿じゃない。魅力のひと欠片だって見せていない」
熱く語るエゼキアス様に、平然とした口調でカティアスは答える。
「あの方とは、皇太子妃殿下のことか? 俺はほとんど目にした事が無いな。そんなに素晴らしいのか」
「ああ、この世の全ての力と美を集めた圧倒的な存在だよ。軍を率いるあの人はどれほど美しいだろう。剣を取り、美しく戦う血にまみれた姿を見ることが出来るなら!」
(痛い、離して!)
呼吸が出来ない。肩の骨が折れるほどに歪められる。痛みで涙が溢れてくる。
「神々しいその姿を見る事が出来るなら! 私は命を捨てても構わない!」
叫ぶとエゼキアス様は大声で笑った。伯爵も、王子も、ヴィオラも目を見開いたまま身動き一つしない。
「君にはそういう未来が見えるのか」
カティアスだけが緊張感のない自然な調子で相槌をうちながら、木筒を上着に乗せて一枚の上着を探って何かを取り出した。
「俺、侯爵の煙草の臭いが大っ嫌いだったんだ。でも、臭いに耐えて良かったと初めて思える」
「お前、まさか! 燃やすつもりか!」
駆け寄ろうとする伯爵を片手を上げて制すると、カティアスは上着から取り出した物、――マッチを刷った。ボッという音に続いて上着が炎に包まれる。薄い裏地が一瞬で燃え上がり大きな炎となる。
「木筒って、どのくらい丈夫なんだろうな」
「止めろ! それが無いとサーレス国との取引が成立しない!」
エゼキアス様の腕が緩み、その隙に私は大きく呼吸をした。何度も何度も大きく息を吸いこむ。
大きく風を感じ、ふわりと花の香りが漂った。エゼキアス様の香りではない。
「ジェルマナ、来い!」
カティアスが真剣な顔で私に腕を伸ばす。
「行きなさい!」
女性の力強い声と共に背中が強く押される。エゼキアス様の腕から離れて数歩駆ける。勢いがついた体をカティアスが抱き留めてくれた。
「お父様!」
なぜかお父様に抱きしめられたように思えて思いきりしがみついた。振り返るとエゼキアス様と、裸足で踊るように優雅に動くスヴェアヒルダ妃殿下が組み合っていた。見る間にエゼキアス様が組み敷かれて妃殿下に剣を奪われる。妃殿下はそれを王子の方に投げて艶やかに微笑んだ。
「私が手を取っただけで狼狽したあなたは、組み敷かれてどんな気分かしら。嬉しい? 光栄でしょう?」
「ああ、貴方は。本当に貴方は唯一無二の存在だ」
エゼキアス様は妃殿下を見上げ、恍惚とした表情で笑う。その目は沼のように暗く濁っていた。
「ジェルマナ、傷を見せろ。⋯⋯それほど深くないな」
カティアスが私の首の傷を気にする。でも、そんな場合ではない。炎を上げる木筒に向かおうとすると、伯爵が既に足で踏んで消火を試みていた。
「くそっ! 書類が!」
足で何度も踏んで炎を消し、崩れた黒焦げの木筒の中から、少し焼けた書類を慎重に取り出している。
「あーあ、無事だったか⋯⋯」
緊張感の無いカティアスの声に、私は抱きしめられた腕の中で身をよじって顔を見上げる。
「どうして、どうして書類を!」
カティアスは強く私を抱きしめると耳元で囁いた。他の人には聞こえないよう呟くように。
「あれは署名が無い偽物だ。本物は俺が持っている」
「え?」
侯爵は置物のように座ったまま、何も見えていないような顔をして呆けている。王子は自分の剣を腰に戻し、エゼキアス様の剣を拾うと、ヴィオラを振り払って伯爵に斬りかかった。伯爵が「焦げてもまだ中身は無事なはずだ」と剣を避けながら、中身を確認しようとする。妃殿下が何をしたのか、エゼキアス様は既に意識を失って力なく床に寝そべっている。
「俺は正直なところ、この状況を理解出来ていない。書類をどうすべきか判断つかない。燃やすか、王子に渡すか、妃殿下に渡すか。まあ、伯爵に渡すという選択肢はないだろう?」
「それは無い」
「君の方が事情を把握しているみたいだ」
カティアスは体を離して、私の顔をしっかりと見た。視線が交わる。彼の瞳からは、沼のような湿った暗さを感じない。夜の闇のような黒さなのに、お父様やお母様やお兄様達と同じ。温かくてまっすぐで明るさを感じる瞳。
「俺は君の判断を信じる」
そう言うと、騒ぐ伯爵に気を取られている皆からは見えないように、上着をめくって背中をごそごそと探ると、くしゃくしゃになった書類を私に持たせた。
「二枚?」
「サーレス国の宰相に渡したのは、交渉途中で記した署名が入っていないものだ。何の効力も無いよ」
「あなたって、あなたって、王子と同じくらいの策略家なのね!」
「マッチはここにある。本当に燃やすことも出来る。どうする?」
「妃殿下に渡したい」
「分かった」
カティアスが立ち上がり、私を支えて立たせてくれる。伯爵から焦げた書類を奪おうとしていた王子は、私の手元に目を留めて叫び声を上げる。
「ジェルマナ、それは!」
私はカティアスの顔を見て彼の同意を確認すると、妃殿下に二枚の書類を手渡した。妃殿下は素早く二枚に目を通す。
「驚いた。サーレス側の書類をどうしたものかと思っていたのよ。ピケ!」
天井に向かって声を掛けると、懐から何かを出して上の階に放り投げた。弱った声が返事を返す。
「それを使って外に控えている兵を呼んでちょうだい。サーレス国の人間を追わせているの。拘束する必要が無くなったから兵士を連れ戻すのよ。急所は外れてたんだから少しは動けるでしょう?」
「妃殿下! そんな手配をされていたのですか!」
王子の驚きに明るい笑い声をあげて、聞いた事が無いくらいに快活な口調で答える。
「あなたは詰めが甘いのよ。ピケもまだまだね。まあ、私のあなた達への教育が不足していると言う事でしょう。⋯⋯最悪の事態を考えて複数の手を打つのが定石。密談を取り押さえるのに失敗したら、全員の口を封じるしか無い。後の始末が面倒だから出来るだけ避けたかったのよ。カティアス・ピレス、お手柄ね」
カティアスが私を床に座らせると、妃殿下の前に跪いて頭をたれた。
(全員の口を封じるって、どこまでの人間だろう)
全身の皮膚がぞわりと粟立った。私は妃殿下の事を何も知らなかった。エゼキアス様を簡単に制する事が出来る武術力、王子よりもピケよりも的確に先を見て手を打つ判断力、この中では一番、エゼキアス様が妃殿下の本質を見抜いていたのだろうか。
「ジェルマナ、婚約者に感謝なさい。私が近衛兵を無力化する機会を待っているのに気がついて隙を作ったのよ。もう少し遅かったら、あなた窒息したか背骨が折れるかで死んでいたんじゃない?」
「あ、ありがとうございます」
「私じゃなくて婚約者にお礼を言いなさいってば」
緊張が一気に解けて、頭が働かなくなってしまった。妃殿下はいつの間にか伯爵を床に引き倒して押さえ込んでいる王子に声を掛ける。伯爵の腕から血が流れ、王子の顔も血に汚れている。
「それから、ランヒルド。後でジェルマナに謝って、ヴィオラにもちゃんとお礼を言いなさい。彼女が止めてくれなかったら、あなたは人の心を完全に失っていたでしょうね。道具としては便利だけど、そんなことをしたら私があの方に叱られてしまうわ」
「あの方?」
ヴィオラが絞り出すような声をあげる。
「もちろん、私の最愛の夫のことよ。早く帰って、あの可愛い顔を見たいわ。ランヒルドは似ているけど、やっぱり少し違うから物足りない」
妃殿下は美しく高らかに笑う。
何もかも全て夢だったらいいのに。あまりに多くの事が起こりすぎてもう、何も考えることが出来ない。力が入らなくて、カティアスにしがみついた。やっぱり父にしがみついているような気持ちになる。
「お父様」
カティアスはしっかりと受け止めて、お父様のように言ってくれた。
「もう、大丈夫だ。頑張ったな」
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