まるで深い沼のような
すっかり心がくじけてしまった私とは違い、ヴィオラは平然とした顔で王子からの指示を受けている。後でヴィオラに聞けばいいだろうという甘えを見透かされて、何度も二人に叱られる。
夜、眠る時には怖くなってしまい、ヴィオラのベッドに入れてもらった。呆れた顔はしたけれど優しく受け入れてくれた。
(ヴィオラが一緒で良かった)
それでも私は、鼻を切り取られる夢にうなされ、ヴィオラに「まず最初は髪からよ。痛くないから大丈夫」と全く心が安まらない慰めをもらった。
しかし、どんよりした気分は翌朝にエゼキアス様の顔を見てすぐに晴れた。王子から頼まれた町での仕事を済ませる為に、私達の護衛としてエゼキアス様ともう一人の兵士が割り当てられていた。
「ジェルマナ、手分けしましょう」
ヴィオラは行き先を控えた紙に印を数個付けて私に手渡した。
「印がついた所はあなた。残りは私」
「え?」
「兵士が二人付くのなら、二手に分かれても問題無いでしょう。その方が早く用が済むわ。じゃあ、あなた。私と一緒にお願いします」
エゼキアス様を素通りし、もう一人の兵士に声をかけた。その兵士も、ヴィオラとエゼキアス様が婚約していると知っているのだろう。戸惑った顔をしてエゼキアス様を見た。
「ヴィオラ、あの。それはちょっと」
いくら何でも不自然だろう。ヴィオラの袖を引くと嫌そうな顔をされた。
「近衛兵ともあろうお方が、婚約者と二人で出歩くなんて、仕事を忘れて浮かれていると思われてしまいます。あなたの評判を落とすのは不本意です。宜しいですよね?」
ヴィオラがエゼキアス様に向かって言うと、彼は苦笑した。
「婚約者殿がそう望むのであれば。では、ジェルマナ嬢。私でご容赦頂けますか?」
「はい!」
エゼキアス様と二人で町を歩く。考えただけで背中に羽が生えて飛んで行きそうな気分だ。彼は町で目立たないようにと細身の剣を腰に下げただけの軽装だった。いつもとは違う姿がまた素敵だ。エゼキアス様の方も私の衣装を見て、柔らかく微笑む。
「この国の衣装だね。よく似合っている」
「ありがとうございます」
褒められて私は顔が熱くなってしまう。私とヴィオラも町で目立たないようにと、この国の平民に近い服装を選んでもらった。色は地味だけど身動きしやすくて、後ろ姿の意匠がとても可愛い。私達二人は恋人のように見えるかもしれない。
「昨日、王宮でお見かけしたスヴェアヒルダ妃殿下も、この国の衣装をお召しだった。私には我が国での豪奢な衣装の時よりもずっと、妃殿下の魅力が引き立っているように思えた」
「私にも、こちらにいらっしゃる方が、ずっと健やかに見えます。⋯⋯でも、妃殿下にお仕えできなくなるのは嫌です。ちゃんと私達の国に戻ってきて欲しいです」
エゼキアス様は立ち止まって王宮を振り仰ぐ。
「そうだね。私もあの方にお仕え出来る事を誇りに思っている。あの方にお目にかかれない生活なんて考えられないな」
「近衛兵の方々にも妃殿下は慕われているのですね。あの、もしかして嫌われている王族もいらっしゃいますか?」
「ははは、答えにくい事を聞くね。――でも、今日は特別だから話してしまおう。第四王子は妙に腕に自信を持っているから、警護中に急に素手で挑みかかってくるんだ」
「まあ!」
「怪我をさせてはならないし、かといって手加減しすぎると機嫌を損ねられるし、戯れとはいえやっかいだ。皆が付くのを嫌がる」
「それは面倒ですね」
町の空気がそうさせるのか、エゼキアス様はくつろいだ雰囲気で、いつもよりも少し踏み込んだ話をしてくれる。
(町だからじゃなくて、もしかして私と過ごす時間を楽しんでくれるようになったのかも)
心が近くなったような気がして、気持ちがふわふわとどこかに飛んで行ってしまいそうだ。永遠にこの時間が続けばいいのにと夢見てしまう。
行きたい場所をエゼキアス様に伝えて、地図を見ながら場所を探す。彼もこの町には不慣れで、一緒に迷いながら、たまに周囲に尋ねながら進む。
「お手間をおかけして申し訳ありません。王宮でスヴェアヒルダ妃殿下やランヒルド王子の警護をされていた方が楽でしたよね」
「いや、そういう事はこの国の兵がする。ここでは、ほとんど仕事をさせてもらえない。体が鈍らないように武術の稽古をしているけど、それだけではつまらない。せっかくこの国に来たのだから町を探検できて楽しいよ」
「探検! 確かにそうですね」
「ヴィオラが、仕事を忘れて浮かれていると言ったのも、あながち間違いではないな」
空色の瞳を優しく細めて笑いかけてくれる。胸の鼓動が躍るように高鳴る。
「それにしても、ずいぶん周りを警戒するね。そんなに治安が悪い国ではないよ」
「だって! ランヒルド殿下がおっしゃったんです。耳とか指とか切り取るような悪い人がいるから気をつけろって」
「え? ずいぶん物騒だな。誰にも君を傷つけさせたりしないから安心して。心配なら、もう少しこっちに寄るといい」
恥ずかしくて数歩の距離を置いていたけれど、隣に並んでくれた。ふわりと心地よい花のような香りがする。
「そうだ」
思いついたように、エゼキアス様が胸元からハンカチを取り出した。
「あ、それは!」
見覚えのある刺繍は私が施したものだ。誕生日の時に贈ったあのハンカチだ。
「大切に使わせて頂いている。この刺繍の意匠は他では見ないね。とても素敵だ」
「お使い頂けて嬉しいです。これは、私の父もよく好む意匠で、折に触れ刺繍をしろとねだられます。父の元で暮らしていた時には、父が仕事をしている目の前で刺繍をさせられましたよ。自分のために娘が手間を掛けるのが嬉しくて仕方ないんですって」
結婚の話を勝手に進めてしまった事を怒って、冷たい態度のまま別れてしまった。人質の事を覚悟して泣いていたのだとしたら気の毒な事をしてしまった。知っていたら、もっと優しい言葉を掛けて旅立っただろう。
(お父様、ごめんなさい。帰ったら優しくしますから)
急に恋しくて会いたくなってしまった。幼い頃は、外に出ると父にぴったりくっついて離れなかった。父の方も私を離さないから、周りはずいぶん呆れていたと聞いている。
「君の家は、家族の仲がいいんだな。悪い意味に受け取らないで欲しいんだけど、上流貴族の家らしくない。そういう家族の愛のようなものを持てるのは、もっと下層の暮らしだけだと思っていた」
「そうでしょうか。親族はみな同じ様な感じですから、他の家と違うとは気がつきませんでした」
晩餐会や舞踏会、お茶会のような催しでは、皆も対面を取り繕って見せないだろう。多少、家庭に踏み込んだ事があるのはカティアスの家くらいだろうか。
「確かに、私の婚約者のご両親は毅然とされていて、うちのような浮ついた雰囲気は無さそうでした」
義父は表情も物言いも厳しい方だし、義母は絶対に自分では話をせずに影のように付き従う侍女に耳打ちしかしない。夫や息子に対してすら、侍女経由でしか話をしていなかった。変わった家だと思ったけれど、実は逆で、うちの方が変わっていたのかもしれない。
「私は実の母とは話をした事がない。育ての母とも、ここ数年は話をしていない。姉妹は、もう顔すら思い出せない。父とは家の運営や仕事にまつわる話はするけれど、私的な交流は一切無い」
「それが、普通でしょうか」
エゼキアス様は「町の全体を見たい」と、高台に向かった。汗ばむくらいに気温が上がっているのに、話の内容のせいだろうか少し寒気を感じる。
「実際のところ、私も普通は知らない。ヴィオラの所も同じ様な感じだよ」
「え? でもヴィオラのお父様は彼女に甘いと聞いています」
「甘い⋯⋯そうだな。全ての希望も我が儘もきいてやることが甘いと言うなら、そうだろうな。娘には興味も関心も無いんだよ」
「そんな⋯⋯」
「そんな家、信じられない? 君は可愛いな。もっと教えてあげようか」
エゼキアス様は軽く笑った。でも私の好きな笑い方ではない。少しアデルバード伯爵に似た、嫌な感じの笑い方。たまにランヒルド王子からも似た空気を感じる事がある。
「父の妻は、女の子しか産まなかったんだが、どうしても父は跡継ぎの男子が欲しかった。恋人に子供を産ませると面倒だと思ったんだろうな。後腐れ無いように、貧しくて嫁ぎ先に困っているような貴族の娘の数人と契約を結んだんだ。そのうちの一人が無事に俺を産み落とし、莫大な報酬と引き換えに手放した。私はその女性の名前すら知らない」
母親の顔も名前も知らない。ぬくもりを全く知らない。でも育ててくれた母がいるはずだ。
「やっと手に入れた男子だから、大切に育てられたよ。衣食住、何不自由なく、教育も騎士になる手ほどきもしっかりと受けることが出来た」
幸せに育って良かった。ほっと息をつくと顔をのぞき込まれた。その瞳は暗く、そのまま奥底まで引きずり込まれそうだ。美しい空色をした上澄みの底に毒が重く淀む沼。頭の奥から、近寄ってはいけないと危険を知らせる声が聞こえる。
「誰かと触れ合って、笑い合って、気持ちをぶつけ合う。そういう暮らしって、どういうものなんだろうな。君と一緒にいたら、それを知ることが出来るような気がするのは何故だろうな」
「え?」
「私と似ているヴィオラではなく、君のような女性が婚約者だったら、私は違う道を選んでいたのかな」
「違う道ですか?」
「そうだよ。手に入らないものに焦がれるのではなく、手元の小さな幸せを大切にするような道。私が選べなかった道」
この人はヴィオラを愛していて、届かない想いに苦しんでいるのだろうか。後ろめたさで胸が締め付けられる。
「ヴィ、ヴィオラと私は仲良しですから、お二人が結婚した後も、近しくお付き合いさせて頂けたら嬉しいです。どうやら、うちは変わった家のようですから、愉快なお話はいくらでもお聞かせ出来ると思いますよ」
何を言えばいいのか分からなくなってしまった。でもエゼキアス様は私の後ろめたさには気付かない様子で、いつもの調子に戻った。
「それは楽しみだ。王宮でのヴィオラとの楽しい話も聞かせて欲しいな。普段の二人は、妃殿下とどういう話をするの?」
私は深く息をつく。思ったよりも緊張していたようで一気に手足に血が巡り暑さを感じた。
一日ずっと町にいていいからとヴィオラはしつこいくらいに念を押したけれど、私は言いつけられた用が全て済んだ後にすぐ、疲れたと言って王宮まで戻してもらった。しばらく話に付き合おうかというエゼキアス様の申し出を断り、カティを抱きしめて長椅子にくるまってヴィオラの帰りを待った。
エゼキアス様の深い沼のような瞳が、そこに引きずり込まれそうな恐怖がずっと、私の中から消えなかった。
「お父様、会いたい。やっぱり帰りたい」
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