全国梅雨編

46 夢見

 なめらかな幸せが輪郭を撫でていくような、そんな夜だった。あと数分したら、ナユタは仕事から帰ってきて、私は夕飯の下準備をしている。

 制服を脱ぐ彼を想像して、たまごを割る私。たったそれだけの暮らしのひとときが、同棲をはじめてからは、新鮮で大切なものに思えた。

 冷凍のミックスベジタブルを解凍している間に、玉ねぎをみじん切りにする。ざくざくって慣れない包丁を落としていく最中、玄関で物音がした。彼が帰ってきたのだ。

「おかえりなさい!」

「ただいま」

「駆除はどうだった?」

「今日も大変だったかな」

 毎日と変わらないやりとり。それがずっと続いていることが、私にとってどれほど素敵なことか。

「今日はね、オムライス。はやくお風呂入っちゃって、出たら手伝ってよね。わたしだって疲れてるんだから」

「あー、うん」

「なあに、その目」

「りっちゃん、ぎゅーしてほしい」

 彼は強面の見た目によらず、たまにこうして甘えてくる。そんな私しか知らない一面を、ひとりじめできることが嬉しかった。

「まったく。ぎゅーしたら、お風呂行ってよ」


 ❖


 ふたりの熱がまだ冷めない廊下を残して、脱衣所で服を脱ぐ。インナーを脱ぐと、髪の毛から水滴が身体に落ちて、今日の雨が強かったことを思い出せた。梅雨時期の戦闘は水っぽくて、たのしい。

 液体で傷が治る自分にとって、雨の日は独壇場と言って過言ではなかった。再生できることで思い切って動けて、例年この時期の駆除数は他月と比べても多い。


 お風呂に入ると、身体が冷えていたのを実感できる。お湯にだんだんと溶けていく感覚が、湯気を通して香る。雨水が髪の毛から首筋を伝う。

 傷口が沁みる。しあわせに眠くなって、意識が宙へ浮く。目の前がぐるぐると回転して、夜の始まりに酔って、お風呂のドアが開いた。

「ナユタくん、オムライスできたけど」

「そっか、ありがとう」

 裸のままで返事をして、異質な感じがした。エプロン姿の六花は、そのままゆっくりとお風呂場に入ってくる。なんだろう、六花がいつもの六花じゃない?

「できたよ、オムライス。ナユタくん」

「りっちゃん……?」

「ナユタ、できたよ。オムライスくん。できたよ」

 同じ言葉を繰り返す六花は、よく見ると解像度が低くて、輪郭がぼんやりとしている。その輪郭が急に崩れて、バナナの皮のように表面がめくれた瞬間、それは怪異へと姿を変えた。

「ナユタライスくん、オムできたよ。できたナユタオムよ、くんライス。できたよくん、ナユタ」

 結局は水に誘われて、追い詰められた。秋刀魚の日本刀は怪異の背後、脱衣所で光っている。思い出すのは、かつてニンジンと戦った夜。他人にしたことは必ず返ってくるのだ。


 ここで、殺される。命がそう叫んでいた。六花の姿を残した異形から、肺が潰れるほどの腐敗臭がする。伸びてくる触手を避けて、壁に穴が開く。掠めた換気扇が落ちる。

 チカチカと電気が乱れて、自分はタベモノを素手で殴った。中毒覚醒も乗らない、ただの人間の拳。それでもそれは鈍く、強く、六花の腹を捉える。

「ひ、ひどい! なんてことするの」

 愛おしい声が鼓膜を揺らす。そんなことで、手が止まる自分ではもうない。今までどれだけの擬態する敵を、斬ってきたか。殺してきたか。

「なんてするの、ことひどい! するのひどいことなんて、なんてこと!」

「うるせえ! その化けの皮、剥ぎ取ってやる」

 湿っぽいバスタブを踏み締めて、次いで蹴りを入れる。敵が少しだけバランスを崩した瞬間を見逃さずに、懐を抜けて脱衣所の秋刀魚を取った。

 振り向き際の一閃は、スパッと立花の右腕を斬り落として、お風呂場が赤く染まる。血飛沫を秋刀魚が跳ね、刀に紫電が伝う。

「い、いたい。なゆたくん、いたいよう……」

「擬態する相手が悪かったな。六花は俺に斬られて、泣くようなヤワな嫁じゃねえよ。いつも尻に敷かれてるんだ!」

 つまり、斬って泣いてる時点で間違いなく、六花じゃなくて、ニセモノなのだ。その太刀筋に迷いはない。六花を八つ裂きにして、背後から襲いくるキムチとサクラを斬る。


「斬刀——秋刀魚の叩き」

 風呂場から無数の秋刀魚が跳ねて、すべてを喰ってゆく。その姿が味方だろうが、敵だろうが関係ない。魚群の中心で、キムチは悲しく愛を叫んで、サクラがその場で倒れる。

「ナユタ……今までありがとう」

「わ、わん」

 お風呂の湯気が煙に巻き、視界がまたぐるぐると回った。六花の死体も、キムチの亡き骸も、ぼんやりと消えていき、自分は気づくとお風呂に浮かんでいた。


 ◇


 夢を見ていた気がする。あまり覚えていないけれど、酷くつらい夢だったと思う。お風呂場の天井に水滴がついている。それを眺めてると、だんだんと大きくなって、自分の額に落ちてきた。

 まぶたを閉じて、顔を拭ってから再度、目を開けるとそこは中華街の地下だった。シナモン香水が鼻を刺して、麻雀牌のネイルが施された華奢な手が、あの日のサイコロを握っている。それは娘々ニャンニャンだった。

「ねえ、ゲームしようよ。かんたんだよ。お店から借りた、このサイコロを振って出た目が大きい方が勝ち。それで負けたら——」

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