16 野良
なぜ、虫たちはラップを口ずさむのか。いまも目の前で歌う蜘蛛と闘うなかで、それが徐々にわかってきた。
「決着をつける黒と白、能ある虫と無能の人、グッドポイント稼いだ不慮の事故、極楽につなぐ蜘蛛の糸」
糸を吐く蜘蛛は、ビルの間を飛んで移動する。その速度は、韻を踏んでいるときと、踏んでいないときでは明らかな差があった。
韻を踏むという行為。それは横浜のシャオリンが気絶してから強くなったり、ホンファさんが亡くなって雨が降ったりしたのと同じで。虫たちにとって「制限」だったのだ。
「捉えた秋刀魚が格好の餌食、三度の飯にも颯爽と撃沈、消えない思考や葛藤の歴史、これが原宿ダンジョンの景色」
彼が韻を踏み終える頃には、頭上は蜘蛛の巣で覆われていて、竹下通りに不気味なアーケードができた。そこから一本の蜘蛛の糸が垂れてきては、楽園から大量のお菓子が溢れ落ちる。
「これで目標の数、韻が踏めました」
「なんだ、これ」
「いまにわかりますよ」
そのお菓子は、地面に着く前には毒蟲へと姿を変える。慈悲のない虫の雨を、その流れを、俺はただ見上げては、力強く汗を拭った。
❖
空の裂け目から虫が降るのを、ボクは振り返って睨んだ。口に咥えた人間はなにか叫んでいるが、猫のボクにはわからない。一方、犬の言葉はというと、訛りがすごかったが理解できた。
「おおきなねこくん。ありがとう」
「礼はいらないよ。それが命令だから」
ボクはすこしだけ、ナユタを真似して言った。それが恥ずかしくなって、クレープ蛭を振り払って改札口に飛び込む。その姿を、おもしろいって彼女は笑った。
「どうして笑うんだ」
「だって、ねこくん。ねこなのに、人の言うことを聞くんでしょ」
にやにやとする彼女の横顔に、すこしだけドキドキして、ボクが犬だったらこんな子と付き合いたいなんて思った。
「キミはボクがねこだと思うんだね」
「ちがうの?」
「うーん、それがボクにもわからないんだ」
自分が猫なのか、バケモノなのか。今もよくわからないで生きている。それもこれも、ナユタの優しい悪事のせいだって、あの日の夜を思い出すのだった。
ボクは公共団地のすみっこで、確かに猫として生まれてきた。当時はボクにも群れがあったけど、一匹車に轢かれて、一匹カラスに食べられてとするうちに、いつの間にかひとりになった。
ある日、なんとか生き延びようと、ビルの間でゴミを漁っていた夜に、ボクは彼——ナユタに出会った。
「おい、クソネコ!」
「にゃ?」
「そこは俺が全部漁ったからなんもねぇぞ」
焼き魚っぽい匂いのする彼は、鋭い口調とは似つかない優しい動きで、ボクを手招いていた。
「てめえ、ぼろぼろじゃねぇか」
「にゃあ」
恐る恐る近づくボクを、彼はしかたねぇって抱き上げてから、ポケットに入ってたパンをくれた。カビの生えた丸まったパンの美味しさを、ボクは今でも忘れられない。
「いい食いっぷりだな!」
「にゃ」
「いっぱい食って、大きくなれよ」
不思議と彼は、自分の食べ物をボクに食べられても、嬉しそうにしてた。そして、おまえもひとりなんだなって優しく撫でてくれた。
それからは、彼についていき、一緒に暮らすことになった。屋根のあるところで、ごはんも貰えて、しあわせだった。
「おい、サラダバイキングに行くぞ!」
時おり彼は、そう言ってボクを公園に連れていった。猫草やシロツメクサ、タンポポなどたくさんの草を一緒に食べては、にがいって吐き出す彼が愛おしかった。
「お前。よく、こんなもん食えるな」
「にゃあ!」
「俺はサラダ嫌いだわ。やっぱり食うなら肉に限るな。メンチカツとか、ステーキとか、焼き肉とか」
夢のような料理をあげるなかで、ボクのお腹は大きく鳴った。彼はそのとき、いつか一緒に肉を食おうなって切なく笑ってた。
たまに彼は傷だらけで帰ってくることがあった。そういう時でも、手にはビニール袋が下がっていて、ボクのごはんは忘れずに買ってくる。
「わるい、腹減ったろ」
「にゃ?」
「今日は奮発して缶詰だぞ。うれしいだろ」
そう言う彼はというと、いつもと変わらないカビたパンを齧っている。それを見て、自分のなかにあるなにかが、確信に変わった。彼はボクのために、闘っているんだ。
「にゃあ」
「なんだよ、遠慮せずに食えよ」
ボクはどうしたらいいかわからず、ただひたすらに目の前の缶詰にかぶりついた。できるだけ長く元気でいることが、唯一の恩返しになると思った。
それでも野良猫の寿命は短く、儚い。暗い地下室のなかでボクは、徐々に身体が動かなくなって。それに比例するように、彼も傷をつけて帰ってくるようになった。
やがて喉元の腫瘍が破裂して、自分でごはんが食べれなくなった頃。仰向けに寝るだけのボクに、彼はあの日と同じ鋭い目を向けて、悪魔のように笑った。
「おい、ありがたく思え。今日のごはんは肉だぞ。見た目は悪いが、50万もする高級なやつだ」
その手にはいつもの缶詰やパンと比べると明らかに禍々しい、うねうねと芽の動く肉片があった。
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