読め
1103教室最後尾左端
①
作家、
とにかく歩かなくては。それもできるだけ早く。赤崎はそれだけを考えて家を出た。行く当てなどはなかった。刺すような街の夜風を真っ向から受けながら、赤崎は、「どうしてこうなったのか」と漠然と過去の自分を責めた。
幼いころから本を読むことが好きで、好きが高じて自分で小説を書くようになったところまではいい。ネットに投稿した自作が編集者の目に留まり、学生時代に書籍化にまでこぎつけたのは幸運としかいいようがない。
しかし、この幸運の時期がよくなかった。若さゆえの無鉄砲な思い上がりと、世間的な自作への評価、そして就職活動の時期が一致してしまったことを、不幸と言わずになんといえばよいだろう。赤崎は物書き一本で飯を食うことを決めてしまった。
出版不況と言われて久しい今般、赤崎の作品は、デビュー作こそまずまずの部数がはけたものの、二作目以降はまったく買い手がつかなくなった。気がつけば出版社側も彼の作品を書籍にするのを見送るようになっていた。
こうして赤崎は、齢25にして事実上の無職となった。彼を支えていたのは雀の涙ほどの印税収入と、自分が創作者であるというちっぽけなプライドだけであった。
「げほっ、がほっ、こひゅ、こひゅー」
気が付くと、駅が目の前にあった。ほとんど走るような速さで何も考えずに歩き続け、赤崎の喉からは自分のものとは思えない奇妙な音がでていた。乾いた咳が何度か出て、反射的に吸い込んだ夜の冷たい空気にまたむせた。白く泡立った唾が糸を引いて地面に垂れた。
赤崎の心をとりわけひどく締め付けていたのは、先ほど編集者から届いた一本のメールだった。いつもの「お見送り」メールだ。赤崎の作品は書籍として出版するに足りない品質であるという評価が下されたのである。
かつては流行や編集者の勘といった不確かなものが出版物が世に出る基準になっていたが、現代においてその基準はAIによるスコアリングに置き換わっている。
世界中の人間の趣味嗜好はビッグデータとして日々蓄積・分析されており、どのような作品がどのくらい売れるのかは、ほとんど分かっている。
今や出版社は、作品を事前にAIに読み込ませ、推定売上部数や想定される社会的反響などからスコアリングし、書籍とするかどうかを決定していた。赤崎の作品はこのスコアが低く、書籍として販売しても投資分を回収できないと判断されたのである。
赤崎はこのところ三度連続で書籍化を断られている。さらに悪いことに、赤崎は作品を重ねるごとにこのスコアを減らしていた。どれも自信作であり、特に今回提出した作品を書き上げたときの手ごたえはデビュー作をはるかに凌駕していた。それが出版すらされない。
もうどうすればいいかわからない。書けば書くほどにヘタクソになっているということだろうか。こんなことで、これから自分はどうやって生きていけばいいのだろうか。
赤崎は震える手で煙草を一本取り出した。今では珍しくなった紙煙草だ。ポケットの中で大分湿気っていたが、無理やりに火をつけて吸い込んだ。木炭でもかじっているいようなひどい味だった。
「ここは禁煙ですよ、赤崎先生」
赤崎の背後から声がした。声の主はすぐに分かった。
「……黒木か」
「おや、よくわかりましたね」
黒木は驚くそぶりを見せた。赤崎とは対照的に妙に機嫌がよさそうで、頬には寒さとは関係のない赤みがさしている。そこらの店で一杯ひっかけてきているようだ。
「その様子じゃ、ダメだったみたいですね。今回も」
「うるさい。お前には関係ない話だ」
「関係ないだなんて冷たいなぁ。かわいい後輩じゃないですか」
黒木は赤崎の学生時代の一つ下の後輩だった。同じ文芸サークルに所属しており、卒業後しばらくしてから赤崎の後を追って作家になっていた。
「どうして俺の周りをうろちょろしてるんだ」
「心配してるんですよ。赤崎先生ほどの人がこのまま終わってしまうなんて、もったいないですからぁ」
赤崎から遅れること数年、デビューした黒木は赤崎とは対照的にするすると部数を伸ばし、デビュー作以降もいくつもの作品を書籍として世に出し続けている。勢いのある若手作家として、結構な知名度を誇っていた。
「あのころはこんな風になるなんて思いもしませんでしたねぇ。学生時代は赤崎さんは雲の上の存在でしたから。それが今や……」
「……ほうっておけ」
「あらら。気を悪くされちゃいました? でも事実ですからねぇ。いくらフィクションで飯を食っているとはいっても、現実から目を逸らしちゃいけませんよ」
黒木は声をあげて笑った。わざとらしい、目の前の赤崎を煽るような笑いだった。
挑発にのってはいけない。もう一本火をつけようかとポケットをまさぐったが、どうやら先ほどの一本が最後だったらしい。赤崎は黒木に動揺を悟られないよう、奥歯を強く噛んだ。
赤崎は昔から黒木のことを苦手にしていた。いや、毛嫌いしていたといってもいい。彼本人のこと以上に、彼の作品が嫌いだった。
どこかで見たことがあるような登場人物と設定が切り貼りされているだけ、今売れている作品をマイナーチェンジしているだけ、どこまでいっても作者の顔が見えない。
仮に黒木の作品を「つまらない」「くだらない」と評したところで、彼は全く傷つかないだろう。自分から生まれた文章でない以上、悪いのは自分ではない。そんな無責任さが文体から伝わってきていた。
しかし、そんな作風だったからこそ、黒木は今、作家として成功していた。
「学生当時、先生が僕に言ったこと覚えてます? 『これ、君が書く意味ある?』って。あれ、当時は傷ついたなぁ」
黒木は赤崎の顔をのぞき込むように首を傾ける。反応を見て楽しんでいるようだった。
「でも、今思えばあの言葉って示唆的ですよねぇ。あの言葉のおかげで僕は自分の立ち位置を明確にできたんですから……。で、どうします? これ、使わないんですか?」
黒木がそっと差し出したマイクロチップを、赤崎は汚物であるかのように振り払った。灰色のコンクリートの上に、カツっと軽い音をたててチップが転がった。
「俺はそんなものは使わない。それを使ったら、もう作家と言えない」
「いい加減、意地を張るのはやめましょうよ。切羽詰まってるんでしょ?」
「……どうして俺に構うんだ」
「いやぁ。特に大した理由はないんですよ。でも、あのとき僕に偉そうな口を叩いた人が、無様にプライドを捨てる瞬間、どんな顔をするか知りたいじゃないですか」
「クソ野郎が」
「ははは。ひどいなぁ。それ、あげますよ。必要だったら拾ってください」
黒木はそう言って去っていった。足取りは軽く、スキップでもしそうな勢いだ。まるで、この後何が起こるか全部わかっているようだった。
赤崎は怒りに任せて、チップを踏みつけようと靴を持ち上げた。
『残念ながら、今回はお見送りさせていただきます。次回の挑戦をお待ちしております。総合スコアは81(出版ライン:150)キャラクターに立体感がなく……』
「……くそったれ」
赤崎は、ゆっくりと足を降ろした。チップは踏まなかった。
言葉にならない色々が脳の中央から灰色の液体となって溢れてくる。その液体が酸のように脳の皺を溶かして、徐々に単純にしか物事を考えられなくなっていく。
「……一回だけ、一回だけだ。知名度さえ手に入れば、ある程度の融通はきく。有名になってから、自分の思う通り書けばいい。今回だけ、今回だけ……」
うわ言のようにつぶやきながら、赤崎は跪き、チップを拾った。何か、大きなものに屈したような気がして黒々とした血だまりのようなものが心臓から染み出すような気がした。
その二か月後、出版された『いつか猫を飼うその日まで』は、デビュー作を大きく超える部数を売り上げ、作家、赤崎慶の代表作となった。
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