オリーブの木

花ケモノ

オリーブの木

 その町は言わば宿場町で、先を四方大きな都市や港、重要な交易地が取り囲んでいた。町の中は賑わしさとはとおいものの、一夜か、少し長い滞在の宿をとる為にいつも旅人がひしめいていた。街の入口は広場になっていて、白茶色のレンガが円状に敷き詰めてある。空は大抵快晴で、町は乾いていた。レンガは積年の渇きと風の為に削られ、砂埃を撒き散らしていた。風情があると言われれば確かにそうだが、ここに住む宿屋の主は商売道具が端から埃だらけになるとこれをやっかいに思い、寄る旅人は疲れた挙げ句に砂まみれになるのを煩わしく思った。しかしながら上等な太古の神殿を思わせるのも確かな事ではあった。おとぎ話の中の夢想のアラビア、はるかな天空の神の住まい。経年がなせるわざに、町に立ち寄るのが芸術家であれば、絵にし、詩を書くほどには風情があった。芸術家でなければ時の便りに妻君、友人宛に筆をはしらせるほどには、趣きのある景色だった。

 

 広場の中央に、一本のオリーブの木があった。伴侶の居ないオリーブに実はならない。実りなくともオリーブの木は愛されるものだし、何より空想の神殿広場には一本のオリーブの木が似合った。他の何を持ってきたとしても、このオリーブの木より似合うものなど無いだろう。

 

 その女が、どこから来て、いつからそこへ居るのか誰も知らなかった。女はいつもオリーブの木の周りに居て、座り込んだり、重なり合う木の葉の隙間から漏る快晴の空を見上げて感嘆のため息を漏らしていた。

 

 女の豊かな髪は品のある赤っぽい金茶色をしていた。こんもりと健康そうな額にかかるおくれ毛までもみごとな巻き毛で、女はそれを頭のてっぺんにより近い所でわずか結い上げ、残りは腰まで垂らしていた。労働服、晒しただけの生成り色の木綿のワンピースは砂埃にまみれてはいたもののいつも清潔に保たれていた。その年齢ならば誰もがそうするように、女もワンピースの上からウエストにコルセット状のベルトを締めていた。くびれはふっくらと丸いお尻を強調させて、女はその上に垂れた豊かな巻き毛を乗せていた。わずかにそばかすを散らせた色白の肌は確かに陽にやけていたもののきめ細やかに柔らかそうで、笑う度金色のうぶ毛は頬を健康そうに輝かせた。優しく親しげに上がる口角はオレンジ色の唇を艶めかせ、頬は緩やかに弧を描き、顎先は可憐に小さい。瞳は濃い青い色をしていて、深い緑色が複雑に入り込んでいた。人を惹きつける眼差し。女は美しく、動作は優美でどこかあどけなかった。

 

 女の言動を怪しがればキリが無い。曰く、女は狂女のように夢想に耽り、時々声高に笑った。独り言も絶えないので、町を訪れた人々は女の美貌にはた、と足を止め見惚れ赤面しても、風の中から途切れ途切れに聞こえる女の話し声を聞けば足早に立ち去った。しかしながらどうしても女が広場に有るオリーブの木の間近から決して離れない。井戸はオリーブの木の真下に有る。どんなに面倒被りたくなくとも喉が乾けば女に近寄らねばならなかった。不便なことに、この町にはたった一つしか井戸が無い。そして訪れる客人の為の水源は井戸以外に居酒屋か宿しか無い。貧しい旅人は宿すらとれず、一夜の友をあてにするか、侘しい旅路をせめて人のにぎわいの下で、と野宿をする。つまり居酒屋にも宿にも入れなければ井戸から水を汲むしか無いのだ。

 

 美麗な狂女は人に害を及ぼしたりはしなかった。物乞いとか、宿欲しさに旅人にしつこく絡んだりもしなかったから、どこの宿屋の主人も追い払ったりせず、放ったらかしにしていた。いつも片手に欠けた盃を持ち、踊り跳ねている。旅人が井戸に寄ると人懐こく近寄り、盃を差し出して水を勧めた。

「いかが。」

いつ、汲んだのか不明な水はまごうことなく清らかな真水と見える。女は幸福そうで、人に毒を盛ったり、刺激物を大量に混ぜ込んで悪戯を楽しもうというようには見えない。大抵の旅人は飲めば気が済んでくれるかとこの好意にあずかった。てんで無視する旅人もあったし、稀に乱暴に払いのける旅人も居た。そんな時でも女はたじろぎもせず、二、三うわ言を呟くか、微笑するか声高に笑うかして、また跳ね駆けて行ってしまうだけだった。

 

 好意にあずかった旅人は皆必ずこんな話を聞かされた。

「オリーブの木の秘密を知っているかしら。根っこの下の、地下の話なの。」

女は声を落すと眉山をしかめ、いたずらそうに笑った。まるで素晴らしい秘密の共有に我慢できないとばかりに。

「逆さまの世界が有るのよ!」


 その青年は腰に豪奢な細工が施された短刀を挿していた。その為に、どこかの富豪の息子だとか、没落貴族の成れの果てだとか言う噂があった。ごろつきばかりの浮世の下で、無防備に金目の物を持ち歩いている所を見るにつけ、何の不安も無く育った坊ちゃんだろう。と言う人があれば、いや、ただの間抜けかも知れない。と言う人もあった。この酒の肴はしばらくの間、宿場町の居酒屋で流行のメニューとなった。確かにこの青年は、変わり者だと言えばそうだし、馬鹿正直なだけだと言えばそうだった。青年は町に入るやいなやオリーブの木とダンスする女に恋をした訳だが、女の言動をまるでものともせずに恋したのだから、かなりの大物とも言える。盃を受け取る手は震えていた。恋愛の慄きは青年を一層変わり者に見せた。女は人懐こく、親切で穏やかだった。


 青年の恋は魔物と化した。もだえ苦しむ様に噂に興じていた連中もさすがに言葉を失った。


 青年の覚悟が決まるまでには非常に永い時間を要した。覚悟、と言うのは愛の告白のことに他ならない。行く先知れぬ恋に自分であるひとつの、決着を付けようと言うのは誰にとっても大変な事では有る。是か非。この青年においてそれは生死を分かつ。


 かくして、青年の命はある宿場町の、どこの馬の骨かも知れない一人の女に託されたのであった。



 広場に影を落す物はひとつも無い。木は例のオリーブ一本だし、街は広場から伸びる長い石畳の道をしばらく行かなければ無いから、建物が影を落す事も無い。ここへ来てしまえば貧者以外街に留まるのが普通だから、来る者と去る者なければ人影さえ無かった。例の女を除いて。この頃では街の誰もが気を遣って、広場に青年の姿をみとめれば踵を返した。皆青年の恋を応援などしていない。この二人の恋路に参加する事だけは避けて通りたかったのだ。


 その日も朝から快晴だった。季節は春の真ん中。宿場町の外ではアーモンドの花が盛りを迎えていた。旅に立つならアーモンドの花が散って、新緑が目立つようになる頃まで。旅の途中で、盛夏を迎えるのは危険だ。例年通りの渇きが、人の営みを支配している。つまり青年の恋の決着にタイムリミットが迫っている。


 アーモンドの花の一番花が、風に吹かれて蕊だけになった頃、青年は朝から宿場街で唯一の床屋に出向き、調髪と髭剃りを注文した。どうやら今日がxデーらしい。最早沸騰した青年の顔を鏡越しに、床屋の親父は身構え、客は自分の髭剃りが早く終わらないかと親父の愛弟子へ目配せした。

 

 青年が身支度を終えて床屋を出る頃には街中に警戒がひかれ、広場で女にからまれながらのどを潤していた貧しい旅人さえ足早に街の中心部へ逃げ延びた。広場に一番近い酒屋の店主は、万が一の事が有って、青年が絶望に身を任せでもしたら・・・井戸に蓋をしなくて大丈夫だろうか?と客に耳打ちした。客はこれを聞いて固唾をのみ、そんなことよりあいつが泊まっている宿屋の女将に、洗面所からカミソリをくすねておけと言った方が良いだろうか?と答えた。二人は顔を見合わせ、この奇妙な状況に思わず苦笑した。


 青年のいでたちはまるで立派だった。うつくしい服を着て、砂埃の中を行く様はどこか小国の、王子のようだった。身なりのみごとさに反して佇まいは緊張のために女以上に女らしかった。

 青年がしずしずとオリーブの木に歩みよると、砂埃と追いかけっこしていた女がすぐに駆けてきた。

「あら!あなた。」

女は青年へそう呼びかけると、ひときわ高らかに笑った。オリーブの木へ手をかけてぐるり、と一周するといつものようにどこからともなく盃を取り出し、青年へ差し出した。

「水はいかが?」

碧い瞳の麗しく、ほほえみの気高く美しいことときたら!盃を持つ手はふんわりと、腕はしなやかに輝いていた。盃を見ていた青年は視線を上げて女を見詰めた。青年の震えるまなざしは熱く、恋に燃えていた。青年は跪き、女に愛を告白した。

「私と一緒に故郷へ帰ってください。」

女は後ずさり、盃を落とした。青年は立ち上がり、女の手を取り縋った。女は首を横に振り、言葉も無くとにかく後ずさった。その時である。

一陣の風が吹いて、砂埃が一層強く吹き上がり、青年の顔を打った。青年は一瞬、思わず目を瞑った。再び目を開いた時、女は消えていた。辺りを見渡しても、どこにも居ない。井戸に落ちたのかと思って、覗き込んだが音一つしない。慌て、弱り果てた青年が地面に膝をつきうなだれると、そこに一枚の、タピストリーが落ちていた。不思議に思い、拾い上げようと青年が手を触れるとタピストリーは舞い上がり、風向きを無視してどんどん上昇しようとする。手から逃れようとするものだから、青年は捕まえようとやっきになって何度も空中へ手を伸ばした。やっとのことでタピストリーを捕まえると、青年は何を思ったか、それを一度、きつく抱き締めた。恐る恐る我が胸から引き剥がし、また慎ましい仕草でそーっとタピストリーを見ると、二色か、三色の糸を使って織りは至ってシンプルに、文字が書かれていた。

「オリーブの女、ここにありき。」

房飾りもありきたりなタピストリーを手に、青年はしばらくそのまま立ちすくんで動けなかった。



 翌日の早朝、床屋の親父が広場へ来てみるとそこには誰も居なかった。親父は連日の珍奇な色恋騒ぎに思いもよらず思いを馳せてしまった。昨日、青年は街に帰らなかった。宿屋の女将が言うには床屋への出かけ頭に、ご丁寧にきちんと精算が合っているか確認し出て行ったのだとか。忽然と姿を消した二人の男女を思い出し、親父は苦笑した。それから「ふー。やれやれ。」と独り言をつぶやき、井戸から掃除の為の水を汲んで、バケツへ移し、持ち上げようとした。その時、親父は伸び上がったために、慣れ親しんで気にもとめなくなったオリーブの木に何かが結わえ付けられているのに気がついた。


一枚のタピストリーは、時々風に吹かれては砂埃を受けとめていたと言う。




雲一つない快晴の下で、乾いた過酷な道のりは続く。旅人たちはそれぞれの身の上を抱えて今日も旅路を行く。宿場町でオリーブの木に別れを告げて、広場の門を抜ければ街の外ではアーモンドの花が咲き誇り、散りゆくときももう無いとばかりに盛りを迎えている。いい思い出も、ちょっぴり辛い思い出もある。けれどどんな旅人にも等しく、アーモンドの花は出立を祝福してくれる。祝福は散りゆく花弁と、爽やかに甘い芳香となって語りかけてくる。

「あなたの旅路に幸多くあれ。」

と。


ある宿場町の、オリーブの木とちょっと不思議なひとつの恋の物語。

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オリーブの木 花ケモノ @hanakemono

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