「雪解け」
「おめでとう」
そう母に言われ私は純白の美しいドレスを着る。
今日という日のために、人生で初めてエステに出向き、髪の毛を整え、ネイルを用意し、青や紫の美しい花でブーケを準備してすべてを整えた。
もう後戻りはできない。
目の前の鏡に映る、これまでの人生で見たことのない私の姿にどこか自信を持てない私がいる。
ふと、頬に冷たいものを感じた。
母は私のその様子に驚き、綺麗なおろし立てのハンカチでそっと優しく拭いてくれた。
「せっかく綺麗にしたのに、汚れたら大変よ」
この涙のわけを母は知らない。
感動だと思っているのか、はたまた追憶の果てだと思っているのか。
そんな単純なものでないということを私は誰よりも知っている。
ドレスを着て彼の到着を待つ。
このあとは彼にこの姿を見せなければいけない。
ズキっと胸が痛む。
そしてその時はきた。
彼も白とシルバーの色が相まった輝かしいタキシードを着て、髪型も前髪を上げ、いつも以上に格好よく見える。でも、どこか私は満足していない。そう心のどこかで思ってしまっている私が不愉快だった。
彼は私の姿に私以上の涙を流して喜んだ。
私も涙を流す。
この涙のわけを彼は知らない。
彼は悪い人ではない。
背は高く、収入もいい、顔もいい、性格も優しい、記念日にはプレゼントをくれる、花束もくれる、家事も手伝ってくれる。
だが、それだけだ。
彼と出会ったのは3年前の雪の日。
公園のブランコで泣いていた私に彼はそっと声をかけてくれた。
傷だらけだった私の心に彼の言葉は痛いほど沁みた。
数ヶ月の連絡の末、私は彼と交際をすることになった。彼からの告白はたしかに嬉しかった。でもその感動は「彼」ほどではなかった。
この頃はそう感じていた。
少しずつ、「彼」との思い出が薄れていくのを流れる時間とともに感じる。
月日が経つごとに、私の心は満たされていった。深く、深く落ちていくのを感じる。酔っていたのかもしれない。
初めてのデートは水族館だった。
朝早くから二人で電車に乗って東京の水族館に行った。イルカのショーを見て、色鮮やかなライトで照らされるクラゲを見て、大きな水槽の中で自由に泳ぎ回る魚たちを見た。
夜には夜景の美しいフレンチレストランに行き、その後は彼の家で一夜を過ごした。
私が大切な何かを失い、大切な何かを得たのはおそらくこの日であろう。
そして間も無く彼からプロポーズされ、この時の私は本当の涙を流して首を縦に振った。
幸せであるはずだ。
だが、なにかを忘れているような気がする。
そんな不安を感じた頃、私は新しい命を授かっていた。
検査機に赤い線が浮かび上がる。
どうして素直に喜べないのか、当時の私はわからなかった。それが返って不安材料となり、一人で考える時間が増えていった。
2月14日。
彼と出会った記念すべき日に、私は全てを思い出した。
どうして私がこんな感情を抱いているのか。
どうして私はあの日、あんな場所で泣いていたのか。
私にはひとつのグラスがあった。
真紅に似たワインの注がれている美しいグラスだ。
ある日突然、小さなグラスにひびが入った。小さな破片がこぼれ落ち、綻びから真紅に似たワインが少しずつ流れ出る。目に見えるほどはっきりと減るわけではないが、確かに日を増すごとにワインの量は低くなっている。私がそのことに気づいた時にはすでに自分では取り返しがつかなくなっていた。
そんな時に出会ったのが彼だった。
彼は、グラスの底がワインを越して見える器に溢れそうなほどの感情を注いでくれた。
ワインの量はグラスいっぱいになるまで増えた。
だが、綻びがふさがったわけではない。
そして彼はその綻びの存在に気づいていない。
どれだけ注いでも、その綻びを塞がなければ満たされることはないということを彼は知らない。
私の中で所詮、彼は代わりでしかなかった。
いつまでもいつまでも、私の心には「彼」という存在が欠けている。だから今も尚、ワインはこぼれ続けている。
一度愛してしまった。愛されてしまった。
これまでの記憶や感情が一度に私に襲い掛かる。
毎日の食事が喉を通らなくなり、私は結局トマトしか食べれなくなった。
そして迎える今日という日。
五月晴れの美しい青がどこまでも高く澄んでいる。
中学の同級生や高校の友人、先生、職場の友達が来てくれている。
「先に行ってるよ」
彼はそう言うと会場に向かってゆっくり歩いていった。
しばらくして、大きな拍手が聞こえてきた。彼が入場したのだろう。
その拍手には一体誰のどんな思いが込められているのか私にはまるでわからない。
それでも彼らは私たちを幸せだと信じて感情のままに表現してくれている。
「新婦入場です」
扉が開き、ゆっくりと光が私を照らす。
母にベールを被せてもらい、父の腕に手を通し、ゆっくりと歩き出す。
正面に彼が涙目を浮かべ、満面の笑みで待っている。
馴染みのある友達の顔、久しぶりにあう友人、先生の姿、ほとんど覚えていない同級生の顔。
あと数歩で彼の隣に立つ、あと数歩で全てが始まり、そして終わる。
そんな不思議な安堵と不安と後悔が交錯している。
こんなときにまで、私はなんで・・・・・・
最前列には私の両親と、彼の両親が座っている。
そんな中、私は見つけた。見間違えるはずはない。
それまで誰とも目を合わせてなどいないが、はっきりと目があった。
彼や牧師の立つ正面にあるステンドグラスから太陽の光が差し込む。
2列目に座っていたのは「彼」だった。
目元に涙を浮かべて手を叩いている。
「彼」の左手の薬指には太陽の光を受け銀色に輝く物が見えた。
もう、「彼」は私と同じ立場になっていたのだ。
落ち着いていた感情があふれる。
なんで、あなたがいるの?
なんで、あなたが泣きそうなの?
どうして、私を捨てたの?
どうしようもなく感情が入り混じる。
だが、どうしても変わらない気持ちが私の心にはあった。朝から感じているこの感情、気持ち悪い不安、そして流れ出る涙の理由。
深い雪に覆われた私の心の奥深くで、静かに雪解けを待っていた私の「思い出」は、この瞬間顔を出し、私の全てを包み込んだ。
もう我慢などできやしない。
赤い絨毯にポツポツと大粒の雫が落ちる。
誰も知らないベールの中で、私は一人、ただ静かに涙を流して純白の美しいドレスを着たふりをしていた。
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