第32話 文化祭②
体育館に入ると、舞台の幕はまだ下りたままだった。
「まだ始まっていないみたいだな」
「そうみたいだね」
私たちは体育館の後方座席で、開演を待つことにした。
「そういえば、演劇の題目は『ロミオとジュリエット』だったよな」
と、健太が思い出したように呟いた。
「ロミオとジュリエットか……古典の恋愛物だな」
中学校で演劇部に所属していたときは、『ロミオとジュリエット』を演じるためにDVDを何個か見比べて研究した。それぞれ演出と脚本に工夫があり、どれも見どころがあった。どんな解釈によっても、間の取り方一つでも演技は変わってくる。そんな生きた演出を見るのが何よりも楽しみだった。
「まだ始まらないのかな……」
と、誰かの呟き声が聞こえて、私は腕時計を見た。照明は落とされていないため、アナログの時計の針はよく見えた。開始予定時刻から五分は過ぎている。
「ちょっと遅れているみたいだね」
「ああ。準備しているようだな。もうすぐ始まるだろう」
舞台の幕が波打つように揺れている。立ち位置でも確認しているのだろうか。
そのまま待機していると、会場のアナウンスが流れた。
「──ただいま開演の準備を進めております。もうしばらくお待ちください」
マイクは周囲の音も拾い込んでいるようで、足音や話し声が途切れ途切れに聞こえてくる。
さらに数分経っても、幕は上がらない。着席していた観客からざわめきが広まってきた。
「いつまで待てばいいのかな……」
「始まらないのなら、観るのやめる?」
座席から去っていく人がちらほら出てきた。
健太の顔を見ると、舞台袖に視線が注がれていた。
そこではトラブルが発生したようで、距離があるのに話し声が聞こえてきた。
「主役がお腹痛いって、トイレから出てこないのよ!」
「もう始まる時間なのに!」
舞台関係者は混乱しているようだ。
演目はロミオとジュリエット。私は中学時代にロミオの役で演じたことがある。できることがあれば助けになりたい、と私はすっくと立ち上がる。
「どうした?」
「……ちょっと、様子を見てくる」
それだけを言い残して、私は舞台裏へ向かった。
舞台裏に入ろうとしたら、文化祭実行委員のネームプレートを下げた女子生徒から止められた。
「あの、関係者以外立ち入り禁止になっていますが……」
「演劇部のお手伝いで来ました」
「関係者の方でしたか。失礼しました」
堂々としながら嘘を吐くと、簡単に中へ入れてもらえた。
舞台裏では緊張が走っていた。動きやすい服装をした人物が指示を出している。彼女を知っている。中学の演劇部でもお世話になっていた有岡先輩だった。
「西谷さん、戻ってきそう?」
有岡先輩がトイレに駆け込んだ主役の様子を女子に聞くと、彼女は苦しげに首を振った。
「すみません。すぐには戻って来られないそうです」
「そう……」
有岡先輩は下唇を噛むと、肺の中の空気を鼻から一気に吐き出した。
青色の衣装に身を包んだロミオ役の男性は悔しげに。顔を歪ませる。
「主役が来ないなら、この舞台は中止するしかないの……?」
「……そうするしかなさそうね。アナウンスしましょうか」
覚悟を決めて有岡先輩はアナウンス室に向かって歩き出す。その有岡先輩の前を私は塞ぐ。
「待ってください」
「あなたは秋山さん……!」
有岡先輩は顔を上げた。中学の演劇部時代に、一緒にロミオとジュリエットを演じたことがある。私より一つ年上の先輩だった。
有岡先輩が救世主を見る目をしたのは一瞬で、すぐに顔を曇らせる。
「ジュリエット役の西谷さんがいないの。でも……」
「その代役、私じゃ駄目ですか?」
と尋ねると、有岡先輩は目を瞬かせた。
「秋山さん、あなたが中学で演じたのはロミオ役だったけれど、ジュリエット役も演じられるの?」
「はい」
「でもこれは演劇部の問題だから……」
私の提案に乗りかけた有岡先輩は迷ったそぶりを見せた。部外者を巻き込むわけにはいかないと思ったのだろう。
しかし、私は食い下がった。
「西谷さんが戻ってくるまででいいので、やらせてください!」
「……分かったわ。でも、台詞は全部覚えられる?」
「もちろんです」
私は有岡先輩の目を見据えた。彼女の瞳に光が差す。
「……貴方に頼るしかないわね。どうか、お願いします!」
脚本を見せてもらい、すぐに頭に叩き込む。その間に部員たちが手早くメイクを施してくれる。
「ジュリエットが登場するまで、あと五分よ!」
「メイク終わりました!」
「衣装も完了です!」
有岡先輩は脚本に集中する私にチラと見る。
「任せたわよ、秋山さん」
「はい」
有岡先輩からの視線に応えて、私はしっかりと頷き返した。
「──大変長らくお待たせしました。これより、ロミオとジュリエットを講演いたします」
その第一声で会場に広がったのは、大きな安堵感。多少の遅れはあったが、舞台は予定通り続行されることになった。
アナウンスと共に照明が絞られて、観客から拍手が鳴る。
僧に扮した部員が幕前に立つと、スポットライトが当たった。
「ここはイタリア、ぶどうの香りただようヴェローナの町。敵対する二つの名家、モンタギュー家とキャピュレット家がありました……」
台詞を言い終えた部員が上手に寄ると、赤い幕が開く。
ヴェローナの町の広場が舞台に広がった。
舞台袖にいる有岡先輩は心配そうに私を見る。
「もうすぐ出番よ。大丈夫?」
「──はい」
不敵に微笑むと、有岡先輩は数秒の間、私に視線を合わせた。
「どうかしましたか?」
私が尋ねると、「……あなたが誰よりも美しいジュリエットに見えたわ」と有岡先輩はもらした。
それにはニコリと笑って応えて、舞台の声に耳を傾ける。出番はもうすぐだ。
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