第13話

出会ったあの日から数年が経過し、母は見事にトップシンガーまで駆け上がった。あの日以来、パニック障害が発症することもほとんどなくなった。特に歌唱の際には、どんなにプレッシャーがかかる場面でも、発症したことは一度もないそうだ。母は感謝の思いを伝えようと、父の連絡先を入手しようと試みたが、既にメディア業界から遠のいていた父を探し出すのは至難の業だった。それでもどうにか人脈を駆使して父とコンタクトを取ることに成功したそうだ。そこから、2人の距離が縮まるのに時間はかからなかったという。


矢上ゆり子は、当時母が自慢気に語っていたという父との出会い秘話を懐かしむように話し終えると、じっと私を見据えた。そして、

「正光さんが嘘をつくのは、誰かのことを想う時だと思います。嘘の裏にある正光さんの気持ちにどうか気づいてあげてください。」

と言って頭を下げた。


矢上ゆり子と別れた帰り道、私は父と母のエピソードを思い返した。母がパニック障害だったことは娘である私も知らなかった。隠していたのかもしれない。娘にとって憧れの母であり、歌手であるために。そして、それは母に憧れていた大勢のファンに対しても同じだったのだ。母の歌を楽しみに待っているファンに、自分の不安や苦しみが伝わらないように、伝わってほしい思いだけを歌にのせる。それが母の歌手としての姿だったのではないか。


事故が起きたあの日、落ち着いていたパニック障害が運転中に発症してしまったのかもしれない。母は、薄れていく意識の中、せめて周りを巻き込まないように、ガードレールにハンドルを切ったのではないか。そして、そのことがわかったから、父は報道陣の攻撃的なコメントに対して何も反論しなかったのだ。これまで守り続けてきた母の歌手としての姿を守るために。

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