龍の泉が輝く時

柴田 恭太朗

第1話 猊鼻渓に行こう

「なにこれ? 読めない」

 京香きょうかは手にしたスマホを握りなおし、目の高さに持ち上げた。

 しかし顔のそばに近づけてみたって、そもそも読めない漢字は読めないのだ。


 京香が見つめるLineの画面には『今度の週末、猊鼻渓に行こう!』と書かれていた。Lineの送り主は彼氏……いやまだ彼とは呼べない微妙な関係の慎也しんやである。ようするに週末デートのお誘いなのだが、彼はいったいどこへ行こうとしているのだろう?


 京香が返事をためらっていると、慎也から次のメッセージが到着した。地図が添付されている。彼女は地図のアイコンをタップしてみた。


「へえ、『げいびけい』って読むのか」

 スマホに表示された地図と案内文で、猊鼻渓げいびけいが岩手県にある美しい渓谷であることがわかった。


 京香はスマホの画面に指をすべらせて返信を送る。

『探検する洞窟はあるの?』

 慎也の趣味はケイビング、いわゆる洞窟探検なのだ。彼が送ってきた情報によると猊鼻渓は、切り立った崖に挟まれた渓谷。洞窟らしきものは見当たらない。慎也が洞窟のない観光地に興味を持つとは、京香は思えなかったからだ。


『実はね、猊鼻渓の支流に地元の人しか知らない秘密の洞窟があるんだ』

 慎也は返信とともにウサギのスタンプを送ってきた。ウサギは得意げにニカッと笑いながら指を二本立てている。


 地元民しか知らないはずの洞窟を、なぜ慎也が知っているのだろう? 京香は小首をかしげた。だが、秘密の洞窟という言葉に彼女の気持ちは惹きつけられる。なぜなら、京香は洞窟の残響ざんきょうを聴くことが何よりの楽しみなのだから。


 京香が頬を上気させて自分の趣味を語っても、たいていの人は『残響? なにそれ』と言って眉を寄せるか、バカにしたようにパンと手をたたいて笑うのがオチだ。


 しかし、洞窟探検ケイビングを趣味としている慎也だけは、京香の残響趣味に興味を持ってくれた。残響を聞き分け、余韻よいんを味わうことは、音響設計家であり聴覚にすぐれた京香の特技である。彼はそんな京香の一番の理解者なのだ。


 年齢も二人ともに二十半ば。しかも慎也は皆に好かれる好青年だ。きびしめの京香の評価軸をもってしてもイケメンに分類される。慎也が自分をどう意識しているかわからないが、京香としては、ひんぱんに洞窟デートに誘ってくれる慎也に好意を抱いていた。ただ彼氏として付き合うには、慎也にはどこか言葉では言い表せない未知な部分を感じるのだ。彼女の本能に近い部分が告げる感覚から、京香は彼を『不思議の慎也くん』と呼んでいた。もちろん心の中で。


(不思議の慎也くんが誘ってくる秘密の洞窟なんてワクワクするじゃない? 何かとんでもないものが現れたりしてね)

 京香は夢見る少女に戻ったように空想をふくらませ、クスっと笑った。

 急いで慎也に返事を送る。


『もちろん行くよ! 女に二言はないから!』

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