第16話 苦味

 コト、という微かな音と振動。

 温かくほろ苦い香りにくすぐられ、ギールは目を開いた。

 ぼやけた視界に映るマグカップ。ほかほかと湯気が立ち昇っている。


 意識がはっきりしてくるにつれ、鈍い痛みを感じてギールは顔をしかめた。

 痛みの在処は、頭の下敷きにされている腕であるようだ。

 どうやら、テーブルで寝てしまっていたらしい。

 ギールは重い頭を持ち上げた。痺れていた腕に血が通い、痛みが和らぐ。


「あ、ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」


 透き通るような声が聞こえて、視線を向ける。

 エフィーが不安げな顔をしていた。ギールは微笑みながら首を横に振る。


「大丈夫だよ。コーヒー淹れてくれたんだね。ありがとう」

「ギールさんがお好きだと聞きまして」


 ほっとした表情でエフィーが笑う。肌がほんのりと桜色に染まっていた。


「湯加減はどうだった?」

「ちょうど良かったです。すみません、つい長湯してしまいました」


 エフィーが緩んだ笑顔を見せる。可愛い、と思った。


「ゆっくりできたようで何よりだよ。俺もコーヒー貰ったら入ってこようかな」


 ギールはマグカップを取ろうと手を伸ばしかけて、自分に柔らかい布がかかっている事に気がついた。


「毛布?」

「はい、レマさんに買っていただいたんです。軽くてふわふわなのですよ」


 エフィーが近寄ってきて、くるくると毛布の回収を始めた。


「毛布もかけてくれていたんだね。ありがとう」

「えへへ。片付けてきますね」


 少し照れた様子で、毛布を持ってリビングルームから出ていくエフィー。

 その背中を見送ってから、ギールはコーヒーを一口飲んだ。

 爽やかな苦味と酸味が口の中に広がり、寝起きの頭が少し軽くなった。

 いつもより美味しいと感じるのは、エフィーが淹れてくれたからだろうか。


(もしも、あの子と一緒に生きていけたら……)


 そんな考えがふと浮かび上がって。




 ——直後、ギールは戦慄に駆られた。冷や汗が背中を伝う。




(俺は今、何を考えていた……?)


 恐怖心が胸の奥から広がって、息苦しさに視界がぶれる。


 ——大丈夫だ。忘れたわけじゃない。ただ疲れていただけだ。

 心の中で何度も何度も唱える。

 ——だからこれは、裏切りではない。


 幸せになって欲しい人がいた。かつて苦しんでいた自分に、懸命に寄り添ってくれた人。

 彼女は——アリアーヌは、一年前に殺された。

 あの人を置いて自分だけが幸せになるなんて。

 そんな事、あってはならない。許されてはならない。


(……そうだ、やはり俺は死ぬべきなんだ)


 生きればアリアーヌを裏切る事になり、死ねば父親を裏切る事になる。

 何をどうしようと、必ずどちらかを裏切るしかない。

 そして、自分が絶対に裏切れないのはアリアーヌの方だった。

 自分が本当に倒れそうなときに支えてくれたのは、彼女だったのだから。


 そしてそれは、エフィーに対する裏切りにも繋がる。

 共に生きる事を望んでいると知っていながら、あの子を遺して死ぬのだから。


「……ごめん、エフィー……」


 ギールは口の中で声で呟き、マグカップの中身を一気に飲み干した。

 せっかくエフィーが淹れてくれたコーヒーも、今はただ苦いだけだった。

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