「慕情 ━短編小説━」

織田 由紀夫

「慕情」




     「慕情」

   1

 「ありがとうございました」

  閉店間際に来る、彼の名前を私は知らない。


一杯のコーヒーを求めに彼はやって来る。彼が何処に住んでいて、何をしているのかさえ分からない。


只、一つ分かっている事がある。それは、私が彼に恋をしているという事だった。


 私の名前は、美香。淡々と高校を卒業して、近くの大学へと進学し、単位を取る為だけに通っている。友達はみな、彼氏が居る。勿論、私にも彼氏がいた。


付き合って来月で一年が経つ。彼は、交際一年の記念に、次の休みに何処へ行こうかと、一人でワクワクしている。


正直な私の感想を言わせてもらえれば、彼の事は、もう好きなのか、気持ちが冷めているのか分からなかった。


付き合って一週間で彼は私を求めて来た。

私は、それなりに興奮したがスグに感じなくなった。


彼の性行為が下手くそだからとか、体の相性がどうだとかの問題じゃなく、彼と性行為をすると、何かこう、言いえもしない気持ちに駆られるのだった。


別に、互いが浮気をしてるとか、そういう訳もなく、むしろ彼のラブコールはそれなりに嬉しかった。


それでも私は、彼の性行為が嫌になった。友達はみな、美香の不感症だと言うが、私はそれよりも、もっと気持ちを大切にしたかった。


性行為に至るまでのプロセス、つまりここで言えば、恋愛と言う表現が正しいのかもしれない。


どぎつい言葉を言えば、他の男に抱かれてみたかった。私は大学に入るまで処女だった。


彼との性行為で、古風な言い方の「操」を捨てた。だからこそ、私は彼との関係を大切にしたかった。


それでも彼は性的同意も無しに、度々、私の体に侵入してきた。まるで、彼の性玩具になっているような感覚に襲われる時が多々あった。


 周りの友達は、そういう頻度が普通だと言って聞かなかった。

「あの人って、ほぼ毎日来るよね」

 隣でショーケースを拭きながら、彼女は言った。


彼女は近く結婚をする。今は、付き合って三年になる彼と同棲している。

「ねぇ、さゆり。聞きたい事があるんだけど」

「何?」


 レジ点検のジャーナルを構いながら、美香は聞いた。


「さゆりの所は、セックスって、どれくらいの頻度でしてる?」


 さゆりは、手を止めて、おぼろげに答えた。

「うーん、彼がしたいって言って来たら、私もそれに応じるから、多くて週に二回くらいかな?それがどうしたの?」


「いや、何となく気になっただけ。ゴメンね。変な事聞いちゃって」


「別に、気にしないけど、美香はどうなの?」

「私も同じくらいかな」

美香は、ぼかしながら答えた。


その日の夜、美香は閉店間際に来る男の事を想いながらオナニーをした。彼からの性交渉のおかげで、クリトリスだけは敏感だった。


あの人の名前が知りたい。そう思った美香は、次にあの男が来店した時に聞こうと思った。

ベッドの脇に置いてあったスマホが鳴っている。


彼からの電話だったが、美香は居留守を使った。閉店間際に来る男の事で、体も心も満たされている時に、彼からの声は聴きたくなかった。



 閉店間際に来たあの男が、二日後の夜にまたやって来た。美香は事前に、さゆりに訳を伝えていた。


その日のコーヒーは美香が運んだ。美香は、高鳴る鼓動を胸に男に声を掛けた。


「あの、いつもお越しになって、ありがとうございます。お住まいは近くなんですか?」


 テーブルにコーヒーを置く、美香の手が微かに震えた。男は美香の近くに住んでいた。隣町だった。美香は思い切って名前を聞いた。


 男の名前は隆と言った。美香の通う大学の一つ上の学生だった。


 閉店間際に、客は隆一人だった。

さゆりの目くばせと共に、美香は隆と色々な話をした。隆は、田舎から上京して来た。


美香と同じ大学の文学部に強く惹かれて入学をしたと言う。小説を書くのが好きで、将来は作家になりたいと夢を語った。

 

「あの、隆さん。また来てくれますか?」

 隆は、軽く頷きながら笑顔を見せてくれた。美香は、素朴な隆に強く魅力を感じた。


二人で話をしていると、そこはまるで、二人だけの世界に感じられた。


しかし、美香には彼氏が居た。


交際一年の記念に、デートの計画を立ててくれている彼を想えば、何故か胸が苦しくなった。


そして、哀しくなった。


何か、人として欠損している部分があるのでは無いかと、自分の精神を疑った。


 それでも、美香は隆に対する想いが、日に日に募った。隆の事を想ってするオナニーは、彼との性行為より何十倍も気持ち良かった。


彼に対して、別れを告げたい気持ちが、美香の中で膨らんで来た。だが、美香には出来なかった。一年も彼と一緒に居た。


その事実が美香の中にあった。こんな気持ちを、人は「情」と言う。


 情だけで一緒に居るのは、逆に彼に対して罪なのでは無いのかと、何回も美香は自問自答した。彼に対する愛は一体どれくらいの熱量なのか。大学の講義では誰も教えてくれなかった。



 「隆さんは今、好きな人って居ますか?」

 美香は隆のラインのIDを聞いていた。これくらいなら、浮気にならないからと、さゆりは教えてくれたのだった。


 隆からの答えはこうだった。


─好きな人は居る。本当はその人に触れたい。

でも、触れたら何かが始まって、何かが終わってしまう気がする─


 美香は、ショックと共に、少しの安堵感を覚えた。隆さんに好きな人が居るのなら、私も諦めがつくと。


私も気持ちを整理出来ると。その日の夜、美香は泣きながら自分の体を慰めた。



 美香はその日、大学の講義を終え、中庭を歩いていた。


ベンチで一人、本を読んでいる隆を見つけた。大学内で見かける隆は、店で見かける隆とは、うって変わって知的な感じがした。


そして、ドキドキと自分の心臓が高鳴る事に気が付いた。


「隆さん、隣いいですか?」

 美香は、隆の隣に座り、時間と言う名の制約の無い中で隆と、二人だけで話しをした。



そして美香は、隆に対する正直な気持ちを伝えた。彼との関係は終わらせたくない、でも隆に対する気持ちは本当だと。

このままでは自分がオカシクなってしまいそうだと。隆と話している今、この時も美香は隆に触れたかった。今すぐにでも触れたかった。


人間の中には絶えず、良心と悪心が混在していると、昔、有名な作家が言っていたのを、美香は思い出していた。


「隆さんの好きな人って、どんな人ですか?可愛いんですか?綺麗なんですか?」


 気が付けば、二人の距離は縮まっていた。中庭を歩く学生は、軽いトレンチコートを羽織っていた。春はもうすぐそこまで来ていた。


 隆は、美香の話しを丁寧に聞いた。美香の目をしっかりと見ながら。そして、こう言った。

「僕の好きな人はね、カフェで働いている人なんだよ。美香さん、君が好きだ」


 二人の間を、暖かく、そして少し優しい木漏れ日が降り注いだ。


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「慕情 ━短編小説━」 織田 由紀夫 @yukio-oda

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