第55話 禁術

 けれど、相手は時間停止の真っ最中だ。たぶん、聞こえていないのでは。

 彼はゆらりと立ち上がると、私のところへ歩み寄ってきた。


「大丈夫?」


 彼の手のひらが、私の頬に触れる。

 魔法陣を描いても有り余るくらい、私の顔は涙でびたびたに濡れていたけれど――それでも頷いた。


 ノアがいた場所を見る。魔法陣が木桶からぶちまけられた泥で汚れて、まったく違う形になっていた。

 私の狙いは、最初からこれだった。無力化の魔法陣を、無力化する。

 それさえできれば、ノアが魔法で助けてくれる。その確信があったのだ。


 ――だけれど。


「《浄化》」


 汚れた顔と服を綺麗にしてくれるノアの顔と、形の変わった――書き換えられた魔法陣を見る。


 泥が魔法陣の形を変えた、その瞬間。

 ノアも動いたのだ。

 指で泥を伸ばして、魔法陣を描き変えた。


 それも――《時間停止》の魔法陣に。


「遅くなってごめん。痛かったでしょ」

「い、いえ」

「君の機転で助かったよ。ありがとう」

「あの、……旦那さま?」


 ノアが指の背で、やさしく私の頬を撫でる。

 それはとても心地よくて、それからお礼を言ってもらえて嬉しい、んだけども。


 気になるのはこっちなんですけど、と、私は動きを止めたままの男に視線を向ける。


「ああ、これ。《時間停止》。禁術だよ」


 こともなげにいうノア。

 停止したままの男の手足を拘束して転がすと、ノアがぱちんと指を弾いた。

 瞬間、魔法が解ける。周囲の音が、時間が、戻ってくる。


「《転移》」


 声がした。

 振り向くと、魔法管理局の制服を着た男――フェイが立っている。

 彼はつかつかとノアに詰め寄ると、その胸倉を掴んだ。


「馬鹿お前、謹慎中に何やってんだ!!

「こうすれば絶対アンタが来るだろ」

「はぁ!?」

「仕事」


 ノアが部屋の中のマンドラゴラを指差す。

 フェイが目を見開いて、そして拘束された男を見て――一つため息をつく。そして再度、ノアに視線を戻した。


「だからって、禁術使うやつがあるか! これでまた、」


 ノアを怒鳴りつけようとするフェイの前に、ばっと、転び出た。

 両手を広げて、キッとフェイを見上げる。


「だ、旦那さまは、悪くありません!」

「え、」

「蹴っ飛ばされそうになった、私を、助けようとして、くれただけで、だから、旦那さまは、」

「……あ——、もう」


 きょとんとした顔で私を見つめていたフェイは、やがて自分の右手で目を覆って、天を仰いだ。

 そして長々とため息をついて、困ったように苦笑いする。


「そんなに泣かれちゃ、これ以上何も言えないだろ」


 そう言われて、指で頬を拭われる。せっかく浄化してもらったのに、また涙があふれてしまっていたらしい。

 急に気恥ずかしくなって、俯いた。

 6歳児の体に感情も引っ張られてしまっているのかもしれない。


「ちょっとおじさん、ハンカチとかないわけ」

「お前ね……」


 何故か不機嫌そうな口調で割り込んできたノアに、フェイが呆れた様子で振り向いた、その瞬間。


 ずごーん!!!!!!!!


 背後から、ものすごい轟音がした。

 こんな爆音、前世で死んだとき以来、聞いたことがない。


 恐る恐る振り向く。

 隣の部屋――おそらく魔法薬の精製に使われていた部屋だろう――が根こそぎえぐり取られていた。

 風圧でこちらの部屋の屋根まで半分吹っ飛んで、一気に部屋の中が明るくなる。


「ノア!」

「げ」


 もうもうと立ち上る土煙の中から現れたのは――ジェイドだった。


 握りしめた拳から、しゅうしゅうと魔力の残滓が立ち上っている。

 拳の中指に、派手な指輪が嵌められている。あれは――魔道具だろうか。というか魔道具じゃないと困る。

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