第3話 蛇ノ目に向かって



 三話 蛇ノ目に向かって



 ピリリリリ。


 機械で出来た小鳥のさえずりのような、朝を告げるだけの音が果南の部屋に響き渡った。

 果南は枕元の携帯電話を手探りで探し、お目当ての物を見つけるとそのまま画面を見ずに手探りで画面を何度か突っついた。

 何度か画面を触ったところで部屋中に響き渡っていた目覚ましの音が止んだ。

 ベッドから起き上がった果南がカーテンを開けると朝日が目に飛び込んできた。薄目で空を見ると、雲一つ無い青空が広がっていた。


「晴れて良かった」


 寝る前に見た天気予報は連休の間は晴れが続くと言っていた。しかし、どうにも不安になった果南はティッシュと輪ゴムでてるてる坊主を作り窓際にぶら下げていた。

 少し歪んだ笑顔を見せるてるてる坊主と目があった。


「ありがと。てるてる坊主さん」


 果南は役目を終えたてるてる坊主を優しく取り外し机の上に寝かせてあげると、パジャマのまま台所へと向かった。




 台所についた果南が冷蔵庫の扉を開けると、正面におにぎりとウインナーの乗ったお皿が入っていた。果南の母が昨晩用意したものだ。

 果南はそのお皿を取り出すと、電子レンジに入れて自動温めボタンを押した。

 電子レンジはブゥウウンと小さな音を立てながら動き出し、本体に付いている小さな画面に残り三分と表示された。


「知らない番組しかやってない」


 休みの日に早起きなどしない果南にとっては、早朝のテレビ番組は知らないものだらけだった。外国の知らない街を散策している番組、テレビショッピング、北海道の自然を紹介している番組、ニュース番組。そのどれもが果南の興味をそそらなかった。

 購買意欲がそこまで湧かない羽毛布団や座椅子を紹介している番組にしたまま、果南は冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ。


 ピプピ、ピプピ、ピピプププー。


 一年前から調子が悪いままの電子レンジの間抜けな音が、おにぎりとウインナーを温めが終わったことを告げた。

 果南はコップをテーブルに運んでから電子レンジの中の皿を取り出した。


「あちちち」


 お皿が持てない程に熱くなっていたため、テーブルまで運ぶことが出来ない。果南は辺りを見回して、近くにあった布巾を鍋つかみ代わりに皿をテーブルまで運んだ。


「いただきまーす」


 果南はよくわからない絵の具セットの宣伝を見ながら朝食を摂り始めた。




「うん、良し」


 果南は自室の鏡の前で自分の服装を確認した。

 黄色いTシャツにまだ色落ちのしていないオーバーオール。頭には兎の耳のように立たせた大きな赤いリボン。

 完璧だ。果南は心の中でそう思った。


「ワンピースはまた今度かな」


 本当はお気に入りのワンピースを真に見せたかったのだが、今回は神社の掃除がメインである。汚れたり怪我をしたりしないように渋々断念したのだった。

 最後にもう一度念入りに身だしなみを確認してから果南は荷物を持って自室を出て玄関へと向かった。




 どこまでも続く青い空に心地の良い風。

 果南が玄関の扉を開けた時、予定通りお祭りが開催されることを知らせる町内用の花火の音が朝の静かな空間に響き渡った。


 バス停が見える場所までついた果南の目に、良く知った人物が立っていた。

 果南は少し早足でバス停へと向かう。


「おはようマコ兄ィ」


 満面の笑みで挨拶をする果南だったが、真はチラリと果南の姿を見ただけで携帯電話へと視線を戻しながら「ん」とだけ挨拶をした。


 真は白いTシャツ、少し色落ちしたジーンズ、若干ヨレ始めたスニーカー姿だった。真が背負っているのは何年も前から使っているキャンプ用の大きなリュックだった。


「どう? 可愛いでしょ」


 果南は全身を見てもらおうとその場でクルリと回った。上手く回れずに最後の方は少しよろけてしまう。


「いや、別に」


 可もなく不可もなくと言いたげな、何の感情も籠もっていない真の返事に果南は少し声を大きくしながら言った。


「ちょっとッ!? 女の子が『可愛いでしょ?』って聞いたら『可愛い』って返さなきゃッ!」


 真は面倒くさそうな顔をしながら携帯電話をポケットにしまいながら言った。


「なにそれ。答えが決まってるってこと?」


「当たり前でしょッ! 乙女心が分かってないとモテないんだよ」


「やかましいわ」


 真は軽く握った拳で果南の頭を軽く小突いた。


「痛ッ」


 真という男は、時には御世辞や嘘を言うことも必要だということは分かってはいるが、誰かを誉めるという行為が苦手な人間だった。

 心の底から思っていないと誉め言葉を口にすることは出来ないのは昔から変わっていない。 


 ただ、果南は真がそういう人物だということは分かっている。真が自分に対して誉めるようなことを言わないと分かった上で、会う度に同じようなやり取りをしていた。


 いつかは答えが変わるかもしれないという淡い期待を抱いて。




「まぁ、マコ兄ィには果南がいるからモテなくても大丈夫だけどね」


「はぁ?」


「もう、恥ずかしがり屋さんなんだから」


 果南は真の肩をペチペチと叩いた。

 真は「何を言ってんだか」と呟いてから話を変えた。


「ユウ姉は? 一緒に来るんじゃないの?」


「ユウ姉ェともバス停で待ち合わせてるよ」


「ふぅん、そう」


 その時、ブイイインと聞き覚えのある音が遠くから聞こえてきた。


「ユウ姉ェのバイクの音だッ!」


 果南は真の腕を掴んで音のする方を指さした。


「バイクじゃなくて原付だろ」


 真は果南の腕を振り払いながら言った。


「何が違うの?」


「そりゃあ、原動機付自転車なのか自動二輪かの違いでしょ」


「えぇ? ナンタラ自転車とナントカ二輪は何が違うの?」


「それは」


 あまり深く考えずに指摘した真は自分の答えに自信が無くなってきた。


「いや、まぁ良いや」


 真は少しだけ頰を赤く染めると、果南に見られないようにそっぽを向いた。

 果南は真の様子に気が付かずに音のする方をジッと睨んだ。

 やがて姿を現したのは原付に乗った幽子だった。幽子は二人の近くに停車した。


「やっほー。おはようマコちゃんカナンちゃん。おまたせ」


 幽子はエンジンを切ると、バスや車の邪魔にならないように原付を歩道の中に移動させた。

 そしてサイドスタンドがちゃんと地面に当たっていることを確認してから、原付から降りてヘルメットを脱いだ。

 幽子は大きなリュックを背負い、原付にも大きなカバンを括り付けていた。


「ユウ姉は何で原付なの?」


「買い出しもあるし、電波通じにくい所で何かあった時のために足が必要だと思ってね」


 幽子はさっきまで座っていた原付のシートをペチペチと叩きながら言った。


「ユウ姉はバスの後ろを追いかけてくるの?」


「んん、ちょっと反対方向にはなるけど、早くから開いてるスーパーがあるからそこで飲み物とか色々買ってから行こうかな。降りるバス停と寝泊まりする家については昨日LINKで送っておいたから」


「うん、何となくイメージは出来てるよ」


「バッチシだよ」


 真と果南の返事を聞いて幽子はニッコリと笑った。


「じゃあとりあえず蛇ノ目神社に集合ということで。親戚の家はそこから徒歩数分の距離だから。マコちゃん、カナンちゃんをよろしくね」


「中学三年生なんだから大丈夫でしょ」


「マコちゃん。カナンちゃんのこと、よろしくね」


「え、あ、うん」


 幽子に念押しされた真は頷かざるを得なかった。

 その時、南の方からバスが一台向かってきているのが見えた。


「あ、アレじゃない?」


 果南がバスを指さした。


「多分そうだね。二人共、気を付けてね」


「どちらかと言えば、気を付けるのはユウ姉の方でしょ」


 真が原付の方を見ながら言うと、幽子は敬礼のようなポーズをした。


「安全運転で行ってきます」


 幽子はそう言いながらヘルメットを被り直した。


「じゃあ後でね。ユウ姉ェ」


 真と果南がバスに乗り込み、バスが発進するのを見送ってから幽子は原付のエンジンをかけた。


「さて、行きますか」


 幽子はバスとは反対方向に向かって原付を発進させた。

 ミラーに映るバスがあっという間に小さくなった。幽子は軽く下唇を噛みながらさらにアクセルを捻った。




 早朝の山間部に向かうバスということもあり、車内には運転手以外誰も乗っていなかった。

 自分の家の車とは違う乗り物のニオイが鼻をくすぐった。

 真と果南は切符を手に取り、バスの後ろの方に向かって歩いた。


「ここにしようよ」


「そっち側だとずっと日が当たって暑いからコッチ側にしろ」


 真は座ろうとした果南のカバンを掴むと反対側の座席の方に軽く引っ張った。

 窓際に果南、通路側に真の順で座った。


「マコ兄ィと出かけるの久しぶり」


「そうだな」


「こんなに可愛い子と朝から出かけられるなんてマコ兄ィは幸せ者だね」


「可愛い子?」


 真はわざとらしく辺りを見回した。


「果南のことに決まってるでしょッ!」


 果南は頰を膨らませながら真の肩を軽く突いた。


「子供かよ」


 真の言葉に果南はニヤリと笑った。


「なんだよ」


「マコ兄ィ、やっと果南のことを大人のレディとして見てくれてるんだなと思って」


 真は「フンッ」と嘲るように鼻で笑った。


「もう、照れちゃって」


「今のはどう考えても照れ隠しの笑いじゃないんだが」


「そんなことよりマコ兄ィ、せっかくだから勉強を教えて欲しいな」


 果南は真のツッコミを無視してカバンの中から参考書を取り出した。それは買ったはいいものの、解説が難しくてあまり手がつけられていない参考書だった。


「懐かしいなソレ。似た本を持ってたな」


「マコ兄ィ、この参考書ちゃんと解けた?」


「あ? 馬鹿にしてんのか?」


 果南は首を左右にブンブンと振った。


「そうじゃなくて。この参考書、果南には難しかったの」


 果南は適当にパラパラとページを捲った。そこには数式と解説文がビッシリと書かれていた。


「果南には絵本か漫画が似合うからな」


「だから違うのッ! ユウ姉の部屋に同じのがあったから買ったんだけど、この辺とか何を言ってるのか分からなくて」


 真は果南が指さしたところを確認した。確かに回りくどい表現があるものの、ただ答えを導き出すための解説ではなく問題を理解するための解説がされているために、難しい表現が多いのは事実だった。


「文章は長いけど書いてあるまんまだろ。大体なぁ、お前は勉強出来ないんだからユウ姉と同じレベルの参考書を買うべきじゃないだろ。ユウ姉は頭良いんだからな」


「うぅ、でも」


「こんなレベル高いやつじゃなくて『誰でも分かるシリーズ』だったかな? まぁその辺の簡単な奴を先に買ったほうが良いだろ」


「それはもう持ってる」


「持っててもやらなきゃ意味ないぞ」


「ちゃんとやってるもん」


 簡単な参考書に取り組んでいることを褒めて欲しかったというわけではなかったが、信じて貰えなかったことが果南の胸を抉った。

 やはり、真の中の果南という人間は勉強嫌いの昔のままなのであろう。

 果南の目が潤んでいることに気が付いた真は息を呑んだ。


「お、おい」


 真は頭を掻いてからため息を付いた。


「分かったよ。教えてやるから。鉛筆とかノートとかある?」


「!? あるよッ!」


 果南は目を輝かせながらカバンからノートとシャープペンシルを取り出して真に手渡した。

 真は受け取ったペンでノートに参考書の例題を書き写した。


「そもそもの話、どこまで分かってんだ? 算数は大丈夫なのか? 分数の加減乗除は分かるのか?」


「分数の、加減乗除?」


 果南が首を傾げると真はため息をついた。


「分数の足し算引き算掛け算割り算は完璧なのか? って聞いたんだよ」


「それは、出来るよ」


「多分」と小さく呟いたが真の耳には届いていないようだった。


「へぇ、じゃあ話はそんなに難しくない。この問題、解くにはどうしたら良い?」


「XよりYの係数の方が崩しやすそうだから、Yの係数の分母を合わせて上の式と下の式で引き算をする」


 真は「やっぱりな」と呟いた。


「間違っちゃないがセンスがない。お前の言った通りにやると続きはこうなる」


 真は一切ペンを止めることなく、果南の言った通りの計算をした式を書いた。


「この式からXを求めるんだろう? 式が汚いなぁとは思わないか?」


「式が汚い?」


 果南は分数だらけの式を睨んだが真の言っている意味が分からなかった。


「どういうこと?」


「分数だらけで面倒くさいなって思わないか?」


「思うけど」


 そういうものだと果南は思っていた。


「面倒くさいと思うのなら、何故最初に全部消さないんだ」


 真は空いたスペースに例題をもう一度書いた。


「二つの式を処理する前に分数を全部取っ払え」


 真は暗算で最小公倍数を導き出して分母を払った。


「でも、数字が大きくなっちゃうよ」


 果南は真が新しく書いた式を指さした。


「だから何? 分数を抱えたままやった方が良い問題もあるけど、この問題は分数取っ払った方が早いし後が楽」


 分数を無くした二つの式から一つの式を導出した。


「これ見れば何か分かるだろ?」


「んん?」


「両辺は三で割れる。だからこう。そうすればこんな簡単な式になる」


 真はXの解を導き出した。最初こそ数字が大きくなったが、後の計算は果南でも暗算で出来るほどだった。


「分数を払ったメリットはココ。Yを出すのが楽になる」


「ホントだ」


「分かったか?」


「なんとなく。ねぇ、分数を抱えたままの方が良い問題もあるってどういうこと?」


「それは、見れば分かる」


「どういうこと?」


「答えを求めていく途中で『分数を維持した方が後が楽になりそうだなぁ』って時がある。そういう時」


「そんな時あるの?」


「ある」


「見ても分かんないよ」


「それはお前が沢山勉強すれば分かるようになる」


 分かったような分からないような説明をされて果南の頭はハテナマークが浮かんでいた。


「じゃあ、もう一回ここの解説を読んでみろ」


「え、うん」


 果南は言われた通りに参考書の解説文を読んでみた。すると、真が言っていたようなことが書かれていた。


「なんか、マコ兄ィが言ったみたいなこと書いてある」


「だから言ったろ。書いてあるそのままだって。どうせ文字がいっぱい書いてあるから難しいこと書いてあるんだと思い込んで真面目に読まなかっただけだろ。今の説明で雰囲気でも分かったなら、他のページの解説もしっかり考えてゆっくり読めば分かるに決まってる」


「そっか、ありがと。マコ兄ィ」


 真は一瞬頰を緩めたが、すぐに元の少しダルそうな表情に戻った。


「別に。このぐらい簡単だろ」


「マコ兄ィは数学が得意なの?」


「まぁ、英語に比べたら得意だけど」


「じゃあ数学で分かんないことがあったらマコ兄ィに聞いても良い?」


 真は露骨に嫌そうな顔をした。


「駄目?」


 果南が真の顔を覗き込んだ。真は目を逸らしながら言った。


「いや、まぁ、時間ある時に答えるってのでも良いなら良いよ」


「やったぁ! マコ兄ィ大好き」


 果南は身体を真の方に傾けた。


「ちょ、だからくっつくなッ!」


 真は少し乱暴に果南を振り払った。




 その後も、果南が難しそうと思ったページを真に教えてもらう、というのを繰り返していた。

 降りるバス停まで残り十分程という所まで来ていた。

 バスはとっくに山道に入っており、時々ガタガタとバスが揺れ、木漏れ日が道路を点々と照らしていた。

 区切りの良い所で果南は参考書を閉じた。


「ねぇ、マコ兄ィ」


「何?」


「連休明けにね、模試があるんだ」


「あぁ、そういえば去年の今頃何か受けさせられたな」


 鳴間市の中学三年生は高校入試の練習も兼ねて何度か模試が実施される。連休明けに実施されるのは第一回目となる。


「果南ね、高野台に行きたいんだ。高野台に行くんだったらどのぐらいの成績が必要なの?」


「さぁ? さすがに五月の模試の成績じゃ分かんないよ。それに、志望校書いて判定が出始めるのって確か夏に受けたヤツからだったと思うけど」


「そうなの?」


「多分、な。でもまぁ、進学校を謳ってる高野台に行くんだったらとりあえず半分以上がボーダーだろ。詳しくは知らんけど」


 真は自分の成績で入れそうだと思う複数の高校の中から高野台を選んだのであって、あまり深く考えたことがなかった。


「半分以上、ね」


 半分以上、その言葉は常に底辺付近を彷徨っていた果南にとっては首が痛くなるような遥か上に位置する場所だった。


「まぁ、果南には無理だろ」


「な、なんで!?」


「なんでって、小学生の頃からロクに勉強してなかっただろ。数学は今のでほんのちょっぴりはマシになっただろうけど、図形だの確率だの他にも色々あるし、英語だの理科だの他にも科目があるだろ」


 図星をさされた果南がウッとうめき声を上げた。


「た、確かにそうだけど、最近はユウ姉ェに勉強教えて貰いながら頑張ってるんだよ」


「そういやユウ姉が空いた時間は果南の勉強をどうとか言ってたな」と真は呟いた。


「何で高野台なんだ? 別に家から近いわけでもないし、帰宅部のお前が部活で選ぶとも思えないし、制服が特別可愛いわけでもないような」


「え? 高野台の制服可愛いよ」


「そうなのか?」


「そうだよ。可愛いなって思わないの?」


「まぁ、ダサくはないけど。でも、似たような制服の学校って他にもあるし、わざわざ高野台を選ぶってイメージは無いけどな」


 高野台の女子の制服はブレザーで、校章と一本ラインが入っているのが特徴である。


「マコ兄ィは星ノ浜みたいなセーラー服の方が好きなの?」


「好きなの? って聞かれると別にそういうわけでもない」


「マコ兄ィ、面倒くさいね」


「やかましいわ」


 真は軽く握った拳で果南の頭を小突いた。


「痛ッ」


「で、結局制服で選んだのか?」


「そういうわけじゃないよ」


「じゃあどういうわけ?」


「それは」


 果南は一呼吸置いてから言った。


「ユウ姉ェとマコ兄ィがいるから、だよ」


 しばらくの沈黙が流れた。


「そんな理由?」


「そうだよ。マコ兄ィは違うの?」


「いや、それは」


 幽子がいることを知らなかったなどと正直に答えようものならややこしいことになるな、と思った真は少しだけ間を開けてから答えた。


「まぁ、そうかもな」


「三人で一緒に通えるのは一年間だけなんだけどね」


「そんなもんだろ」


 真の口調はいつも通りだったが、その言葉に果南は息を呑んだ。


「そうなの?」


「そりゃそうだろ。聞いたわけじゃないけどユウ姉ェはどちらかといえば文系だろ? 僕は理系。この時点で既に進学先が違うわけ。そこから、学部や学科、国立私立、大学のランク、とスゴい数に分岐していくわけで、高校受験なんかより遥かに選択肢が増えるわけだぞ」


 もちろん、その全てを高校一年生の真がイメージ出来ているわけではない。あくまで本やインターネットで見かけた情報のイメージで話をしている。


「ずっと一緒にいられないの?」


 果南の一言に対して真は何か言おうとしたが、その言葉を呑み込んで少し間を開けてから呟いた。


「そりゃあ、いつかは別々になるだろ」


 果南は少し俯いてから真の肩に寄りかかった。


「でも、果南とマコ兄ィはずっと一緒だよね?」


「なんで?」


「なんでって、そんなこと女の子に言わせないの」と言いながら果南は真の身体に寄りかかった。

 真は身体を揺らして果南の頭を反対側に押しやると、果南の頭がゴンッと窓に当たった。


「痛ッ」


 その時、窓の向こう側に広がる茶畑に白いワンピースを着た少女が立っているのが見えた。

 その少女は茶畑で何か作業をしているだとか遊んでいるという風には見えず、ただそこに立ち尽くしているようだった。


「見てマコ兄ィ。女の子があんな所にいるよ」


「はぁ? 何処に?」


「ホラ、あそこのお茶畑に白いワンピースの娘がいる」


 果南が白いワンピースの少女を指さした。果南に気が付いているのか分からないが、少女はニコニコと笑い果南に向かって手を振った。


「あ、手を振ってくれてる」


 果南も手を振り始めたが、真は何度も窓の外を確認するが少女の姿を見つけられない。


「何処にもいないだろ」


「えぇ? 何言ってるのマコ兄ィ。ホラ、正面だよ正面」


 真の顔を見てからもう一度茶畑の方に視線を戻すと、白いワンピースの少女はいなくなっていた。


「あ、あれ? いない」


「いないも何も、最初からいなかったって」


「いたんだよホントに」


 真は果南の言葉に首を傾げた。


「お前が嘘を言ってないってのは分かるけど。でも誰もいないように見えたぞ。なんかビニール袋とかを見間違えたんじゃないのか?」


「そ、そんなことないよ。多分」


 果南はもう一度茶畑の方を見た。そこには人影一つありはしなかった。




「ありがとうございました」


「あいよ。気を付けりんよ」


 イントネーションが独特なバスの運転手に挨拶をしてから果南はバスを降りた。

 一時間弱バスに揺られていた果南の足裏にズシリと自分の身体の重さが伝わった。

 バス停には雨除けのための小さな小屋が建っていたが、大きな蜘蛛の巣が張り巡らされており、とてもじゃないが使えるような状態ではなかった。

 客を一人も乗せていないバスが次のバス停へと向かうのをボンヤリと見送っていると、真は既に目的地に向かって歩き始めていた。


「こっちだろ?」


「うん、待ってよマコ兄ィ」


 果南は真の隣へと走り寄った。果南は真の腕にしがみつこうとしたが、真が半歩離れたのを見て、しがみつこうと前に出した腕を引っ込めた。


「そうだ。ユウ姉ェにバス降りたよって送っとくね」


「あぁ、ついでに神社の方に向かうって伝えといて」


「りょーかーい」


 果南は携帯電話を取り出して「バス降りたよ。神社の方に行くね」という文章と共にスタンプを送信した。すぐに既読がつかなかったので携帯電話をポケットへとしまった。


「すぐに既読付かなかった」


「じゃあ運転中なんだろ」


 真は顔の周りを飛ぶ羽虫を手で払うようにしながら言った。


「確かあの階段の上だよね?」


 果南が指さした先には、木々に囲まれた三十メートル程続く苔の生えた石階段があった。階段の手前にあるボロボロになった木の看板には『この先 蛇ノ目湖』と書かれていた。


「あんなに階段短かったか? もっと長かったような気がするけど」


「それはマコ兄ィが大きくなったんじゃない?」


「そうか? まぁ、そうかもなぁ」


 真は「小学生の頃だもんなぁ」と呟きながら階段に足をかけた。

 果南はその後ろについて階段を上る。


「苔で滑んなよ」


「うん」


 上る前は短く見えた階段だったが、半分を過ぎると真の息が少しずつ上がってきた。


「フゥ、フゥ、思ったよりキツいな」


「そう? マコ兄ィ体力落ちたんじゃない?」


「お前は平気なのかよ」


「全然平気だけど」


「マジかよ」


 階段を登りきる頃には真の息はすっかり上がり、その横で果南は平然としていた。


「あ、湖が見えるよ」


「ハァ、ハァ、フゥ」


「大丈夫マコ兄ィ? 休憩する?」


「じゃあ、ちょっとあそこのベンチで休むか」


 真は近くにあった湖の方向を向いたベンチを指さした。




 ベンチに座って五分も経つと、真の息は元通りになっていた。


「よし、そろそろ行くか」


 その時、果南のポケットがプルプルと震えた。果南が携帯電話を取り出すと通知が表示された。


「あ、ユウ姉ェから返事来てる」


「なんて?」


「ちょっと待ってね」


 果南がLINKを起動すると『買い物終わって向かってる途中。あと三十分ぐらいで神社に着くよ』という文章と共に、良く分からない生き物のスタンプが貼られていた。


「あと三十分ぐらい、か」


「ねぇマコ兄ィ、時間あるしちょっとだけ湖の散歩してく?」


「面倒くさい」と真はふと思ったが、かといって三十分待つことを考えると何かで時間を潰したほうが懸命だなと判断した。

 

「そうだな。あんまり遠くに行かない範囲で行こう」


「やったぁ」


 二人は立ち上がり目の前に広がる湖の方へと歩を進めた。




 蛇ノ目湖を囲むように散歩用の道があった。しかし、手入れが行き届いていないのか、歩く人が滅多にいないのか分からないが、あちこちに草が生えていて獣道のようだった。


「なんかダニとかヒルとかいそう」


 出来るだけ草の生えていない場所を選んで歩きながら真は言った。


「え!? ヒルいるの?」


 後ろを歩く果南が真のすぐ側まで近寄った。


「知らないけど。山に行く時はダニとかヒルに気をつけろって見かけるからさ」


「ダニに噛まれたら煙草を押し付けるんだっけ?」


 果南が思い出したように豆知識を披露するが、真の表情が数秒固まった。


「それってヒルじゃないか? ダニって数ミリとかだろ? 煙草の火を当てたらダニも死ぬだろうけど皮膚が火傷するだろ」


「そうだったかも」


 蛇ノ目湖の周りを歩いていて果南はふと気が付いた。  

 音がしないのである。鳥や虫の鳴き声、風に揺られる木々のざわめき。そういった音がしていても不思議ではないのに、真と果南の二人が立てている音以外無音だった。


「なんか静かだね」


「ちょっと不気味なぐらいだな。それに風は吹いているのに湖が全く波立ってない」


「波立つのは海じゃないの?」


「湖の規模にもよるけど、風が吹いたら波紋が出来てもおかしくないってのに見ろよ。湖の表面は微動だにしてない」


 真が指さした場所を果南は見つめた。確かに、時折風が二人を掠めていくというのに湖の表面には波紋一つ起きなかった。


「小学生の頃は分からなかったけど、心霊スポットだのパワースポットだの言われてる理由が何となく分かったような気がする。なんか変な感じがする」


 真は寒くもないのにブルリと身体を震わせた。


「マコ兄ィがそんなこと言うの珍しいね」


「お前は何も感じないのか?」


「静かだなぁとは思うけど、別に。果南は霊感無いからなぁ」


「霊感は僕も無いよ。霊感あるのはユウ姉と刀也兄でしょ」


 真は二人の顔を思い浮かべながら言った。といっても、真が草薙刀也と最後にあったのは三年以上前のことで、思い出した顔は今と比べてずいぶん若いかもしれない。


「ねぇ、あの湖の真ん中に島があるけど、あそこには何があるの?」


 果南が湖の真ん中を指さした。そこには小さな島があり、その小さな島には違和感を覚えるほどに沢山の木が生えていた。


「何か祠があるとか無いとか聞いたことがあるけど、詳しくは知らない。そういうのはユウ姉に聞いた方が良い」


「祠かぁ。どうやってあそこまで行くんだろうね」


「そりゃあ、船でも出すんだろ」


「じゃあ、果南達も船があれば行けるの?」


「ここの湖って釣りも船も泳ぐのも全部禁止じゃなかったか?」


「そうなの?」


 果南は何気なく辺りを見回すと、湖の畔に刺さっていたボロボロの看板には『危険 釣り、遊泳、船 禁止』と書かれていた。


「ホントだ」


「大蛇が眠ってるから、だったりしてな」


「ダイジャ?」


 果南が聞き返すと真は「冗談冗談」と誤魔化した。


「何でも無いよ。それよりそろそろ良い時間じゃないか? 神社の方に向かうか」


 真は腕時計を見ながら言った。


「もうそんな時間?」


 二人は踵を返して来た道を戻り始めた。自分達が歩いたお陰で草が倒れており、行きよりも楽に進むことが出来た。




 神社に到着した二人は絶句した。

 境内の至る所に缶やペットボトル、その他のゴミが散乱していた。

 そして、通路のすぐ脇には壁のように雑草が生い茂っていた。


「なんか、思ってたより酷いな」


「そ、そうだね」


 二人が境内で立ち尽くしていると、ブイイインと朝も聞いた音が聞こえてきた。


「あ、この音って」


「ユウ姉だろうな」


 二人が境内を出て道路の方に向かうと、坂の下から幽子がやってきた。


「やぁやぁ、おまたせ。大丈夫だった?」


「特に何にも無かったよ」


「そっか。じゃあ、まぁ、とりあえず。一旦お泊りする家に行こうか。荷物を下ろしたいし。ついてきて」


 そう言いながら幽子は原付のエンジンを切った。手で押して行くつもりのようだった。


「坂道多いしユウ姉は原付乗ってた方が良いんじゃない? 降りるなら僕が押そうか?」


「んん、大丈夫大丈夫」


 幽子は心配ないと言わんばかりに笑ったが、荷物を満載した原付を押す幽子の腕はプルプルと震えていた。


「やっぱり僕が押してくよ」


「でも」


「良いから良いから」


 そう言いながら真は原付のハンドルを幽子から奪うように手に取った。


「おっとっと」


 想像していたよりも重い原付が真の身体の反対側に倒れそうになるのを慌てて抑えた。


「大丈夫? 自転車より重いよ」


「大丈夫大丈夫。ちょっとよろけただけ」


 真はしっかりと体重で支えながら原付を押し始めた。幽子は申し訳無さそうに真の事を見ていたが、観念したのか「ありがとう」と言って、真との間に少しだけ隙間を作って歩き始めた。



 果南は二人の少し先を歩いていた。真でも幽子でもない視線のようなモノを感じて振り返った果南は、真と幽子の後ろに茶畑にいた少女を見つけた。

 その少女は小学一年生ぐらいの背丈で白いワンピースを着ており、何故か裸足のままで、バスで見かけた時には分からなかったが黄色い目をしていた。


「マコ兄ィ、ユウ姉ェ。後ろに女の子がいるよ」


 真と幽子は同時に振り返り、同時に息を呑んだ。




 真にも、幽子にも、女の子の姿は見えなかった。

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