湯上がり幽霊奇譚~生命力あふれる幽霊のどたばたライフ、ってもう死んでるか~

はちめんタイムズ

第1話 湯上がり幽霊

 買い物からの帰り道。

 背後でニャア、という猫の鳴き声が聞こえたような気がして

 猫好きの私は思わず振り返ってしまう。

 でも、そこには猫なんていなかった。

 代わりに見えたのは、古いビルの大きな窓越しに

 こちらを向いて座る、見知らぬおばあさんだ。


「ちょっと、あなた。家に帰ってはダメよ」

 おばあさんは、穏やかな笑顔で私にそう言って手招いた。

 ……ボケてるのかな? それとも何かの勧誘?

 あいまいな笑顔を浮かべ、私は軽く頷いて通り過ぎる。

 ごめんなさい、今日は急いでるんだ。


 2月のど真ん中だけあって、

 しかも今日は氷点下になると朝の天気予報では言っていた。

 昨日のバレンタインは、婚約者かれが仕事で忙しくて会えなかったため

 代わりに今日、うちでお祝いする予定なのだ。

 だから私は、その天気予報を聞きながら

「雪が降ったらロマンティックだな」なんて浮かれていたのだ。


 買い物袋をかかえ、鼻歌交じりに上機嫌に帰ってきたところを

 下の階の学生さんに不思議な生き物を見るような目で見られてしまった。

 口をあんぐり開けてこちらを見たまま硬直する青年に対し、

 なんとか苦笑いで会釈して済ませたけど、

 ワクワクする気持ちは最高潮だった……のに。


 その時はまさか、彼から別れ話をされるとは思ってもいなかったから。


 **************


 凍り付いた気持ちとはうらはらに、

 室内の温度は真夏のような暑さで満たされていた。

 まるでサバンナのように……行ったことないけど。


 ローテーブルの上には、頑張って作ったご馳走。

 しかしそれにはまったく手が付けられておらず、

 どんどん減っていくのはお酒ばかりだ。


 外は寒かろうと、部屋を暖かくして待っていた私のもとに

 予定の時間を大幅に遅れて到着した彼は、

 なぜか不機嫌そうにテーブルの上の料理を見ると

「食べてきたからいらない」などとぬかしやがった。


 そしてドサッと座り、お酒を勝手についで飲み始めた。

 乾杯もしないで。

 そして、これまた何故かケンカ腰にいきなり、

「……結婚するのヤメにしよう」と言い放ったのだ。


 そして彼の、破談に対する長い長いプレゼンがはじまった。


 俺は乗り気じゃなかったのに私が強引に話を進めた、だの

 まだ籍も入れてないのに奥さん面して手料理とかウザい、だの

(と、憎々し気に私の料理を、汚いもののように指でつついた)

 服装の好みが合わない、会話の受け答えに可愛げがない、

 せっかちで早とちりが多い、

 仕事に張り切りすぎててみっともない、

 先日外食した時、俺と同じものじゃなくて違うものを頼んで欲しかった、

 俺が見逃したドラマを録画しておいてくれなかった、

 などなど、数は多いけど、どれもこれも「何それ?」というものばかりだ。


 そもそも向こうが交際半年でプロポーズしてきたのだし、

 もともとノンキな私は何かを急いで進めるということが出来ないタチだ。

 結婚という初めてのプロジェクトに対し、

 何をすれば良いのかイマイチ分からなくて何もしていなかったのに。

 せいぜい結婚雑誌に載っているノウハウ的な情報を感心しながら読んだり

 テントウムシの姿でサンバを踊る友だちを想像して笑うくらいだった。

 強引に、何を進めたというの?


 ただ、仕事に関しては彼自身から辞めてほしいと強く要求されていた。

 昔から暖かい家庭に憧れていたといい、子どもも早く欲しいし、

 仕事を辞めて家庭と自分を支えてほしいと何度も説得されたのだ。


 何とも古い考えだったが、彼はそこだけ異常に熱心だった。

 ずいぶん迷ったが、私の仕事の内容からしても

 結婚にしろ妊娠にしろ、急に辞めることは一番の迷惑になるため、

 最近とうとう、退職したい旨を上司に伝え、

 なんとか受理してもらった……というのに!

 ヤメにしよ、じゃないでしょうが!


 とんでもない展開、あまりの言い様に、

 私は自分を落ち着かせようと、目の前の飲み物をがぶがぶ飲んだ。

 あんな風に侮辱された食べ物を、独りで手を付ける気にはなれなかったし

 何もしないで彼の話を聞くには辛すぎたのだ。

 両手でグラスを包み込み、ちょこちょこ口に入れ、

 無くなったら注ぐ。ワインのボトルがなくなれば次を開ける。


 なんでよ。なんでこうなるの?

 彼の私に対するエンドレスなダメ出しを聞きながら、

 私は心当たりがあるのを知っていた。

 ほんとは、ずっと気付いてはいたけど、

 事実にならないように、ずっと目を背けていたことだ。


 このまま彼の語る婚約破棄の理由を聞いていたら

 私の自己肯定感は地中を深く潜り、

 ブラジルへと突き抜け、サンバを踊り出しそうだ。


 それを阻止すべく思い切って、私はカマをかけた。

「そんなの言い訳でしょ? もう知ってんだよ」

 そして若く可愛らしい、職場の後輩の名前を告げた。

 彼は充電が切れたようにピタッと止まる。

 そして予想外に、にやっと笑って後頭部に手を当てる。

 こいつ! 照れてる! 照れてる時の顔と仕草だ!

 その笑い方で、相手とはすでに両想いであり

 昨日のバレンタインはあの子と過ごしていたのだと察した。


「知ってんだ。じゃ、結婚は無しで……」

「そんなわけないでしょっ! ふざけないでよ!」

 私はついに、やっと、キレることができた。

 いっつもタイミングが遅いのだ。


「会社にだって退職するって言ったんだよ?

 もう引継ぎだって進んでるし」

「お前の仕事なんて知らねえよ。しょうがないじゃん」

 今度はふてくされたように横を向いた。

「俺もう結婚しないって決めたもん」

 そういって頬を膨らませる。

 昔は、彼の見せる幼さが好きだったけど今は殺意しか湧かない。


「いつまでも少年の心を忘れない奴の89%はクズだよ」

 かつて同期の子が女子会で言っていた言葉だけど、

 89という謎の数字が気になって、内容の方はおろそかだった。

 今ならわかる。彼はその89%に含まれてる奴だったのだ。


 愛情ゲージはすでに0を超え、マイナスへと突入していた。

 私は怒りの言葉をまくし立てる。

 でも彼は馬鹿にしたような笑いを浮かべて聞いているだけだ。

 あげくの果てに、めんどくさそうに言い放つ。

「……で? 言いたいことはそれだけ?」


 カッとなった私は責め方、いや攻め方を変えることにする。

 私はここサバンナで、イジメられる草食獣から

 大型肉食獣へと変わるのだ。


「じゃあ慰謝料だね。弁護士頼むから」

「……は? えっ!?」

「会社にも言うね、ぜんぶ。もちろんあの子にも慰謝料請求するし」

「ちょっと待ってよ。個人的な問題じゃん」

「そんなわけないでしょ。ちょっと調べたらわかるよ。

 浮気で婚約破棄なんだから罰せられるに決まってんじゃん」

 あんぐりと口を開けてこちらを見ている彼を見ていると

 ますますヒートアップしてくる。

「アンタとあの子は何百万円も私に払って、

 社会的な信用を失って、エリートコースからも外されて

 最後には会社をクビになるんだよ!

 当たり前でしょ! 常識だよね?!

 親からも友だちからもみーんなから非難されて、

 一生”あいつらは最低の人間だ”って言われるんだよ!」


 すっかり頭に血が上った私は号泣しながら

 絶対ふたりとも許さないから! と繰り返していた。

 彼は顔を白くし、急にオロオロと挙動不審になり、

 え、ちょっとまって、これそんな重大なことなの?

 ただ別れるだけじゃん、などとブツブツ言っていた。


 今はわかる。こいつは本当に考え無しのバカだ。

 彼がやったことは非常識で、実際に慰謝料もんだけど、

 何百万なんてあり得ないでしょ。

 クビになるって確率もとことん低い。

 非難されるのなんて、ほんの一時の事だ。


 ホントに常識知らずで、目先のことしか考えない考えの浅い人間。

 なんでこんな奴に……そういう思いでいっぱいになる。


 私は延々と醜い言葉で罵った後、ひと息ついて彼を見ると

 すっかり困惑し、情けない表情でうつむいていた。


「え、どうしよう。ちょっと待って」

 ぶつぶつ言う声にかぶせるように、

「見てなさい、タダじゃおかないからね。

 ……さあ、さっさと帰って」

 そういうと、彼はノロノロと立ち上がった。


 しかし、急にこのままじゃマズイ! と思い立ったのか

「お互い頭を冷やしてちゃんと考えよう? だからこの話は保留……」

 とか言い始めたので、ますますイライラした私は

「何言ってんの? 婚約してるのに浮気してる時点で

 お望み通り婚約破棄は決定だよ!

 ただし! 社会的な制裁はとことんやるけどねっ!

 次は弁護士から連絡がいくと思うよっ! ざまあみろ!」

 相手は絶望してうなり、また座り込んだ。


 小声で、どうすりゃいいんだよ……とか言ってる。


 私はかなり酔いが回っており、早く独りになりたかった。

 なんとか立ち上がり、湯船にお湯をはりに行った。

 こんな日は間違いなく、お風呂で泣くのだ。

 私はいつも、お風呂で泣くのが好きだった。


 なんというか、ハンカチもティッシュもいらないし、

 お布団も汚さない。

 涙も悲しみもざあっと流せて、冷えた心も温まるからだ。


 沈黙のまま、向かい合って座る私たち。

 そのまま時間が過ぎていく。


 いつまで経ってもそのままの彼をほっておいて

 私はお風呂に入ることにした。

 彼はうちのカギを持っているので

「さっさと帰ってよ」と告げておいた。


 ほんとなら、その鍵だって返してもらうべきだろう。

 でも沈黙の中、”なんでこんなことになっちゃったんだろう”と

 記憶をどんどんさかのぼっていくうちに、

 幸せだったクリスマスや秋の紅葉デート、

 夏の旅行、そして春先に初めてカギを渡した日の

 あのドキドキと多幸感を思い出してしまったのだ。


 返してもらったら、すべてが夢のように消えてしまいそうだった。


 私は体育座りで座り込む彼をほっておいて、風呂場に向かった。

 ドアを閉める間際、振り返ると彼がスマホを取り出していた。

 あの子に連絡するのか、それとも慰謝料の相場を調べるのか。


 もう、どうでも良い。


 灼熱のリビングを抜け、脱衣所に入ると、

 そこは心の中と同じくシベリアのような寒さだった。

 ……行ったことないけど。

 どうやら予報は当たったらしい。氷点下なのは間違いない。

 北側にあるうちの風呂場は、冬だととことん冷え込んでしまう。


 服を脱ぎながら、今日は最悪だ、なんて思っていた。

 そういえば、古いビルのおばあさんが

 ”家に帰ってはダメ”なんて言ってたのは

 このことだったのかな。

 ”今日うちに帰ったらフラれますよ”って予言だったのかも。

 ……いや今日でなくても、どのみち時間の問題だったろうけど。


 大急ぎでシャワーを出し、しばらく浴びている。

 お風呂場で髪や体を洗っている時点では涙が出なかった。

 悲しいときはこの辺で泣けてくるのだが、

 本当に辛いときには湯船に使ってから、だ。


 洗うのは簡単に済ませよう。

 アツアツの湯が張られた湯船にざぶんと入り込む。

 そして肩までつかる。つかり続ける。


 風呂場は蒸気で真っ白になっている。

 そのぼやけた景色の中、私は酔いのあまり泣けないことに気が付いた。

 今日は特に、悲しいよりも怒りの方が増しているようだ。


 私は湯船の中で長々とひたり、温度が下がるとすかさず追い焚きした。

 出たらすごく、すごく寒い現実が待っている。

 とてもここから出ていく勇気がない。


 遠くでドアがバタンと閉まる音がしたような気がした。

 彼が帰ったのかもしれない。


 私はざばっと音を立てて湯船から上がり、狭い洗い場に立ち、

 脱衣所への扉を開けた。急激にとてつもない冷気が流れ込む。

 その冷気を全身で浴びてしまう。ああ、湯船に戻りたい。


 なんだかめまいがする。飲みすぎたのか気分が悪い。

 急ごう。でも体が思うように動かない。


 まず、洗濯機の上のタオルを手に取り

 脱衣所の床が濡れないように、洗い場で軽くふく。

 でも拭いている間に、急速に体が冷えたのを感じた。

 洗い場もすでに極寒の地に変わっている。


 タオルの下に置いておいたバスローブを手に取り、

 せめてもの抵抗で、冷気が流れ込んでくる脱衣所に背を向け

 湯船を眺めながら、そのまま洗い場で着る。

 寒い日にはとにかく着てしまうのが一番。


 横着な私にピッタリな、ボタンのついていない、

 頭からかぶって着れるバスローブポンチョを着込む。


 その瞬間! 頭に激痛が走り、世界が真っ黒に変わった!

 なんだか動けない! 体が思うようにきかない!

 痛い! いたい……


 *****************


 次に見たのは湯けむりの中、私を覗き込む人影だった。

 風呂場に人がいることで、私はパニックを起こした。

 意識が混乱し、声にならない悲鳴をあげ、

 私は訳も分からず暴れまくった。


 再び薄れゆく意識の中、ニャア、という声が聞こえた気がした。


 *************


 そしてしばらく過ぎ、ぼんやりと意識が戻った時に見たものは

 湯船の冷え切った水のなかで沈む、自分の姿だったのだ。


 そしてそれを見下ろす私の姿は、

 くたびれ切ったピンクのバスローブをまとっている。


 自分の身に起きたことが受け入れられずに呆然としていた。

 湯船の中の自分の死体。薄く透ける体。


 こうして私は、世にも珍しい”湯上がり幽霊”となったのである。

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