売女の国

富永夏海

売女の国


 あるところに仕事に倦み疲れた女がいて、もうこんな生活は懲り懲りだと嘆き、旅に出ることにした。遠いどこかに売女の国があって、傷つき疲れた女たちを癒してくれるという噂が、売女のあいだでまことしやかに流れていたからである。女はもともと少なかった荷物をまとめ、髪を括った。ハンマーでパソコンを割って雑木林に捨て、メモや日記の類も燃やし、家賃も払わず家具も雑誌も汚れた皿もそのままに旅に出た。もう何もかも全てどうでもよかったのだ。

 ただ捨て鉢な一方で、自分ならどうにかして辿り着けるという自信があった。何せ金を稼ぐ方法は心得てるし、今や失う物も何もない。女は旅の途中、路上に立ち、声をかけてきた男とそれらしいそぶりでホテルに入ると、男がシャワーを浴びている間に財布を盗んで逃げた。舌ったらずにしゃべると、男というのは驚くほど愚鈍になり女を侮るものだ。ましてやこれからそういうことをしようという期待に悶々としているときというのはますますひどい。だからたまたま少し警戒心が強くて、荷物を脱衣所に持っていくタイプが相手であっても、堂々と脱衣所に入って財布を抜いて逃げた。何回か蒼白な顔で相手がシャワールームから出てきてしまったこともあったが、用意していたスタンガンで怯ませて財布を持って逃げた。

 それでもしつこく追いかけてくるやつが一人いて、背後から組みついてきたが、出刃包丁で腹を刺すと、男はしばらくうう、とかああ、とか呻いた後、血泡を吹いて倒れた。それでもしばらくは動いていたので、女は傍らにしゃがみ込んで動かなくなるまで観察し、念のため心臓のあたりと腹を数回刺して、完全に静止するのを見届けると、心底安堵して、突き刺さった包丁もそのままに歩き出した。ほんとうは女は、旅の途中でうまいものでも食べたかったのである。新鮮な魚でも買って自分で捌いてみたかったのである。だが人の血に濡れてしまったものなど気味悪いし、もはや刺身のことなどどうでもよくなってしまった。包丁はもったいないが仕方ない。

 女はもはや、感情のままに行動してみたかった。何の制約もなく何の劣等感も罪悪感も持たずのびのび生きてみたかった。私と会ったが運の尽きだと思うさま無礼を働いてみたかったのだ。女は精神の自由を得たのである。

 結局のところ、女しか孕めないということがすべての問題ではないかと女は考えていた。何をするにも結局はそのことがつきまとう。セックスして楽しいのは男で、女が常に被害者になってしまうのは、結局そういうことなのだ。せめてそこが平等になれば、少しは救われるのに。たとえば、慰めでもいいから「僕も孕もう」とか「双子を産もう」とか、冗談でもいいから言ってくれれば――いや、ただイラつくだけか。だからこれはたぶん、どうしようもないことなのだろう。そうじゃなければ私だって、こんな風に旅に出たりしない

 乾いた土煙の立つ地をどんどん歩いていくと、行く手に何やら城塞のようなものが見えてきた。堅牢な門の両脇に、武装した女がひとりずつ立っていた。女が近づくと、二人の門番はぎらりと光る矛先を向けてきた。

「これより先は売女の国。お前は売女か?」

 右の門番が言った。左は黙っており、こちらに矛先を向けたままぴくりとも動かない。

「そうです」

「手を見せろ」

 女は血にぬるついた両手を差し出した。

「その血はなんだ?」

「男を殺しました」

「なぜ」

「追いかけてきたからです」

「なぜだ」

「私が財布を盗んだからです」

「なるほど。それでお前は……」

 鉄仮面アーメットのスリットから衛兵は、女を頭から爪先まで睥睨した。

「たしかに売女なのだな? つまり男と性行為をして暮らしを立てていた」

 女はうなずいた。

「十二の頃からこの仕事しかしたことがありません。親も頼りなかったものですから。読み書きはかろうじてできますが計算となるとうまくありません。小さい頃父にぶたれて鼓膜が破れ、右耳が聞こえません。母が父を撃ったときの流れ弾が当たって、左目もよく見えません。しゃべりもうまくありませんしまっすぐにも立てません。とにかくこの仕事しかしたことがないのです」

「よくわかった」

 門番はうなずいた。

「お前は正真正銘の売女だ。この運命をよくぞ生き抜いてきた。我が国はお前を歓迎する。通るがいい」

 女は心からほっとした。そして、こういうことを心のどこかで予感していた自分を自覚していた。この自分が、何を憂えることもなく、何を恥じ入ることもなく、大手を振って歩ける場所がどこかに必ずあるのだと信じていた。幼い頃、母の手によって父の頭が炸裂したあの日から世界は潰れてしまったが、それでも女の心の核の部分は、不思議と前を向いていたのだ。

「血を洗い流すがいい」

 背後に衛兵の声が届いた。

「それから罪と過去を。すべての記憶を。新しい体を手に入れるがいい」

 門をくぐるとつめたい森が広がっていた。踏み固められた道をゆくと、両脇の樹々の合間を白い衣の女たちが歩いているのが見えた。いや、歩いているのではなく舞っている。いやそうではなく、風変わりな動きで女に会釈している。女はしばし足を止め、その流れるような動きに見入っていた。このひとたちも売女なんだろうか。みんなずいぶんきれいだし、すれっからしみたいな感じはしないけど。しかしよくよく見てみるとあるものは脚がない。あるものは腕がない。あるものは片方の肩がひどく落ちていて、あるものは腰が後ろに突き出ていてまっすぐ歩いていられない。誰もがきちんと薄化粧をしてはいるが、よくよく見ると鼻が曲がっている。隻眼。疣贅ゆうぜい。口唇裂。

「こちらへ」

 いつの間にか、そのうちのひとりに手を引かれていた。他のものと同じくきちんと薄化粧をし、柔らかいシフォンのワンピースを着てじつに優雅だが、左目がおかしい。眼窩であろう部分の肉が急に落ち窪んでいて、窪みの底部に小豆粒のような曇った眼が埋まっている。義眼の女に連れられて、女は白い小さな建物のなかへ引き込まれた。そこでまず血に濡れた服を脱がされ、数人の女に手伝われながら体を湯で流し、練絹のような湯船に入れられた。髪を梳かれながら洗われた。あの男の汚らわしい血は、瞬く間に流れて消えた。

 鏡の前に座らされると、女はこれまで自分がずいぶん埃をかぶっていたのだということに気づいた。女は全身にオイルを塗られ、粉をはたかれた。逆立っていた髪も今やなめらかに光っていた。化粧係の義眼の女が鏡ごしに言った。

「これからあなたは自分のために化粧をする。これからあなたはもう自分以外の他のどんな相手のために何かをすることはない。これまでのあなたはさっきの古い血と一緒に、はるか彼方へ流れて消えた。これからのあなたの行く末を邪魔するものは一切ないわ」

 女は最後に靴を選ばなくてはならなかった。広大な庭園にいくつか建った東屋ガゼボのひとつに案内されると、そこにはありとあらゆるデザインの靴がきちんとそろえて並んでいるのだった。試しにいくつか足を入れてみるとどれも女のサイズにぴったりだった。女は咄嗟にヒールの高いものから選ぼうとしたが、もうそんな必要はないのだと考え直し、ブロックヒールの赤いサンダルを戻した。ここには女しかいないし、もうスタイルをよく見せようとしなくてもいい、脚を細く長く見せようとしなくてもいい、女らしさなんてもののことは考えなくていいのだ。もうきつい傾斜のなかで指を縮こませていなくていいのだ。女は生牡蠣色のフラットシューズを選び、少し歩いてみた。内側の生地が柔らかく足になじみ、どこまでも歩いていけそうだった。爪先も踵も親指の付け根も、どこも当たるところはない。爪先を軽く押してみるが、大丈夫そうだ。まるでもともとそうやって女の足に吸い付くために生まれてきたかのようにぴったりだ。

 東屋を出、森をどんどん歩いていくと黒い門があった。美しい音楽が、歓声が聞こえてきていた。畸形の女がふたり、女が近づくと会釈しながら門を開いた。するとまず巨大なメリーゴーランドが見えた。白馬もあれば栗毛も、灰色のもあって、ユニコーンやペガサスも、白鳥やいるかやフェアリーもある。賑やかな音楽とともに駆動し、白い衣の女たちが楽しげに乗っている。長いリボンをひらめかせているものがいる。背の高い芍薬を携えているものがいる。束ねた風船を持っているものも。ぼうっと見惚れている女の手に、不意に何かが押しつけられた。見るとそれは桃色のソフトクリームだった。妖精の羽を生やした侏儒症の売り手が、にっこり笑って去っていく。白いチュチュをつけた白鳥がふたり、眼前を流れ去っていく。

 女はソフトクリームを一口舐め、そばにあった銀色のベンチに腰掛けた。太鼓と踊りと笛の一行が目の前を横切ってゆく。メリーゴーランドの奥では噴水が飛沫を上げ、その奥には観覧車がある。女はそんなものは生まれて初めて見た。絵本やテレビでそういうものを見かけたことはあったが、実際に存在することは知らなかったし、あったとしても自分には縁のないものだと思っていた。

 太陽は軽やかな光を投げかけ、噴水の飛沫を蛋白石オパールの欠片のように輝かせている。どこからか流れてくる音楽は途切れることなく、ただそこにあるべきものがひとつだけない。それは子供の声だった。ここには子供がいないのだ。

 ソフトクリームを舐めながらぼんやりしていると、オーロラモルフォの蒼い翅をつけた女が音もなく隣に座った。新しいひとね、と彼女は言った。さあそれを食べたら、王のもとへ行きましょう。

「王?」

 女は驚いた。

「ここには王がいるの?」

「ええ、ここを統治してるのよ」

 一瞬の表情の曇りを翅の女は見逃さなかった。

「いいえ、男じゃないわ。ここには女しかいないから王といえば女の王なの。そうでしょう? もう私たちは、女王だとか、女帝だとか、女戦士だとか、そんなふうに言う必要はない。王は私たちよ。帝王は私たちよ。そして戦士は私たちなのよ」

 立ち上がり、軽やかに歩き始める翅の女の後に、女は続いた。

 巻貝を模した城が王の御所だと翅の女は言った。ジェットコースターを過ぎ、コーヒーカップを過ぎ、観覧車を過ぎたところで甲高い声がしたので思わず振り向くと、ひとりの少女が――水色のワンピースを着て髪を金色のリボンで結った五歳くらいの少女が、赤い風船をもらって得意げにしている。何かを察したように翅の女がこちらを見て、小さく首を振って言う。外から来た子ではないわ。女は当惑する。ではあの子は、あのほんとうに幸せそうで何の不足もなさそうな可愛らしいあの子は、何者なのか。

 巻貝宮殿へ至ると、衛兵が翅の女を見るなり武器を下ろした。真珠色の螺旋階段をどんどん登った。いくつも扉があったがどれも通り過ぎ、 頂きへ至ると、冠を戴いた王が玉座にいて、長い脚を組んでいた。冠以外、何も身につけていなかった。頭髪さえなく、なめらかな頭皮を晒していた。翅の女がひざまづいたので、女も急いでそれにならった。

「これなるは我らが王」

 翅の女が言った。

「この国を治める淫売王三世であらせられる。王よ、新たなる女を連れてまいりました」

 王がうなずくと翅の女は退出した。真珠色の広間で、淫売王と女だけが残された。

「楽にするがよい」

 どこからともなく運び手がやってきて、女のもとへ白い布張りの椅子を持ってきた。女が座ると、運び手は静かに消えた。

「我が国の土を踏みし者よ。そなたはもはや弱き女ではなく、みずからのために命を燃やす美しい生き物となった。ここでくつろぎ、疲れを癒し、新たな人生を始めるがよい」

「ありがとうございます」

「先ほどの翅のものが国を隅々まで案内してくれよう。巡りつつ、失った誇りと希望を取り戻すがよい。そなたはあるがままで美しく、あるがままで強い。それを忘れるな」

「はい。それで、ひとつお聞きしたいことがございます、その……王さま」

「申してみよ」

「先ほど私は子供を見ました。遊園地のところで……赤い風船を持っていました。ここには子供もいるのですか?」

「そうだ。子供は希望そのものだからな」

 と王は言い、長くつややかな脚を組み替えた。

「その歩みは遅くはあったが、我々は生みの苦しみからも解放された。少しずつではあるが、この国ではその自由を味わうことができる。つまり我々は自分の躰を痛めることなく子供を授かれるようになった。当然、苦しみを味わいたいものがいればその通りにもできる。だが今のところそういう声は聞いていない。子宮さえも要らないという声がほとんどだ。そなたも希望すれば摘出できるから、あとで申し出るがいい」

「ではあの子供は、この国で生まれたのですね?」

「そうだ。分娩房にも、あとで見学に行くがよい」

 淫売王が去ってしまうとまたあのオーロラモルフォの翅の女がやってきて、女の手を引いた。

「さあ、行きましょう。この国のことを学ぶのよ」


 翅の女は語った。この国が女たちの理想でできていると。淫売王はみずからの美しさを体現するためにすべての体毛を剃り、あるがままの姿で暮らしていると。子宮は除去し、子宮庫に保管している。出産は男舎にいる男どもが担っていて、体格の良いものを選んで子宮を移植し、その内部で胎児が育まれる。生まれたものが女児であれば国で暮らし、男児であれば再び男舎へ戻される。

「こうすれば女は永遠に苦しむことなく、命の循環も保たれる」

 と翅の女は言った。

「希望があれば男性と性行為をして、国外の女のように妊娠することもできる。でも大概そういう希望はないわね。ここへ来るものはもう妊娠できない体になっているものも少なくないし、そうなるまでに十分すぎるほど、女の宿命に辟易しているものだから。で、どうする? あなたは。子宮はそのままにしておく?」

 女は首を振った。

「実はもうないんです。私もずいぶん早いうちにだめにしてしまったから」

「そう、なら問題はないわね」

 翅の女は微笑んだ。

「でもここでは子宮のあるなしにかかわらず、子供を持つことはできる。希望があれば言ってね。といっても、ここはみんなで暮らしていくところだから、ここの全員がもうすでにあなたの家族のようなものだわ。そしてもしセックスしたくなれば、それも言って。この国ではとても安全に、なんのリスクもなくセックスを楽しめるシステムが整っているの」

 口ごもる女に、翅の女は明るく笑ってその肩を叩いた。

「そんな顔しないでよ。ほんとに軽い気持ちで大丈夫だから。女だって性欲があるものね。ここではそんな話だってとてもフランクにできるのよ。もちろん無理強いはしないわ、そういうのが好きじゃないひともたくさんいるからね。ただ、ほんとに気軽な感じでいいのよ。眠れない時にちょっと気分転換するくらいの気持ちでいいの」

「なら、この国には男もいるのね?」

「そうよ。私たちが選別するの」

 と翅の女は言った。

「そして私がその選別の長を担ってるの。容姿のいいもの、匂いのいいもの、性格の優しいものを選別してるわ。もっとも、ここで生まれたものは大概そういうふうに育つけれど」

 翅の女が笑うと、オーロラモルフォの翅が蒼い光を女の鼻先に投げかけた。

「ただ、この国の男の最初の最初は、初代淫売王が連れてきた罪人だったと言われている。淫売王は自分を不具にした男を引きずってこの地までやってきて、この国を興したの。そしてその男を鎖で繋ぎ、奴隷にした。同じようないきさつでやってきた他の女たちが淫売王に共感し、同じく自分に罪を働いた男を奴隷にしたの。そうやって少しずつここは拡大し、国となったのよ」

 男舎は清潔で無臭で、広々としていた。国の中心から少し離れた丘の上にそれは建設されていた。首に鎖をかけられた男たちが一人ずつガラス張りの房に入って、じつに大人しくしていた。

「きちんとしてるでしょ? 管理者が男ならこうはいかない。女は生まれつき美しいものを愛でる性質を持ってるのよ」

 翅の女を見つけると、ガラス房の中の男たちはみな一様に目を伏せ、きちんと会釈した。

「彼らは生まれるとすぐに選別される。容姿のいいものは慰夫いふになり、力のあるものは労働夫となる。長い歴史の中で、食肉用になっていた時代もあったわ。だけどやはりそれは、倫理的側面から廃止にしたの。味もよくなかったからね――子供は別だけど。でも、人間の子供なんて食べたくないでしょ? たとえ憎い男であったとしても。それにね、たとえ男だったとしても、小さな子供を閉じ込めて食べるためだけに生育するなんて仕事は、誰もやりたがらなかったのよ」

 とにかく私たちは、ありとあらゆる苦しみから解放されたのよ、と翅の女は言った。面倒なことはぜんぶ男がやるの。妊娠も出産も農耕も建設も運搬も、ありとあらゆるすべての雑務も。計画だけは、美意識が高く賢い私たちが担うのよ。そうすればこんなに素晴らしい国が出来上がるというわけなの。男たちのほうでも、そこまで厭ではないみたいよ。だって容姿のいいものは適度に性欲を満たせてごはんももらえるし、そうでないものは精巣もペニスも切られるから、性欲自体湧かないからね。生殖器がないと、男って驚くほど大人しいわよ。たまに自然の中を歩き回らせて、あとは映画とかゲームとかを与えておくだけでいいの。案外管理しやすいのよ。

 憎しみから始まった国だけど――と翅の女は言った。我が国は、もしかすると全世界の模範となるものを備えているかもしれない。淫売王はそうおっしゃっているし、私も少しずつそんなふうに考え始めているのよ。だってここに不足は何ひとつない。ただ男たちを女がきちんと管理さえすれば、何もかもうまくいくの――この夢のような国で、死ぬまで幸せに暮らしてゆけるのよ。


 翅の女の言うように、売女の国の不可思議な秩序は、小国の中だけに留めるには惜しいという流れになっていった。

 男どもがくだらない事件を起こすたび、売女の国の噂がささやかれるようになり、この地を目指すものの数は増した。売女ではない女の入国に関して当初国側は拒絶していたが、そうもしていられなくなっていった。

 街から妻が消え、姉と妹が消え、娘が、母が、祖母が消えた。仕事をもつひとりみの女が消え、仕事をもたないひとりみの女が消えた。そしてとうとう、公共のメディアにおいて売女の国が開発した『無痛断茎機』が紹介され、罵声と共に静かながら感嘆の声も上がった時、淫売王は初めてその完璧な肢体をメディアに晒し、高らかにこう宣言した。「あなたはあなたのためだけに美しい」

 結局は、男の性欲が諸悪の根源だったのだということになるまでに時間はかかったが、ひとたびそういうことになれば誰も勢いを止められなかった。当然男どもは最後まで抗議したが、女どもも束になれば案外強い。何より、たとえ腕力では勝らなくともひどい罵詈雑言で心をずたずたにすることなどたやすく、そうなると男は驚くほど戦意を喪失し、使いものにならなくなる。

 当然、男に抱かれることで自尊心のすべてを満たしているような女たちや、まだ男という存在そのものに未練のある女たちが、淫売王に寝返ることは多々あったし、むろんLGBTQの問題も残っていた。ただ、とにかく精巣もろとも陰茎を切断すべきであるという淫売王の信念が覆ることはなく、淫売王九世の時代、ようやく断茎法が制定され、世界は大きな転換期を迎えることとなった。

 実際、陰茎を切断するだけで性犯罪はぐっと減ったのだ。陰茎がないから物理的にそれができないということは大きかったし、よからぬことを考えている者への抑止力となったし、そもそもよからぬことを考えつくことさえなくなった。レイプの苦しみは断茎の苦しみであると、淫売王は強調した。男の〈減るもんじゃないから〉という言葉に、その安直な女性観が現れていると論じた。確かに物理的には女性は何も失っていないように見えるかもしれない。しかし魂が摩耗しているのだ。男は精神的な世界を持たない単純動物だから、具体的な顕現が無ければ何ひとつ理解できない。だからペニスを切断しなければならない。女が男によって損なわれているとき、肉体的な痛みだけでなく尊厳が損なわれている。魂の核が損なわれている。それを男が理解するには、断茎のほかに手立てがない。

淫売王三世の時代にあの翅の女がすでに見出していたように、ペニスのなくなった男は非常に大人しく、扱いやすい優しい家畜同然だった。

女たちが世界の仕組みを思いつき、男たちがそれを実際に形にするというシステムになってから、世界は格段に美しくなった。戦争もなくなった。貧困も、幼児ポルノも、覇権争いもなくなった。浮気という概念も、不倫という概念もなくなった。そしてファッションに革命が起こった。女たちはもうブラをつけずにトップレスで出歩くようになった。もはや胸を隠す必要などなくなったのだから。乳首に好きな色を塗り、乳房も左右異なる色にペイントして、女たちは密林の花のように咲き誇った。ショーツさえ、生理の時にしか履かなくなった。だから下着メーカーはこぞって〈華美な〉商品を開発し始めた。すなわち性器を隠すのではないもの。むしろ性器がまるでアゲハ蝶のように見えるデザインのショーツ。また、性器の割れ目に沿ってパールがあしらわれているショーツは以前はアブノーマルな類であったが、今や性器を「可愛く」見せる至極ポピュラーなものとして普及した。そしてもう女たちは全裸で歩いたってかまわなくなったのである。実際に、真夏においてはそういった光景はありふれたものとなった。

 そして女たちが思うさま手腕を振るったのは、自分たちのファッションだけでなく、選別された慰夫たちのファッションである。彼らのペニスをいかに美しく見せるか、彼らの肉体をいかに雄々しくセクシーに見せるかということもまた、目下の世の課題となった。

 すべてを解放してよくなった女たちは、もう陰湿な集まりや仲間外れや噂話などにいそしむことはなくなった。彼らは太っていようが痩せていようが、不具であろうが愚かであろうが、堂々と闊歩した。慰夫による定期的なセックスが約束されていることで、男をめぐる陰湿な闘争が生じることもなくなり、またセックスについてどこでもオープンに話せるようになったおかげでストレスもなくなった。子供は男が孕むものになったから、子供や出産や妊娠にまつわるあらゆる嫌がらせも時代遅れの産物となった。

 子宮除去手術はかなりメジャーになってきてはいたが、古来の女性性への憧憬から、あるいは単純に自分の体を傷つけるのが厭だという観点から、子宮を残すものもまだあった。それでも生理期間は世界中至るところにある『ピリオド・センター』にて、スパ生活を二週間送ることができる。だから生理を残し、月に一度のピリオドウィークを楽しむ人生を選ぶものもまだあった。

 女たちは、フリルがたっぷりついたドレスの裾をからげて駆け回り、あるいは美しくのびやかな肢体を思うさま露出して闊歩し、ありとあらゆる美しい靴を消費した。

 男たちの腹は幸せそうにふくらみ、出産を経験しながら生き残った男は男舎の中でも特に広く美しい一角をあてがわれ、一生涯そこでPS9をして過ごしていいという法律が世界的に制定された。

 切り取られたペニスだけがこの世で一番陰気な存在として萎びていたが、ある芸術家が断茎台に上がって宣言を行い、切り取られたペニスを全て持ち帰って丹念に乾かし、磨き上げ、釉薬をかけて焼き、それぞれがクリスタルのように輝くようにした。そしてその輝くペニスを緻密に組み合わせて、子孫の代まで五百年かけて『ペニスの塔』を作り上げた。これは旧時代と新時代の激しい転換期を体現する、歴史的な建造物として屹立する世界の象徴となった。

 その頃になると、もうすべてのラーメン屋はパンケーキ屋になっており、焼肉屋はスムージー屋になっていた。ありとあらゆる化粧室はどんどん拡大し、コンビニのトイレでさえほとんどエステルームの様相を呈していた。陰陽マークは廃止されてただの白い円になった。カラフルなタンポン、それも本来ひもがついているところに薔薇や百合やガーベラといった生花がつき、中に入れるとまるで下腹部から花が咲いているように見えるフラワータンポンがドラッグストアに溢れた。シャネルもグッチもエルメスも、みな我先にとラグジュアリーなフラワータンポンを生み出した。生理用品を「紙袋に入れますか」などと不名誉なことを言ったり、ましてや生理って気持ちいいものなんですかとか愚鈍極まりないことを言う男はみなペニスを切られて男舎に閉じ込められていくから、女はこそこそ隠れるようにタンポンを買うこともなくなった。

 そして、そんなふうにこそこそしていた時代を懐古さえして、かの時代の女性性の抑圧を決して忘れてはいけないと、語り部の養成学校も設立されたのである。とんでもないブルマを履かなければならなかった時代について、凍てつく日もスカートを履かなければならなかった時代について、誰もがアクセスできるウェブサイトに幼女を凌辱する凄惨な漫画の広告が平気で晒されていた時代について、語り部は語った。すべての家畜は解き放たれ、豚も牛も鶏もそこらじゅうで鳴き交わし、どこにおいても大豆やコーンやビーツが栽培されてまばゆく輝いていた。排気ガスは格段に減り、河川は蘇った。動物は生き生きと野山を駆け回り、空は澄み渡り、海はますます豊饒となった。

 そのようにして、地球に永遠の平和がもたらされた。かのように見えた。むろんそれも、ある男児が生まれるまでのこと。その男児が不完全な陰茎を持っているであろうことは想像に難くない。そして同時に、体内に子宮を持っているということも。

 その男児を取り上げた医師は死産として報告してもよかったろうが、それはできなかった。また、人知れず男性器の除去手術を施してもよかったろうが、それもできなかった。なぜなら生まれたばかりの赤子というのはどれもあまりに無垢で、男であっても女であっても、そのどちらであってもなくても、すべての闇を退けるからである。

 そして何よりその医師自身、男性を激しく抑圧する風潮に対して、はっきりと言語化はできないまでも、少なからず違和感を持っていたからである。事実、どんなに男が憎い女であっても、生まれたばかりの男児を男舎に押し込めるのは厭なものだ。まだ無垢な、まだ少女との見分けさえつかない少年の男性器を切断するのは厭なものだ。だからこそそういった仕事を、すべて男どもに任せていたのだから。男たちは無表情で断茎した。心を殺していた。これが男の運命なんだと諦めていた。少なくとも、諦めようとしていた。

 さて、男性器を持ちながらも毎月の生理に悩まされるその子はそのままの姿にされ、男舎に入れられることなく、ただしさまざまな差別の目にさらされながら成長した。そして成人すると、フラワータンポンを挿しながらもペニスを晒し、大胆にもデモを行った。昼ひなかの路上でペニスがぶらついている様は、去勢された男たちの遠い記憶を呼び覚まし、女たちに対しても驚きとざわめきをもたらした。やがてアンドロジナスな彼は、日中に男性器を晒して歩いていることから〈変態王〉と揶揄され、ではあなたがたが晒しているそれはなんなのだ、それは変態にはあたらないのかと、女の裸体に鋭く反論し、ペニスの権利を求めて実際にありとあらゆる変態行為の限りをし尽くし、男たちの目覚めを促した。

 変態王のアートなアクティビティによって男たちは徐々に誇りを取り戻し、あの『ペニスの塔』にゴリラのようによじ登って、野蛮な雄たけびを上げた。そしてこう叫んだ、「ペニスは美しい」「ペニスを還せ」と。

 長きに渡る抑圧の時代を経て慇懃かつしなやかな性欲を手にした男たちは、滾るマグマの予感に体を震わせながら、力強い行進をして女たちを魅了する。女たちは女の自由を謳歌していながらも、心のどこかであの力強さを求めていたのである。はるか昔にあったと言われる、男たちの粗野な力、ひどく愚かだがひとたび上り詰めればすべてを押し流し燃やし尽くしてしまう命の熱さ、その熱が安らかに収まる先を求め、それを得るためならばどんなことでも――訳の分からない芸術を確立するのだって、宇宙の果てまで探索するのだって、微生物の世界を際限なく拡大していって隅々まで見てまわるのだって――成し遂げてしまう、その偏執狂的なリビドーに、じつは焦がれていたのである。

やがていくつもの過ちと争いがやってきた。

 初代変態王亡き後も、彼のパフォーマンスに感化されてペニスの解放を求める者の中から新たな変態王が生まれ、引き続きペニスデモは行われた。ペニスの無いものはディルドを装着した。妊娠中の男も、丸い腹を抱えながら行進した。その運動に、恐る恐るではあるが、フラワータンポンのデザインに参加していたメゾンが次々と加わり、今度は世にも美しい宝石ディルドを競い合うようにして生み出したのだった。名だたるアーティストもみなペニス型マイクを取り入れ、ライブ中に疑似口戯をする「ラブペニス運動」が世界的に拡大していった。

 最初は男ばかりだった陰茎権ペニスライツを求めるデモは、もはや女も男もそのどちらでもないものも参加する、華やかなパレードとなった。人類の目覚めのときがすぐそこまでやってきていた。

 やがて淫売王三十二世と変態王十五世が互いに手を取り、真実を知る時が来た。はるか昔、まだその魂が無垢でただ心地よくぬるい羊水に浮かんでいた時分、女のヴァギナにもともと硬いペニスが生えていたことを、そして男のペニスはもともとヴァギナの柔らかい肉にくるまれていたことを。魂の分化と共に肉体も進化してゆく。子宮のなかで、女のヴァギナに生えていたペニスはこぼれて抜け、男のペニスをくるんでいたヴァギナが剥がれ落ちる。ああだから我々は互いに求めあうのだ。ただそれは、元の形に戻りたいというだけの切実な希求だったのだ。

 すべてを知った後、全裸の淫売王と変態王はその結合をメディアを通じて全世界に晒した。聞くがいい、と、その隠部をしっかり結合させながら、淫売王は全世界の女に対して、そしてもちろん男に対して、宣誓した。セックスは女をすり減らす行為ではない。これは私たちが元の姿に戻るための行為である。私たちはもう眠れぬ夜のただの遊戯としてセックスするのではない。ただ元々ここにあったペニスを取り戻さんがためにこれを招き入れる。そして私は可愛い我が子を孕むとしよう。

 なら僕も、と変態王は言った。僕も孕もう。僕たちはそうやって、双子を産もう。

ただの白い円は元通り陰陽のマークに回帰した。断茎機は粉砕され、これまでに切断されたすべての陰茎を弔う祈りが各地で捧げられた。そしてこの世では、誰もかれもが裸で歩くことを許された。従って、美も醜も、老いも若いも、白も黒も、後ろも前も何もなかった。ただみながみな、照り付ける太陽の下、輝く肢体を晒していた。

 そして語り部養成学校を出た語り部のみが、薄汚い安宿で憂き目に遭った売女どもの歴史をとぎれとぎれに伝え、やがてはそれも廃れゆく。そしていつかきっとまたカオスは爆ぜるだろうが、過ちは訪うだろうが、それまでの束の間の安寧だったとしても、山は青々と茂り、海は唸りを上げる。とてつもない雲が湧いてどこもかしこも水浸しとなり、太陽がすべてを輝かせる。人知れぬ山奥で幻の花が開いて腐乱死体の臭気を放ち、凄まじい数の太った蠅が花蜜めざして一斉に舞い上がる。鳥は奇怪な踊りをおどり、獣は意味なくそこらじゅう駆けまわり、蟹も亀も蠍もやどかりも、それぞれにできうる限りの痴態を繰り広げる。月が満ち、また欠けて、海の彼方からひとふりのつめたい巨剣がやってくる。

 そして今度こそほんとうに、世界に永遠の平和がもたらされた。〈了〉

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