37.ソペットの話
夕食の後、カトレアの吊るし飾りがついたドアをノックすると、すぐに「はいはいー」と答えるソペットの声が聞こえてきた。
「ロティアとフフランです。ソペットさん、今、お時間よろしいですか」
「もちろん。どうぞ、入って」
「失礼します」と言いながらドアを開けると、ソペットは、窓際のキルトのクロスがかかった肘掛け椅子に座っていた。開け放たれた窓から秋の夜の涼しい風がそよそよと部屋の中に入ってくる。
「今日は診察お疲れさまでした」
「ハハッ、ありがとう。お恥ずかしいところを見せたね。さあ、そのソファに座って」
フフランは、ロティアの肩からソペットが手で示したソファの背もたれに飛び移った。
「ありがとうございます。でも、診察でお疲れだと思うので、用が済んだらすぐに退散します」
「……わたしには、ロティアくんも疲れているように見えるよ」
ロティアが「えっ」とつぶやくと、ソペットは目尻にしわを寄せて微笑んだ。
「ずいぶん長くお散歩していたようだったね。暑かっただろう」
「いえ、楽しかったです。雑貨屋さんとギフト店とカフェに案内してもらって。どこも素敵で、フォラドが好きになりました」
ロティアは早口でそう言いながら、ソペットに歩み寄った。
「これ、ギフト店で買ったんです。お世話になっているお礼に。受け取っていただけますか」
「えっ! わたしにかい?」
ソペットはハトが豆鉄砲を食らったような顔を、両手の人差し指で指した。そんなに驚かれると思っていなかったロティアは「は、はい」とドキドキして答える。
「突然お邪魔したのに、すごくよくしていただいているので」
「改めてありがとな、ソペットさん」
フェアリーボックスの包み紙に、短い手紙を添えた贈り物を差し出す。ソペットは「ありがとう」と言って、かさついた手でじっくりとリボンを解いて行った。
「おや、かわいいインク瓶だ。ロティアくんは贈り物を選ぶのが上手いねえ」
ソペットは、ゴツゴツした月面を再現した三日月型のインク瓶を両手でこねるように触った。
「仕事柄インク瓶は目につくんです。気に入っていただけてよかった」
「今後はこのインク瓶を使わせてもらうよ。ありがとう。それから手紙も、大切に読ませてもらうね」
ソペットは手紙と贈り物を出窓に置くと、じっくりとロティアとフフランを見た。ロティアはハッとしてソファから立ち上がった。
「あ、用事はこれだけです。お休み中にお邪魔してすみませんでした」
「ゆっくり休めよ」
「ああ、いや。早く出て行ってほしいわけじゃないんだ。……むしろ、少しだけ話せるかな?」
ソペットは白いあごひげが生えたあごを触りながら、上目遣いをしてきた。その目がリジンとよく似ているとわかると、ロティアは安心して「喜んで」と答えた。
「ありがとう。ロティアくんは、もちろんフフランくんも、とても良い人だ。リジンが仲良くなったのもよくわかる」
「そんな。褒めすぎですよ」
ロティアが顔の前で手を振ると、ソペットはそれよりももっと大きく頭の辺りで手を振った。
「いいや。君たちはとても良い人だ。リジンをわたしが独り占めにしても、少しも嫌な顔をしなかったじゃないか」
「……えっ?」
「独り占めって、ソペットさんはリジンの手を貸してもらってただけじゃないか」
ロティアとフフランが顔を見合わせて首をかしげると、ソペットはクツクツと笑いながら「ほらね」と言った。
「君たちとリジンだけの時間ができないように、わたしが仕向けていたとも考えなかっただろう」
今度はロティアとフフランがハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。
想像もしていなかった話だ。
「そ、そんなこと、ちっとも考えませんでした。ソペットさんには、十分良くしていただいているつもりです」
「いいや。わたしは悪いことをした。あの子が、リジンが、君たちとの再会を喜んでいるのはもちろんだ。ヴェリオーズから帰って来てからというもの、一と二にはロティアくんとフフランくんの話だったからね。ただ、あの子は今傷を負っている。だから、君たちと、ふたりと一羽きりになるのを恐れているようにも見えたんだ。何か決定的なことを言われるんじゃないかと、怯えているように見えた。だから、リジンが君たちと話せるようになるまで時間稼ぎをしようと思って、君たちを遠ざけたんだ。何かと理由をつけてね」
ソペットは眉間に深いしわを寄せ、真っすぐにロティアとフフランを見た。
「わざわざ隣国から時間をかけてリジンに会いに来てくれたにもかかわらず、本当に申し訳なかった」
「あ、謝らないでください。わたしもフフランも、ソペットさんが気にするように感じたことはありませんでしたよ。ねえ、フフラン?」
「ああ。孫が大好きな良い人としか」
「それも事実だが、君たちの気持ちを無視して、自分の孫を優先してしまった悪い人でもあるんだ」
ロティアはソファから立ち上がり、ソペットに歩み寄った。そして、ソペットのしわだらけの手を両手で優しく握った。
「そんな風に言わないでください。わたしはむしろ、今、すごく嬉しいです。リジンのそばに、こんなにもリジンを思っている人がいたことが。わたしたちだけじゃ、リジンのつらさを和らげることはできないと思うんです。だから、ソペットさんたちと一緒に、リジンの力になれたらって思って、今、嬉しいし、心強いです」
フフランはソペットの肩に飛び移り、ソペットの頬に柔らかい頭をグイグイ押し付けた。
「ロティアの言う通りだよ、ソペットさん。安心したぜ、リジンが独りぼっちじゃなくて」
「……しかし、わたしは」
ソペットの震える話し方は、リジンとよく似ていた。よく似るほどに、リジンはソペットに親しんでいるのだろう。そう思うと、ロティアは心の底から安心することができた。
「ソペットさんは、わたしとフフランのことを嫌いではないですか?」
「当たり前だっ! だからこそ、今、贈り物をもらって、罪悪感で押しつぶされそうになったんだ。こんな優しい人たちにひどいことをしてしまったと」
言葉尻にかぶさるようなソペットの声に、ロティアはフフッと笑った。
「良かった。わたしもソペットさんのことが好きです。だからもう気にしないでください。明日は大好きなリジンのお誕生日ですよ? 楽しく過ごしましょう」
「リジンが笑ってくれるのが、オイラとロティアとソペットさんの願いだろ」
ソペットはかさついたくちびるをグッとかみしめ、それと一緒に目をギュッと閉じた。その隙間から涙がにじんでくる。
「……ああ、そうだね。今までで一番の誕生日にしてあげよう」
ロティアとフフランは笑顔でうなずいた。
その後、ロティアは自分とフフランがここへ来た真の目的をソペットに話した。ソペットもマレイと同じように泣いて喜んでくれた。それから、さっきのカフェでの話も伝えると、ソペットは指の先でこめかみを押さえて、石のように重たく感じられる頭を支えた。
「父親に責められ、どんどん痩せていき、暗くうつろになっていくリジンを見るのは、つらかったよ。でも、つらい思いをしても絵を描き続けたということは、リジンも絵を描くことが好きだと言う証拠だ。どんなにつらい思いをしても諦められないほどに。だから、今もきっと強がりを言っているだけだと思う。ロティアくんとフフランくんを失わないために」
「……そう、言われました。でも、わたしはわたしたちを優先するために、リジンが好きなことを、手放してほしくないんです。絶対にリジンを嫌いにならないってわかってもらえたら、一番良いんでしょうけど。だからせめて、何か魔法との良い付き合い方を見つけたいんです。リジンが嫌だって言っても、まだ、諦められなくて」
あの後、カフェでの話はそれきりになり、他愛のない話をして家に帰って来た。近況報告をし合って、楽しい家路だった。
ただ、道すがら似顔絵の露店を見つけた時、チョークアーティストを見ている時と同じ顔をしているリジンが黙りこんだことをロティアもフフランも見逃さなかった。
「リジンもまだ、絵を描きたいと思ってる。それは確かだと思うので」
「そうだね。わたしも、リジンと絵は強く結びついていると思っているよ」
ソペットはニヤッと何かを思い出したように笑い、ロティアとフフランの方を見た。いたずらを思いついた子どものような顔だ。
「……まだ三歳の時、リジンが行方不明になったんだ」
「えっ! 絵の才能がすごいせいで、誘拐とかですか?」
ロティアもいたずらっぽく笑うと、ソペットは「ハッハッハッ」と手を叩いて笑った。
「そんな大層なものじゃないよ。家族全員そろってこの家にいる時、ちょっと目を離した隙に見当たらなくなってね。ドアの鍵も窓の鍵もすべて閉まっているから、家のどこかに隠れているだろうと思った。それで、みんなで探したんだ。そしたら、どこにいたと思う?」
「あの絵がいっぱいの屋根裏か?」とフフラン。
「フカフカベッドの天蓋の上ですか?」とロティア。
ソペットはニコニコしながら首を横に振った。
「なんと、キッチンから通じている納屋にいたんだ」
「納屋! わたしは、自分の家の納屋って、暗いし狭いから、子どもの頃は苦手でした」
「そういう子どもが多いだろね。だから、わたしも驚いたよ。それでリジンに聞いたんだ。『どうして納屋なんかにいたんだ』って。そしたらあの子がこう答えたんだ」
ソペットは部屋の壁にかかった青いヒヤシンスの絵を指さした。
「『納屋には花の絵が無くてかわいそうだと思った』と。リジンは納屋の壁いっぱいに、チョークで花を描いていたんだ」
「わあ、リジンらしい考えですね!」
「ふふ、そうだろう。あの子は絵で人や空間を幸せにしたいと、子どもの頃から強く思っているんだと、その時感じたよ。そしてリジンの絵にはその力があると、わたしは信じているよ。だから、いつかリジンの絵で、家の壁をいっぱいにしたいんだ」
ロティアはサニアも同じことを言っていたことを思い出した。「生活の一部となって彩を与える」、それがリジンの絵だと。
ロティアも、もちろんフフランも同じように感じている。誰が見ても、リジンの絵から感じられるものは同じなのだ。
そんな人が、筆を折って良いはずない。
ロティアは燃えるように熱い胸に手を当てて、ギュッと手を握った。
「他にも教えてくれませんか、リジンの子どもの頃の絵の話」
ソペットは笑顔で「お安い御用だ」と答えてくれた。
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